繆斌工作(朝日新聞社の和平工作)

繆斌工作(朝日新聞社の和平工作)

繆斌工作(朝日新聞社の和平工作)

繆斌工作(朝日新聞社の和平工作)

繆斌工作(朝日新聞社の和平工作)

繆斌工作とは1944年9月頃から行われた繆斌(みゅうひん)と呼ばれた人物と首相小磯国昭や国務大臣情報院総裁、緒方竹虎などとの間に行われた会話である。これは外交とか和平工作と呼ぶのに値しない。当然これを原因として小磯内閣が倒れたこと以外、歴史上の出来事として取り上げる必要は認められない。ただこの事件を通して陸軍軍人やマスコミの体質、それがいかに外交常識を欠くかについて理解することができる。すなわち結論として繆斌が重慶政府または蒋介石を代理していたまたはそのエージェントと信じることはできない。

朝日新聞記者の暗躍

話は上海駐在の朝日新聞記者田村真作から緒方(元朝日新聞副社長)に持ち込まれた。繆斌は汪兆銘政権で立法院院長をしていたが何らかの事情で汪兆銘に疎まれ左遷された。その後考試院の副院長を務めていたが、無線機を操る趣味があり重慶と常時連絡があると、田村に売りこんだ。

当時の朝日新聞社はしばしば政治結社と変わらない動きを示していた。1940年ごろ田村の先輩の上海駐在員/ゾルゲのエージェント、尾崎秀実は汪兆銘工作に全面的な支持を訴えていた。蒋介石に反対する点で共産主義運動としては利害を共通するとみなしていたのだろう。もちろんここに登場する緒方、そして東久邇宮、石原莞爾は当時のソ連を指導者とする共産主義運動に支持を与えていたわけではない。ところが、その教養や発想はマルクス主義から来ており、人間が物質のみで動かされ戦争は各国が経済的な利害から発生させたと疑わなかった。

リヒャルト・ゾルゲの戦歴

朝日新聞社と汪兆銘政府は特別な関係を作った。

戴笠、藍衣社

繆斌の重慶の連絡相手は戴笠(たいりゅう)と呼ばれる人物で藍衣社(蒋介石の秘密テロ組織)のリーダーだった。当然汪兆銘政権切り崩しのための工作も行う。繆斌の狙いは日本の敗北を見越したうえで日本の首脳部と接触しその情報を戴笠に売り、蒋介石の復権のさいのアリバイ立証もしくは官職の獲得にあったとみられる。

繆斌は日本語の達者な人物で以前より朝日新聞記者や情報屋に重宝がられていた。ただ当時の日本人の多くは、テロ組織・クーデター組織に精神的に屈したところがあり、戴笠やまたこの動きを影で操る情報屋をかえって無条件で信用するところがあった。

また緒方は情報院総裁であるが名ばかりのポストで情報は新聞社にいた当時の方が集まっていたという。元来役所という組織はそういうもので情報は普通タテにしか伝わらない。またこれは小磯首相にもあてはまることだった。つまり軍事情報は参謀本部または軍令部で止まっており、内閣に入らなかった。小磯が退役した陸軍大将であってもこれは変わらない。つまり戦前の日本には独裁者どころか、情報が集中的に集まりそして政策を決定できるポストが存在しなかった。

小磯内閣成立時、東條英機は地位に恋々とし陸軍大臣に止まろうとした。その時東條は聖戦完遂を叫び、バドリオ内閣を許すなと叫んだ。しかし当時の情勢ではこれは和平交渉の禁圧と同義だ。東條は元来頭の弱い人物で掲げるスローガンは常に矛盾しているが、その矛盾に気づくことがない。すなわち日華事変の終息工作に常に反対し続けたがその理由は「駐兵権の獲得」だった。華北駐兵権は北清事変後の戦後処理で得られたもので古証文であるが条約上の権利で新しい要求ではない。ところが東條のユニークな点はこの駐兵権の内容(数量・地域)を明確にしないことだった。これでは蒋介石ならずとも内容を照会する必要が出る。すると東條は、質問するとは無礼なという態度に出るのが常だった。

東條は和平交渉または条約を論理的でなく権威的に考える癖があった。日華事変を終息させるとは日本兵を大陸から撤退させることに他ならない。東條はおそらく近代人ではなかったのだろう。外交関係を諸国間平等に置かず、上下関係でしか見ることができないグロテスクな中華趣味をもったと評すべきかもしれない。

ドンキホーテ小磯

東條内閣は国民や重臣に極めて人気のない内閣だった。戦争を始めた国の内閣、または首班に人気が集まらないケースは極めて珍しい。そして戦争に人気がなかったわけではない。ただただ東條個人に人気がなかった。20世紀の国家間の戦争で、侵略にせよ防衛にせよ国民に支持のなかった戦争はまず存在しない。国民は当初ともかく戦争に賛成し、長期戦とともに倦きてくる。

東條を放逐する運動は1942年後半、すなわち開戦後1年後から早くも開始されている。東條は並みの日本の指導者と比較して極めて陰湿なところがあった。すなわち政敵や自分の気に入らない人物を恣意的に投獄したりおそらく死を予想される戦場に平然と送りこんだ。この行為はあらゆる角度からみて当時の刑事罰の対象となりうる。東條はたとえ東京裁判で処刑されなくとも、国内刑法によって殺人罪として起訴することが可能な人物だった。

東條の頭には栄達、そして人事権力の維持という考えしかなかったと思われる。

大政翼賛会の国会議員が先頭にたち東條と戦いを開始した。議会で内閣不信任案を上程する動きが公然と行われた。東條は大政翼賛会とはいえ国民の代表を、「相手とするに足らない」と言い放った。この時、憲兵監視下でこのような活動をした議員に敬意が払わなければならない。最も中心にいたのは山崎達之輔であり、1979年まで存命した保利茂はその秘書だった。その後の自民党党人派の強靭さを十分に示している。それを受け、動いたのが四重臣だった。近衛文麿、若槻礼次郎、岡田啓介、平沼騏一郎である。以前4人ともあるいは日本を危うくする行動も確かにあった。しかしこの時の4人による倒閣運動は記憶されてよい。またこれを応援し昭和天皇の信任を喪失させたのは高松宮、東久邇宮である。最後に東條と抱き合い心中を計った岸信介も記憶されるべきだろう。

岸信介の回想

小磯国昭(1880−1950)
山形県出身、陸士12期、陸大。第一次大戦で西部戦線に派遣されフランス軍に所属する観戦武官を務めた。1930年陸軍省軍務局長。満州事変のさいの陸軍政治担当だが、当初事件が国会で問題となることはなく後年の軍務局長と比較して武勇談に欠ける。1932年3月事件に関与した。

1942年朝鮮総督となった。植民地政策として武断政治を引き続き実施、ここでも評判は芳しくない。極東軍事裁判で終身刑を宣告され獄死した。獄中自伝の「葛山鴻爪」は事実関係の誤りが多い。

だが東條が放逐された後総理大臣となった小磯国昭は東條を漫画化したような人物だった。小磯は太平洋戦争緒戦における勝利をみて、高松宮を満州国皇帝としフィリピンに帝国を名乗らせ三笠宮をその皇帝とするという案を出し、重臣の間にふれまわったことがある。

日本は開戦の詔勅で領土的な野心はもたないことを明確にしていた。小磯がこれがなぜ必要か、そして中世ヨーロッパは最早終焉し存在しないことがわからなかった。

日本の終戦直前の和平工作

また1943年11月にスターリンは対日参戦をルーズベルトに約束しており、広田=マリク会談から始まるソ連を仲介者とする和平工作は全くソ連の時間稼ぎに利用されるだけだった。一方陸軍は中国大陸での戦局が太平洋より良かったため、蒋介石が脱落する可能性を捨てきれなかった。これは陸軍の大局観の誤り、すなわち大陸での戦争解決のために英米と戦端を開くという愚かな策に拘泥していたためである。つまり視野がアジアの狭い範囲にとどまり世界戦争の本質がわかっていなかった。世界戦争では大きな戦線が決定的で、むしろ副次的戦線に固執すると失敗する。小さな戦争の解決のため大きな戦争、それも世界戦争に訴えるという策は当時でも経験のある重臣は無謀であると見抜いていた。

第二次大戦では太平洋戦線とヨーロッパ東部戦線が1943年までの間決定的であり、中国戦線は既に重要でなくなっており、重慶を占領しても亡命政権の成立を促がすだけで何ら戦局にプラスするところとならない。重慶を占領したと同時に東京を占領されたことを考えればすぐにわかることだ。日華事変と太平洋戦争は本質的に別の戦争だが、陸軍は前述の愚かな策に幻惑され重慶との和平工作に飛びついた。もちろん蒋介石はアメリカに背く事は自らの政権基盤の喪失となることに十分気づいており、和平工作に応じる可能性は100%ない。

繆斌の主張する和平案は

  • 満州処理問題については別に協定す
  • 日本は支那から完全に撤兵す
  • 重慶政府はとりあえず南京に留守府を設置し3ヶ月以内に南京に遷都す
  • 前項、留守府は重慶系の人物をもって組織す
  • 現南京政府の要人は日本政府において収容す
  • 日本は米英と和を構ず

というもので今日の目からみるとただの古臭い中華趣味にすぎない。すなわち、太平洋戦争が日華事変の延長と考えていたのは陸軍の一部と蒋介石の重慶政府にすぎない。この戦争は世界を二分しての戦いの一部であり、どちらかの陣営が全面的な敗亡に陥る前に一国が停戦することは、東條のいうバドリオ的解決に他ならない。現にブルガリアやハンガリーなど1945年1月までに単独で降伏していた。抜け道がないにもかかわらず自分の妖術を試せばあるかのように主張するのは無能な外交官の典型的動作だが、緒方は政治的責任がどのようなものか、すなわち誤った外交政策が国民全部を窮地に追い込みかねないという点がどうしてもわからない。

そしてこのような単純に現実を無視した提案をあたかも日中友好とか東亜の反欧陣営の結束とかはたまた反共陣営の構築だと称し後年においてもこれに関与した人々は全く反省しようとしない。

つまりこの時点で和平とは日本がドイツと完全に袂を分ち、アメリカを相手として単独で降伏する以外道はなく、手続きは中立国における外交ルートが存在しており一方的に意志を通告すれば足る話である。これはもちろん簡単な話ではない。そして困難は外への手続きではなく日本国内の意見の一致である。つまり重慶と和を講じても和となることはない。また重慶はアメリカの了解なしには絶対に和を講じない。この種の和平工作は戦局が悪化した国が陥る単純な落とし穴または悪あがきである。偽エージェントを誤って信頼し、大局的に誤った方針で和平努力をしたからといって平和に貢献したなどとは到底言えない。

繆斌来日す

繆斌は1945年3月16日陸軍機に乗り来日した。陸軍は緒方に動かされ最後は一人という条件で応じた。参謀本部は重慶政府の動向をよく抑えており、この許可は繆斌が重慶政府を代理していないことを知ったうえでの判断とみられる。

そして朝日新聞の大田照彦記者が大体のスケジュールをたて翌日東久邇宮を訪問した。ここで東久邇宮は繆斌と意気投合したようである。早速東久邇宮はすっかり乗り気な小磯と緒方に激励の言葉を贈り、更に杉山陸相と梅津参謀総長を呼び検討するように説得した。ここまでは朝日の上海・田村、東京・大田の仕組んだシナリオ通りに進んだ。

しかし重光葵外相は普通のことが理解できる人物だった。海軍を代表し小磯を助ける役割を果たしていた米内光政を説得し工作の中断を訴えた。緒方と親しかった米内もさすがに、色を失った。小磯は3月21日、抜き打ちで最高戦争指導者会議を開催しそこで工作について前向きとすることを決定しようとした。しかし会議ではいきなりの議題とされたにもかかわらず、首相以外は全て反対し、むしろ工作打ち切りとし繆斌を帰国させることが決定された。

昭和天皇の反対

それでも小磯はあきらめなかった。決定に反し繆斌を国内に残留させ、更に要路と接触させた。東久邇宮邸に繆斌を日中多く滞在させ、また緒方と朝日新聞記者が石原莞爾や頭山満などの大アジア主義者とも接触させた。

4月3日、重光は宮中に呼ばれた。昭和天皇は昨日小磯が訪問し繆斌工作の件と本人の現役復帰および陸相兼任を要求しに来たと語られた。重光は3月21日の決定を反故にするやり方を批判し繆斌はすでに帰国したはずだと伝えた。

昭和天皇はまだ繆斌は国内にいると伝え、謀略的手段をとることは戦局上できないと意見を述べられた。

これでもまだ小磯は工作成功の可能性を信じ、昭和天皇と繆斌の会見を準備し始めた。ここに至って梅津参謀総長および海軍は小磯を辞職させるしかないと判断を固めた。陸軍省では阿南次官が賛成に回るなど混乱したが、省部とも一応反対でまとまった。阿南は杉山の後任としてこの時陸相候補になっていたが、外交の基本がわかっている人物ではない。(軍事の基本もわかっていたとは思えず、要は浪花節の人生である。)

ある陸軍省軍務局課員の阿南支持

4月4日米内は小磯に引導を渡した。翌日内閣は総辞職した。小磯の失脚とともに繆斌工作は終了した。

エピローグ

繆斌は1946年裁判にかけられた。自身は対日和平に努力したと弁明したが裁判長は国民政府はなんらあずかり知らないと、その弁明を否定した。4月3日死刑を宣告され、5月21日後蘇州獅子国監獄で処刑された。

小磯と緒方は戦後になっても繆斌工作が成功すれば条件もよく早期に和平が達成されたと信じている。元ジャーナリストであったためか緒方は戦後も政治的影響力を保ち、重光や陸軍を非難し続けた。

漢学者吉田東佑は「緒方ほどの人物がかような失敗をしたのは、…日本人の中国に対する一般的無理解が然らしめたものであろう」と述べた。そうではあるまい。緒方が程の人物であるかは別にして、あまりの軍事・外交関係の無知という日本のジャーナリストの全般的傾向を示しただけだろう。なお国連難民高等弁務官を務めた緒方貞子は義理の娘である。

小磯についての獄中での消息はよく知られている。同じくA級戦犯として巣鴨に入管し獄死した東郷茂徳はこの人と平沼騏一郎を対象として次の句を読んだ。

此人等 国を指揮せしかと 思ふ時 型の小ささに 驚き果てぬ

へたな短歌ではある。



小磯国昭 『葛山鴻爪』丸ノ内出版 1968
非常な大著である。満州事変前後の陸軍内部事情の解明に欠かせない。ただ事実と感想の区切りがはっきりしない。それでも文章は平明闊達と評すべきだろう。
緒方竹虎 『一軍人の生涯』文芸春秋新社 1960
矢次一夫 『東條英機とその時代』 三天書房 1980

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