帝国陸軍は掃討戦の得意な軍隊ではない。日清、日露の両戦とも掃討戦に失敗した。そして第1次大戦で、掃討戦に成功したのはブルシロフ攻勢とカポレット突破戦以外は見当たらない。包囲殲滅戦では掃討戦自体が起きない。また包囲を目論んで失敗した例も多い。相手が内戦で鉄道が利用できる場合は包囲戦がなりたたないばかりでなく、先端包囲を逆に喫して大敗に陥ることもある。マルヌ会戦はその好例で第2次大戦のスターリングラード戦も大局においてあてはまる。徐州作戦でも主力軍を捕捉できなかった。
ところが、上海攻防戦では大突破成功により、中国上海攻囲軍は全面崩壊に追い込まれた。また以降は杭州湾上陸部隊(柳川平助)と上海派遣軍(朝香宮)の南京合流による挟撃戦のような形となった。
掃討戦の実情
この勝利の仕方は圧倒的だった。普通、他国軍の支持がないと壊走した軍は立ち直れない。包囲戦では殲滅というものの、完全殲滅例は少ない。ところが掃討戦をかけられると過半の部隊が間違いなく殲滅される。ブルシロフ攻勢に敗北したオーストリア軍、カポレットのイタリー軍が参考となる。蒋介石が重慶に遠隔地とは言え踏みとどまったことは中国人の粘り強さと強靭性を示すものだろう。
掃討戦は、松井石根の暴走で始まった。だが、この局面になって暴走しない司令官はいるだろうか。この戦いはおそらく攻撃側成功の最も徹底した例だった。
松井石根とエドガースノウ
それでは中国軍はなぜこのような惨敗を喫したのだろうか?
理由の一つはドイツ国防軍の失敗だが塹壕への依拠である。この時ドイツ国防軍は前線に100名以上の軍事顧問を派遣し事実上前線軍の指揮をとっていた。そして中国軍の敗因には第1次大戦のドイツ軍の失敗と重なるところが多い。
まず中国軍は塹壕に頼りすぎた。ドイツ軍は西部戦線でヒンデンブルグ線、ヘルマン線、アントワープ=ムース線と3線にわたる防御線を準備した結果、連合国の最終攻勢では不必要なまでの防御線依拠の姿勢に退嬰化してしまった。本来塹壕とは即興で必要な地点に作るべきもので、恒久施設と考えてはならないのではないか。
第二に現在地死守の姿勢である。これにより強化された機関銃ポスト(トーチカ)に密集して兵員を置く誤りを生じた。日本軍の重砲の威力は第1次大戦のものとは比較にならない。第1次大戦では野砲75ミリが主流だったが陸軍は100ミリ、150ミリの重砲をむしろ主力としていた。口径の3乗に炸薬量は比例するから破壊力の点で問題にならない。重砲だから歩兵とともに前進はできないが、前面の密集した敵には効果が絶大だった。また砲術も独特のものがあり、間接射撃でも目標に集中、除々に増大させる方法をとり入れ敵兵に大きな恐怖を与えた。
ブルフミューラーの砲術
そして第三に浸透戦術についての対応策の不徹底である。日本軍は前触れなく突撃隊を数個分隊で組織し軽機関銃を先頭に浸透してきた。この戦術についての理解がまったく中国軍に欠けていた。第1次大戦のカイザー攻勢では、ドイツ軍はこの浸透戦術を使ったのだから、ドイツ軍事顧問団はよく承知していたはずだ。もちろん日本軍もその間の技術進歩とくにフランス装備を取り入れ軽機関銃を導入していたので、そのまま第1次大戦のレベルで考えては難しい。
ドイツ軍事顧問団長ファルケンハウゼンは第1次大戦でルーデンドルフと戦略予備の使用方法で対立、革職されているから、ドイツ軍の内部抗争と関係があるのかもしれない。ラーベの日記によると南京に居住した顧問およそ30から40人は二派にわかれ抗争していたという。
ドイツ軍の内部抗争
第四に中国軍の総予備が到着できなかったことだろう。これは鉄道が揚子江沿岸を走っていたためだ。鉄道が海(河)岸線を走っていては軍用の役にたたない。開戦前に研究すべきだった。せめて内陸に軽便鉄道などは用意すべきだった。これは退却戦のときも捕捉される原因となった。
ただ総予備が到着したとして果たして日本軍の浸透戦術を防戦できたかはわからない。
第五に便衣への依存である。中国兵は通常降伏せず、制服を投げ捨て民間人(便衣)の服に着替え攻撃を続行した。これを人民戦争とかゲリラ戦といって擁護するむきもあるがとんでもない誤りである。孤立した民間人の服に着替えた兵士はなにも効果的なことはできない。またこれは戦時国際法違反(と思われる。実際は想定していない。)だから他の民間人も含め射殺の対象となってしまう。これも第1次大戦でドイツ軍(敵地で戦ったため。ロシア軍もタンネンベルグ戦でナイデンブルグに於いてこの事態に遭遇、町を徹底破壊した。)が多く経験したが、民間人の服を着た人間が兵士を射殺したら、それは戦闘行為でなく殺人である。ドイツ軍は、この報復として通例住民多数を処刑した。この件はしかも戦後ベルギーを除いて連合国は戦争犯罪に問わなかった。
日本軍は便衣兵を捜索し嫌疑がかかった人間をその場で射殺したようだが、これ自体は解釈が難しい行為でありとくに敵が組織だってやった場合、射殺が即、戦時国際法違反とは言えない。ただし後送したり摘出したのち射殺は疑義がある。
中国軍にとり効果的な方法は将校が先頭にたち降伏し、それを外国通信社などに公開することである。そうすれば、捕虜の殺害は困難となる。射殺されるより捕虜の後送は敵軍に一層の負担をかける。ただこういった一般的な降伏はともかく兵員の投降についても中国軍は禁止していたようである。個人投降する際は一切の武器を棄て、動かず、相手国兵士の言葉で投降意思を告げなければいけない。この時、学生部隊を除いて中国兵で日本語のできる兵士は少なかった。
第六として中国軍上級司令官の無能がある。蒋介石そのものの軍事能力も疑問符がつく。また当時上海攻囲軍のうち華北で徴募した兵士は必ずしも蒋に従順ではなく無錫で抗命事件を引き起こしているので、まだ軍閥の影響が残っていたのかもしれない。大場鎮陥落後は浮き足だち防衛線をどこに引くかという点で有効な命令がくだせず、また杭州湾上陸部隊に挟撃を受けることを恐れた。ドイツ人らはヒンデンブルグ線と仮称した防衛線を江陰から無錫の線で引いたようだが、これがどの程度準備された防衛線か不明である。(蒋介石書簡によると、7月12日馮玉祥に塹壕および関連施設の作成を命じている。)ともかく大場鎮陥落後、算を乱した敗走となった。ドイツの軍事顧問団に過度に依存した結果だろう。
ドイツ人の関与は前線防御という作戦・戦術面に限定されていた。そして前線のドイツ人が自決した後は無秩序のまま追撃戦に遭遇してしまった。中国人は師団を師と呼称した。しかし内情は近代軍を一知半解としたものだった。すなわち帝国陸軍の師団(4単位)は4個歩兵連隊を基幹とし、様々な機能を随伴させている。
当然軍隊だから、完結した機能を持つ。ところが中国軍(現在の人民解放軍もこの傾向を引きずっている)は、斥候、工兵、通信、病院、輜重などの機能を欠いていた。日本軍の1個師団(戦時編制・4単位)は2万5000人に達する。ところが中国の師は1万人足らずだった。つまり基幹の歩兵連隊を除けば、なにもない状態だった。このため戦時には女性を含む民兵のような周辺部隊を組織(雑兵と呼称された。)した。国運のかげりを心痛する都市部のインテリがこの中核を形成した。
この周辺部隊は敗軍となり退却する際に足手まといとなった。これら将来の中枢を担うべき人材の喪失自体が残念なことだ。そして蒋介石のまわりには旧式文人のような人物しかおらず、撤退戦という難しい局面に対応できる能力はなかった。そしてこのような編制では即興により殿軍を編成し、予備や直協を背後に配置し防衛線を数線に亘り設営することは困難だっただろう。退却の際、全滅の覚悟のある殿軍を組織することは必須である。もちろんその殿軍が敵に悟られることなく、待ち伏せの形となれば一挙逆転の攻勢移転に出ることも可能である。ただ航空機や暗号解読法が発達した時代では、そう簡単に成り立つ戦術ではない。
戦後、蒋介石の参謀総長何応欽は敗因として武器とりわけ重砲と飛行機の劣勢をあげた。重砲はともかく飛行機は戦場心理に与えた影響だけと思われる。この分析だけでも現場を深く研究した参謀ではないことがわかる。
96式陸攻
第七、最後に戦略上の失敗があげられる。ファルケンハウゼンの作戦案は日本軍を挑発して、上海から外に出させ、ゼークトラインで防御の姿勢をとり攻撃する日本軍を撃滅しようというものである。もし日本軍が上海に誘引されなかったら、という当然の疑問が生じる。すると上海が手にはいり、ドイツ人の権益が拡大すると言うことだが、長期戦となり華北を抑えられたら対策はあるのだろうか。
また、防御戦はどうしても攻撃精神を減退させる。作戦案は巧緻なものだが、なにか単純性が欠ける。
中国軍の勝機
そして日本軍の作戦は見事だったと評するべきだろう。戦死者は4ヶ月で略2万人であるが総軍55万人からみれば第1次大戦の基準からは被害は最小限だったと言える。第1次大戦のソンムでは、イギリス軍は1日だけで6万人の戦死傷・行方不明者を出している。前面の敵はこの時とほぼ同数かつ戦線幅も同一である。
約6ヶ月後に行われた河南平定戦。北支方面軍第35師団(3単位:東京・甲府・佐倉)軽機関銃を先頭にたてている。後ろの1個将校が白刃を振るっているがカメラマンの注文に応えたものだろう。刀は指揮用だが、この時は将校の外観をとることが禁止され肩章もはずし装備も兵士と変わることがなく、日本刀を振るうチャンスは普通なかった。また投降捕虜などを斬殺することは残念ながら数多くあったようだが普通、騎兵がもつサーベルを用いた。上のような反りのはげしい刀は古刀で実際的でない。それでも実弾を発射しているので演習ではない。報道班も相当に勇敢だった。この段階では弾帯と水筒以外一切装備しない徹底した軽装である。写真の背後にはおそらく直協部隊が控えており、臨時給養の面倒をみた。日本の歩兵は匍匐前進の訓練をよく受けており、射撃は常に伏射で行った。これは第1次大戦では狙撃兵しかとらない格好であり、日本軍の徹底ぶりがうかがえる。日本人はこの前進の仕方を当然とするが、採用した国はない。中国兵は立射坐射が多くまた集団で走って突撃した。日本兵は匍匐のため地面を這う。実は塹壕の周囲は極めて汚い。なにしろゴミの収集・し尿処理などない。このため上海攻防戦では日本兵は中国兵の脱糞のあとを這って通過せねばならなかった。この事を特別に記した日本軍兵士の記録は多い。
旧軍は第1次大戦の教訓を非常によく吸収していた。このことは西部戦線で長く戦ったファルケンハウゼンの作戦をほぼ無効にしていることで証明できる。
ところが第2次大戦の陸戦はヒトラーの電撃戦という新概念で開始され、ソ連の戦車軍団という前面の全機甲軍団化ー全縦深の一挙突破という第1次大戦とは無縁の地平で終了した。その段階では旧軍の改良につぐ改良という手段では限界だったともいえる。ただこの戦いで見せた旧軍の第1次大戦型の陣地戦突破の模範例のような戦い振りも誇りとするに足る。
それでも今日の人は彼我の兵力バランスを念頭に置いて欲しい。この時日本は常備の陸軍は35万人にすぎなかった。対する中国軍(国民)は300万人を抱えていた。現在の自衛隊と人民解放軍の比率と大差がない。重大なのは個々の戦闘に勝てても、全土を掌握するにはどの程度の兵力が必要かという点である。
すなわち、戦闘に勝っても常に応じられる講和条件を用意せねばならず、また厳しい条件を付ける事はできない。この時参謀本部の軍人はよくわかっていた。わかっていなかったのは近衛・広田・東條である。そしてこの三人が太平洋戦争まで日本を引っ張ることになる。
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