メソポタミア戦線

メソポタミア戦線

メソポタミア戦線

メソポタミア戦線

メソポタミア戦線

メソポタミア戦線

メソポタミア戦線

トルコの参戦により一番打撃を受けたのはロシアだった。ダーダネルス、ボスフォラス海峡の閉鎖により、年間不凍結港はウラジオストック港に限られ、そこはペテログラードから6000km離れていた。当然露土間の戦いは、コーカサス山中に求められたがイギリスはインドからペルシャ湾に上陸しチグリス河を溯上、カスピ海西岸と連絡をつけるルートの開拓を考えた。

当時ペルシャを横断するルートは砂漠地帯を走破せねばならず、鉄道が利用できないため困難と考えられた。

開戦とほぼ同時1914年11月にイギリス軍1個師団はバスラに上陸し、橋頭堡を築くことに成功した。抵抗はほとんど受けなかった。

この時、トルコ軍の前進基地はクルナにあったが、兵力差をみて内陸に撤退した。

1915年5月からイギリス軍は内陸に前進を開始した。河を溯上する方法でタウンゼントに率いられた本隊1個師団はシャトルアラブ川、ゴーリングに率いられた1隊はユーフラテス河を昇った。

ゴーリングはナシリエにいたトルコの守備隊を撃破し、(1915.7.24)そこに止まった。

タウンゼントはアマルナを目指して進み9月28日占領した。この頃ガリポリではイギリス軍が苦戦していた。この戦線で勝利することにより、トルコ軍をよりメソポタミアに引付けたいと本国は判断した。バクダットへの進撃命令が出された。

タウンゼントはクテシフォンで塹壕を構えたトルコ軍の抵抗に遭遇した。11月6日から11月22日まで続いた戦いは、トルコ軍優勢で終了した。タウンゼントはクトまで退き、そこで増援軍を待つことにした。

トルコ・メソポタミア軍(ヌルードディン)は追撃し、12月7日クトを包囲した。この時までにタウンゼントは8500人の戦死または行方不明を出しており、残る兵力は輜重隊を合わせ13500人に過ぎなかった。

このイギリス軍の苦境をみてロシアコーカサス軍(ニコライ・ユデニッシ)はバクー経由カスピ海を横断しペルシャに上陸する救援軍派遣を計画した。バラトフの率いる一隊は2月22日ケルマンシャーに到着し、パイタク峠を越えようとするところで、トルコ軍の抵抗に出合った。小競り合いは5月まで続いたが、気候がロシア軍の耐えるところとならず、夏を前に撤退した。この辺りは夏場日中50度を越える。

トルコ軍にも参謀としてドイツの退役した将軍(von der Goltz)がいたが、3月には熱病で死亡(毒殺説もある)するなど惨戦の様相を呈した。

1916年1月、ゴーリングはナシリエから陸路、約1個師団のヤングハズバンド隊を組織、救援に向かわせた。しかしシェイクサアドでトルコ第6軍(カリル:エンベルの甥)の猛反撃に遭遇した。ここで部隊の三分の一の損害を受けたが、ヤングハズバンドはひるまず突撃しついにシェイクサアドを占領した。しかしカリルは一旦退いたがすぐ上流のワジで部隊を再編し防衛線を築いた。救援隊総指揮に任じられたアイルマーはここを奇襲することを命令した。ヤングハズバンド隊は向かっていったが、トルコ軍は出会い頭に被害を与えると、すぐ後方のハンナに退き用意された防衛線にまた篭った。

アイルマーはハンナを2月中猛砲撃したが、沼地のうえ泥を跳ね上げるだけで効果はあまりなかった。この時イギリス軍には2万の兵力があったが、カリルの手許には6500人の兵士しか残されていなかったと言う。3月に入りガリポリからの増援も受けとり、アイルマーはハンナを正面突破することにした。3月6日から3日間の攻撃はしかしトルコ軍塹壕を突破できず、重大な損失を蒙って失敗した。

アイルマーは、4月6日攻撃を再開したが、ここまでに常時2個師団の兵力で25000人の被害を受けさらに疫病による被害も重なった。一方のトルコ軍の被害は1万人に満たなかった。4月24日イギリス軍は絶望的な試みを実施した。宵闇にまぎれ帆船に偽装した蒸気船(ユルナー)に救援の物資を積みクトに向かわせた。しかしトルコ軍はチグリス河に大索を張り警戒していた。蒸気船は外階段をひっかけ停止した。トルコ軍は猛射を浴びせ撃沈した。イギリス側に生存者はなかった。

イギリス軍の解囲のための攻撃はいずれも失敗し、タウンゼントはついに1916年4月29日降伏の已む無きに至った。約1450人の戦傷病者はバスラに捕虜交換要員として送られた他12000人が捕虜となった。イギリス軍はトルコ軍に100万ポンドを支払う代わりに釈放する提案を行ったが、エンベルは許さなかった。この交渉を行ったのはアラビアのロレンスである。エンベルは顛末を通信社に発表、イギリスは面目を失った。

サイクスピコ協定

イギリス軍はアマルナ・ナシリエに退き防御陣地を構築、冬を待った。1917年になると、パレスチナのトルコの敗勢が確定し、メソポタミアからトルコ軍は軍を振り向けざるを得なくなった。

1917年2月、新たに司令官に任命されたモーデは再度チグリス河を溯上、クトでトルコ軍を破った。ここを守備するトルコ第6軍(カリル)はバクダットで防御線を引こうとしたが、モーデは急追し、3月11日ついにバクダットを陥落させた。モーデは酷暑をおして前進しようとしたが、兵士は疫病に倒れがちで、自身も10月にコレラを発病し翌月死亡した。

この間、ダンスター軍と呼ばれる一隊はついにハマダン経由、8月4日バクーに到達し、実質ロシアとの打通に成功した。しかしこの成功もつかの間で、ロシア革命によりコーカサス戦線が崩壊すると、トルコ軍は一挙に黒海のバツーミまたアゼルバイジャンを通過してカスピ海に殺到する形勢を示した。トルコ軍は9月14日、バクーを占領イギリス軍を撤退させた。トルコ軍は翌年の休戦まで、カスピ海西岸を保持することになる。

コーカサス戦線

1917年の冬は再度トルコ、チグリス軍(ハッキ)が南下チクリット周辺で戦いが発生したが両軍とも決戦を避けた。これはイギリス軍が西部戦線の戦況悪化により増援軍の余裕がなくなったこと、トルコ軍はカスピ海東岸の占領を狙うなど、エンベルの冒険的方針に沿ったためである。翌年も戦線はチクリットーモスル油田で膠着した。目立った戦いはイギリス軍がトルコ軍を休戦協定発効後に急襲し数百名の撤退するトルコ軍兵士の命を奪っただけだった。(シャルカットの戦い)憎らしいトルコ人めと最もイギリス国内が興奮していた時期ではあったが。

イギリス軍の戦略拠点(バクー油田、モスル油田)の占領は全て、休戦後のことである。

大イラク革命



Barker, A. J., The Basard War : Mesopotamia, 1914-1918, New York, 1967
Townshend, Major-General, Sir Charles, My Campaign in Mesopotamia, London, 1920
Dunsterville, Major-General L.C. The Adventure of Dunsterforce, London, 1920
Miller, R. Kut, the Death of an Army, London, 1969

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