メーメル問題

メーメルとは現在のリトアニア領クライペダである。

フランスはベルサイユ条約によりここがフランスの委任統治領とされたことから50人ほどの兵士を駐留させ、1919年から4年間メーメル領(Memel Gebiete)として軍政をしいた。

メーメルの歴史

メーメルは1252年ドイツ騎士団のオステルナ(Poppo von Osterna)により建設され、当初は新ドルトムントまたはメーメル(=ニーメン)ブルグと呼ばれた。その後ハンザ同盟に加わったが13世紀および14世紀にたびたびリトアニアとポーランドに襲撃されている。

その後ドイツ騎士団の管長をつとめたホーエンツォレルン家がブランデンブルグ公国をも支配するにおよび、その版図に編入された。そして1607年プロイセン王国が建設されるとその一部となった。

17世紀には一時、スウェーデンの支配に置かれたこともある。また1757年および1813年にはロシア軍がここを占領した。またナポレオン戦争の最中、イエナの戦いに敗れプロイセン王フリードリッヒ・ウィルヘルムV世はここまで逃れ、ここで農奴解放令を発した。ともあれここはドイツ人が多数を占め、貿易港として賑わった。

交易品の太宗を占めるものはロシア産の材木でニーメン川(ロシア語:ネマン川)を筏で運ばれた。この結果メーメルには製材工場および染料工場が集った。当時ニーメン川は1万トンクラスの貨物船がグロドノまで遡行できた。

フランス委任統治領とリトアニア軍の侵攻

1910年頃のメーメル。アレグザンダー広場で右の建物は市庁舎。

ベルサイユ条約により、ニーメン川の北部がメーメル領とされ、フランスの委任統治領とされた。フランスはここで独自の通貨や切手を発行した。

だが1923年突然リトアニア軍が市内に突入した。これに対しフランス軍は応戦せず、リトアニア政府と国際連盟の(対独戦)連合国代表大使の間の話し合いで決着することが決められた。

1924年に至り、フランスはメーメル領をリトアニア領の一部と認め、その中の自治区域とすることで決着が計られた。

その後の歴史

しかしメーメルにおける1938年の選挙で、ナチス党(NSDAP)が大勝した。1939年3月、ヒトラーがプラハを占領しチェコを保護国化するとメーメル市民は興奮し即刻ドイツと統合することを主張した。うろたえたリトアニア政府は3月22日ヒトラーに自発的返還を申し出、受け入れられた。ヒトラーはプラハからベルリンに戻ると直ちに海路メーメルに向かい市民の大歓迎を受けた。

ヒトラーが船に乗った数少ない記録だが、どうも船酔いにかかったらしい。これをもってヒトラーはドイツ本体と東プロイセンを分離するポーランド回廊の存在に怒り第二次大戦の原因となったとする論者がいるがどうだろうか。またメーメル併合をヒトラーの際限のない領土欲の現れだとする主張、正反対のポーランドとの外交取引でダンチッヒ返還と交換条件でメーメルをポーランドに渡すことを考えたとする主張が並立している。

しかし事実は単純でドイツ人にせよポーランド人にせよメーメルが死活的重要な土地だとは考えずリトアニア人のみがそのように考えたということだろう。

第二次大戦末期ソ連軍が大挙進撃するなか、ドイツはメーメルの全市民を海路キールまで移送することを決定し実行された。この決定によりメーメルからドイツ系市民は姿を消した。

1945年4月ソ連軍はメーメルを占領しソ連領に編入した。

1991年リトアニアは独立、メーメル(クライペダ)は順当にリトアニアの版図に再度戻った。1998年末の人口は202千人(1905年当時21千人)と伝えられる。


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