帝国憲法(明治憲法)第11条
「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」
第12条
「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」
以上が戦前猛威を振るったとされる「統帥権」について憲法条項の全てである。ただし、後述の通り、第12条は統帥権について述べたものではない。
これではいわゆる統帥部(参謀本部・軍令部)がどのように天皇を補佐するのかは明文化されていない。これは国務各大臣が天皇を輔弼することが明文で示されているのに比べ憲法上の扱いが低い感は免れない。
この憲法11条の解釈は「軍令部・参謀本部は帷幄の中(有事における軍事作戦上のこと)にあって陛下の大権に参画するもので、軍令部・参謀本部の意見は政府はただ参考として重要視すればいいのであって、何らの決定権はない」と美濃部達吉は西園寺の求めに応じ回答している。
つまり平時における編制・常備兵額を軍令部・参謀本部が決定に参画できる権能を有することはない。そして、憲法11条と12条は直接関係がない。
憲法第12条はあくまでも内閣が議会と離れて、編制および常備兵額を定めることができるとしたものだ。これは当然のことでもし軍令部・参謀本部が常備兵額(艦隊の構成)などを決定することができれば予算についても自ら決めることができ議会の権能は失われてしまう。つまり憲法を停止すると同義である。このような乱暴な議論はドイツ・オーストリアなど立憲君主制を標榜する国家でも生じることはなかった。憲法12条がなぜ明治憲法に入ったかと言えば、予算が否決されたさいに天皇の個人財産により支出することで兵力を一時的にせよ維持するという考えがあったようだ。この項目は他国の憲法にはあまりないと思われる。
ロンドン軍縮会議に伴う統帥権干犯問題は、直接には法務官僚の平沼騏一郎が権力欲から海軍に迎合し表に出たものだが、理論的には北一輝ら社会主義者と官僚・軍官僚がこの当然の法理をネジ負げた。驚くべきことに議会でも政友会総裁の鈴木喜三郎が義弟の鳩山一郎と組んで、平沼や軍令部に迎合した。鳩山という人物は金銭にも汚く、育ちがよい家庭を作れたとは思えない。
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それでは各種政令等ではどうだろうか。
軍令参謀本部条例では第2条が関係する。
「参謀総長ハ陸軍大将若シクハ陸軍中将ヲ以テ親補シ帷幄ノ軍務ニ参画シ国防及用兵ニ関スル計画ヲ掌リ参謀本部ヲ統轄ス」
これによれば天皇に意見を表明しまたその命令を受けることができるのは参謀総長に限定される。参謀総長はこの権能を通して実際の統帥を実行するのが普通である。ドイツ(第二帝政)では参謀総長は参謀本部と野戦軍すべての人事を総覧し、作戦計画も参謀総長の名前で命令される。ところが日本では人事は陸軍省(大臣・教育総監)が掌握し、戦時の作戦計画とりわけ戦闘序列の発令は天皇の命令(勅令)によるものとされた。
これでは参謀総長の権限は著しく限定されたものとなる(参謀総長の統帥上の命令も天皇から了解を得た動員・開進計画の範囲を越えると奉勅命令「勅命にもとづいた参謀総長の命令」が必要だった。ただ作戦計画は野戦軍司令官が命令するのが建前である。そして動員・開進計画は陸軍予備経費を越えると臨時予算となり議会の承認も必要である。すなわち戦前の軍事行動は参謀総長が独走したものではなく、必ず議会の承認があったことを忘れてはならない。実際参謀総長や参謀本部次長が好戦的であった形跡はあまりない。そして衆議院は男子のみに限定された普通選挙が昭和以降の選挙では実施されていた)。
更に内閣官制では第7条が関係する。
「事の軍機軍令ニ係ワリ奏上スルモノハ天皇ノ旨ニヨリ之ヲ内閣ニ下付セラルルノ件ヲ除ク外陸軍大臣海軍大臣ヨリ内閣総理大臣ニ報告スヘシ」
悪文で何をいいたいのかよくわからない。意図的にそうしたのだろう。これの解釈は戦時における作戦は参謀総長が天皇に直接報告することがあるが、それ以外は陸軍大臣を通して首相に直ちに報告し、また戦時の作戦についても天皇への報告後直ちに首相に報告する意味だとされる。
この解釈を条文から推定できるのは相当に役所言葉に精通するか、またはこの条項を利用して何か企むものしかいないだろう。ただこの規定に先立つ太政官達内閣職権からはこのようにしか解釈できない。
すなわち参謀総長は陸軍大臣を通じて戦時でも作戦を首相に報告せねばならないのだ。ところが参謀本部は自分の職掌のみを考え作戦遂行に不利のなる意見を首相から言われるのを避け、また首相は陸相や外相すら指導できない状態に陥っていた。すなわち首相が内閣官制にもとづき断乎として陸相に作戦を知らせるよう要求すれば可能だった。つまり戦時の統帥権の独立すら日本には完全には存在していなかった。
結論から見て、これは奇説ととられるかもしれない。
ロンドン条約に端を発した統帥権干犯問題は北一輝の造語自体の強さから出たものである。加藤寛治、末次信正の主張は常備兵額(=艦隊)は内閣と独立して軍令部長が決定すべきものだ、というもので、当時の法理全般の解釈とは異なり、当時の言論界でも受け入れられなかった。
そして、陸軍大学の教科書である『統帥参考』や『統帥綱領』の中の統帥権独立は軍令で決められた解釈を越えるものであって、これ自体も異常の説である。そもそも、この二つは軍事機密とされ陸大卒業生や受験生にしか読まれない性格のもので、周知を目的とする法令とは異なる。また素直に『統帥参考』、『統帥綱領』を信じれば天皇の命令にすら従う必要がなくなる。
全体として統帥権の解釈については、軍令や内閣官制の漢字から来る異様な響き(統帥・軍機・軍令・帷幄など)と曖昧さが、単純な混乱を招いたにすぎず、内閣が断乎として法制上の連続性を維持すれば回避できたと思われる。また混乱の中心にいつも近衛文麿がいるのは、この人間の法制を理解しようという姿勢が欠けることに起因しているのではないか。
統帥権をめぐる議論は吉野作造が二重政府批判、すなわち参謀本部と文民政府の二つが日本にあると論難したことから始まる。吉野の批判は明治憲法の法理を理解せず、単なるジャーナリスト的批判を与えただけである。この批判が近衛のマルクス主義的教養と交じり合ったのだろう。
俗流統帥論
統帥権は戦時における作戦の秘匿から生じた法理であるにもかかわらず、統帥部強いては軍参謀部、師団参謀部が内閣または上級司令部と独立して軍事作戦を計画・実行できると俗流軍人が思い始めたのは満州事変がきっかけである。
それまでは、政治が統帥に屈することはまずなかった。1928年4月、第二次山東出兵が発動されたが、田中義一首相は第一次山東出兵が空振りに終わったため及び腰であり、4月19日、天津軍のうち3個中隊(小泉大隊)だけ派遣した。ところが済南情勢はにわかに悪化し、第6師団全部を派遣しても追いつかない形勢となった。この急変をうけて、陸軍内で会議がもたれた(出席者:陸相白川義則、次官畑英太郎、参謀総長鈴木荘六、参謀次長南次郎、作戦部長荒木貞夫)。
この会議での出兵強硬論者は荒木貞夫であった。だが、畑は荒木に向かって「君は二言目には統帥、統帥というが、だいたい政治の前には統帥もヘチマもないではないか」と政治の優位を説いた。これは当然であろう。これにたいし荒木は「あなたも軍人ではないか。すでに軍事参議官も集まって、軍としての出兵を決定したのに、政府の反対で、これが蹂躙されてよいのか、こんなことをしていると、憲法の軽視となり、その波及するところ、ついに不測の事態をおこすであろう」と畑に食って掛かった。
このとき、統帥部はこのように内閣に弱かったのである。
だが、張作霖爆殺事件、満州事変と進むと、独断専行も統帥権と関係があるように論じられた。いわば緊急避難行為をもって、クーデターが合理化されるようになったのである。そして、大阪ではゴーストップ事件というような軍刑法(軍律)に関連する事件までもが、統帥権と関係づけられて論じられた。
ゴーストップ事件
軍事問題について陸軍に全てを任せる首相、有事法制に熱心さを欠いた議会がむしろ問題で、憲法の条項や陸軍の体質より、軍事問題から逃げ回ろうとする社会そのものが問われるべきだろう。簡単にいえば、軍事作戦では法制と離れて司令官が独断専行せざるを得ない。
事前作戦計画でその任務を与えられていないとしても、友軍や自国の民間人が攻撃され全滅の危機にあるのをみて野戦軍司令官が放置することはいかなる角度からも許されない。つまり、時には事前の計画に反する行動を野戦軍司令官はとる必要がある。原始的には統帥権独立とは軍事作戦でしばしば起こるこういった緊急避難措置に対する免責規定にすぎず、そこから軍事作戦を内閣に報告しなくてよい、とする法理は出てこない。
東條英機の統帥権についての述懐
内閣法制局は、この俗流統帥論を否定することができず、太平洋戦争勃発のさいは、「戦争開始」について軍令参謀本部長が提案した。東條英機や近衛文麿が俗流統帥論を信じていたうえ、下僚も法体系を認識しながら、満州事変に染まり万能感にとりつかれた年代を説得できなかった。東條英機は、俗流統帥論によって発生した「統帥二元」にかえって苦しめられることになった。
橘川学『嵐と戦う哲将荒木』荒木貞夫将軍伝記編纂刊行会 1955
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