主砲配置


戦艦の主砲配置は日露戦争までは問題にならなかった。すなわち前後に連装砲塔を配置し、4門が定番であって、変形タイプはなかった。これの理由は主砲より中口径砲が重視されたためだ。

当時の主砲口径はオーストリア艦の9.4インチを最小に、12インチまであったが、これとて大きな差があったわけではない。すなわち、いずれにせよ砲弾重量は200〜300キロであり、破壊力に際だった差は生じない。

ただし、6インチ砲弾の重量は30キロが平均であり、中口径砲と大口径の破壊力は大差である。日露戦争で主砲が活躍し遠距離射撃が行われたことが知られると、大口径砲を増加させるべきだとして、主砲配置も見直されるようになった。

これにより、日露戦争を境に弩級戦艦が定着するまでの間、中間期とも呼ぶべき時期に大中混合型が出てきた。これは大口径砲が有効と認められた反面、中口径砲も棄てがたかったためだ。

だが、例が多いわけではない。フランスのダントン級は、ダントン・コンコルド・ディデロ・ミラボー・フェルニオ・ボルテールの6隻が1911年までにつくられた。

ところが、イタリアはダンテアリギエリ級を4隻1912年から、オーストリアはビリブスユニティス型を4隻1911年から就航させた。伊墺両国とも、旧式戦艦の計画を打ち切り、弩級戦艦の建造に切り替えたのだ。

イタリアとオーストリアは実は互いのアドリア海の覇権をめぐって建艦競争となったのだが、フランスからみれば、両国は三国同盟の二国であり、同盟してフランスに地中海で対抗することも考えねばならない。フランスはあわててプロバンス級3隻を1912年から、ジャンバル級を1913年から4隻を就航させた。

しかし、混合搭載のダントン級6隻が無駄な費用となり、巡洋戦艦を建造できなかった。これは第一次大戦勃発時、ドイツ巡洋戦艦ゲーベンの逃走劇に関与できないという結果を招いた。日本の薩摩級は安芸とあわせ2隻しか建造されなかったが、同様の中途半端な巡洋戦艦、生駒級2隻(他筑波)・伊吹級2隻(他鞍馬)があり、フランス同様の失敗を犯した。これは、第一次大戦中、大西洋に主力艦を派遣できないという事態の原因となった。

初期から第三期にかけて、速力の点で欠けるところがあり、弩級戦艦と呼ぶことができない艦も含まれている。要するにタービン・エンジンを装備することにより、24ノット以上の快速を出さねば旧式戦艦に圧倒的というわけではなく、弩級戦艦と呼ぶことはできない。

また主砲配置では、抱え込み型と呼ばれる、上甲板上に二階家のような砲塔を並べる形式が増えてきた。できるだけ、主砲を中心線に配置することが得策と考えられたためだ。ただ、主砲中心線配置を一貫して維持したのはイタリアだけである。ただイタリア戦艦が第一次大戦でとくに活躍したわけではない。

また第4期では14インチ砲が出現するが、弾丸重量は600キロと、12インチの300キロを大分上回る。更に16インチでは900キロとなる。こうなると、戦艦の厚さ20センチほどもある装甲を射洞することができる。従って、榴弾から撤甲弾(キャップ付き)が弾丸の主流となっていった。ただ、第一次大戦において、撤甲弾により敵戦艦を射洞したという記録はない。

上記表における第4期の艦は第一次大戦終了とともに、計画が放棄されたものが多い。フランスのランゲド級は4隻未完成のまま計画は放棄された。ドイツのウォルト級はバーデンとバイエルンの2隻だけ完成した。イタリアのダンドロ級も未完成のまま、計画は修正された。扶桑級は山城と2隻建造されたが、大戦終了後は練習艦とされた。ネバダ級は2隻完成した。

そして、完成したものは第二次大戦においても活躍した。第二次大戦において戦艦主砲の射程距離は30キロに達したが、航空機の後続距離は500キロはあり、戦艦の活躍範囲は空母の比べ、劣ることになった。いわば、戦艦の寿命は第二次大戦で尽きた。

その意味で、第4期の戦艦が究極の戦艦の原型をなした。


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