1869年初頭、パラグァイ軍は全滅し存在しなくなった。しかしロペツは抵抗をやめようとしなかった。改めて兵士を募集、その数はピークで1万3000人に達した。だが大部分は子供と女にすぎなかった。新首都をアツクラ山地の寒村ペリビブイに定め、アスンシオンに閉じ込めらている連合軍にゲリラ戦をしかけた。
ロペツの最後
連合軍の新司令官にはガストロ・ドオルレアン、ドエウ侯が任命された。1869年4月アスンシオンに着任すると徹底的な掃討戦を決意し、新しい徴募兵による新軍を編成した。アルゼンチン軍5000人、ウルグァイ軍200人を加え総数は3万2000人に達した。
ロペツがペルビブイにいることを知ったドエウは、アツクラ山系を完全包囲して殲滅することを計画した。8月1日から包囲が開始され、8月12日ペリビブイに向け総攻撃が実施された。1万7000人で2個軍団に組織されたブラジル軍は、1900人の装備もままならない7・8歳の少年を含むパラグァイ軍守備拠点に殺到した。8時にペリビブイに到着したが、そこからパラグァイ兵は猛烈に抵抗した。弾薬を撃ち尽くすと、石を投げて抵抗したという。正午までに650人の投降者を残して全員戦死した。
しかし、この抵抗はロペツに時間を与えた。ロペツの本軍は更に山間部のカンポグランデに逃れた。
ドエウはすぐさま追跡を命じた。連合軍はカンポグランデでロペツの軍の後衛を捕捉した。8月16日、前面を騎兵に塞がれながらもカバレロの指揮するパラグァイ軍は必死に抵抗した。しかし戦いは数時間続かずカバレロも含めほぼ全員2000人が戦死した。これが、この戦争の実質最後の戦いとなった。
ロペツは更に北部への逃亡に成功したがセロコラで1870年3月1日捕捉され戦死した。19歳の長男も運命をともにした。連合国が戦争の終結を宣言したのはその時である。

アスンシオンに駐留するアルゼンチン兵
パラグァイ軍の戦死者は5万人から25万人まで諸説あり、今となれば正確な数字をつかむことは困難だろう。しかし16万人が戦死とする推計が概ね妥当とされる。それが事実とすればパラグァイ人成人男子の8割に相当する。
アルゼンチン軍とブラジル軍はその後も残留した。徐々にロペツに弾圧された政治家も帰りアスンシオンの日常も正常化した。しかし平和条約の方はさっぱり話しが進まなかった。一つはブラジルが一種の宗主権を主張したことだが、それよりもこれだけの戦争を行った国に恐怖を覚え何か安全保障を得たかったのだろう。ロペツ、それに先立つフランシアの如くの独裁者の出現を阻止する政体が確立したと思ったか、1876年ブラジル軍は撤兵した。同時に賠償金の約束もとったようだが、現在に至るも金額は不明である。おそらく数千万ドルとされる。1878年パラグァイ大統領ビラ・ハイエスはこの問題を解決するためアメリカ大統領に仲裁を依頼した。意外なことにアルゼンチンはすぐ仲裁に応じ、ブラジルもそれに従った。仲裁はパラグァイ有利に決着されたという。

Thompson, George, The War in Paraguay; with a historical sketch
of the country and notes upon the military engineering of the
war, London, 1869
Schneider, Louis, Der Krieg der Triple Allianz; Kaiserthum
Brasilien, Argentinische Confederation und Republic Band Oriental
de gegen die Regierung der Republik Paraguay, Berlin, 1872-1875