リアチュエロ水戦

リアチュエロ水戦

19世紀初頭、多くの国の海軍は蒸気船と帆船を並行して保有しており、構造は木造だが鉄板で外周を囲ったものなど様々な形式があった。海戦の形式も衝角(船首に突き出た鋼製の角)で敵の船体を突き破る、または舷側から敵船に飛び乗る方式が有効とされていた。そして砲戦(この水戦では榴弾が用いられていない。)で敵艦を撃沈することは困難とされていた。

ロペツのコリエンテス占領を聞き、ブラジルは直ちに全海軍をウルグァイとアルゼンチンに派遣した。ブラジル海軍は戦列艦を45隻保有しており、そのうち33隻が蒸気推進だった。この威容は南アメリカでは他を圧倒していた。ブラジルはロサス戦争でも優勢な海軍を利して長駆、大軍を派遣することに成功しておりこの地域で覇権を握った最大要因でもあった。ただ、当時の戦列艦の居住条件は著しく悪く、一航海で疫病により水夫の半数が死亡することは珍しくなかった。それでも45隻の乗員の定員は合計で2400名にすぎず、現在からみれば小さなものであるかもしれない。

一方パラグァイは戦列艦を17隻保有していたが、元来砲艦として建造されたのは、タクアルとアンハムベイに過ぎず、鋼鉄により装甲されている艦はなかった。

ブラジル海軍が三国連合コリエンテス攻囲軍を支援のためリアチュエロに集結したという警報に接し、ロペツは直ちに奇襲することを決意した。1865年6月8日、首都アスンシオンからパラグァイ海軍の攻撃艦隊が出発した。ロペツ自身も旗艦タクアルに乗り込み、途中のウマイタ要塞まで艦隊を見送った。この時首都の全市民が集まり、武運と健闘を祈ったという。

攻撃艦隊は8隻旗艦タクアルacuarパラガルParaguarオリンダ侯爵夫人Marquis de OlindaイグレYgureイベライポルYberaYporヘージュJejuサルトオリエンタルSalto OrientalピラベブPirabebで構成されていた。この他に8インチ砲を1門搭載したハシケを各船とも曳航していた。これらのハシケはチャタスと呼ばれた。砲数は合計で36門であり、またコリエンテスまで敵を引付ければ、陸上からの支援砲火も期待できた。指揮する提督はペドロ・メザだった。

一方リアチュエロに集結したブラジル海軍は旗艦アマゾナスAmazonas ヘクイティンオンハJequitinhonha, ベルモンテBelmonte,パルナンザParnaza, イピランガIpiranga,メアリンMearinイグアテミIguatemiアラグアルAraguarベベリブBeberibの9隻だった。指揮官はフランシスコ・バロッソ提督で砲数は59門だった。

ブラジルの優勢は動かず、メザは奇襲だけがパラグァイを有利にすると考えた。パラグァイ川沿いのウマイタ要塞を6月11日午前2時出港したパラグァイ艦隊は、ブラジル艦隊を未明に襲撃する予定だった。ところがイベライボルの機関が故障し、到着は絶望的に遅れ、午前9時となった。ブラジル艦隊はコリエンテスとリアチュエロの中間、数本の支流が合流する地点に川に並行な形で遊弋していた。ある程度の奇襲は達成された。

チャタスを切り離し河岸沿いに展開させたのち旗艦タクアルがブラジルの旗艦アマゾナスに砲撃を加えたのを皮切りに、単艦同士の撃ち合いとなった。始めはパラグァイ艦隊が押す形となり、ブラジル艦隊をつき抜けパラナ川下流に出た。ここから反転しブラジル艦隊を追い詰め、陸上の砲隊とチャタスで挟撃する作戦だった。

イピランガ(左)とオリンダ侯爵夫人(右)の砲戦

ヘクィティンオンハはブラジル艦隊の2番目に大きい艦だったが、河岸に押され座礁した。そこを陸上砲隊が狙い射撃され完全に破壊された。パルナンザも船底を打ち、漂流し始めた。そこにオリンダ侯爵夫人が舷側をつけ、パラグァイ水兵が乗り移った。パルナンザ艦上では白兵戦が展開された。しかしブラジルの艦船は大きいだけ乗組員も多くこの飛び乗り作戦は成功しなかった。その後も砲撃戦が単艦同士で続けられたが、徐々に砲数で優るブラジル有利の展開となった。

ヘージュは砲戦のあげく撃沈された。オリンダ侯爵夫人はボイラーに命中弾を受け、自力航海が不可能となった。パラガルはアマゾネスの衝角に船腹を破られ沈没した。サルトオリエンタルも河岸の追い詰められ座礁した。4艦を失ったメザは午後1時、撤退命令を出した。

ブラジルはヘクイティンオンハが完全破壊され、他の2艦、ベルモンテとバルナンザが大破した。ただ陸上を支配していたパラグァイ兵は数日後パラガルを浮上させるのに成功しアスンシオンに持ち帰った。メザは砲弾を受け負傷したが、その傷がもととなりウマイタで3日後絶命した。パラグァイの戦死者は300名程度と推定される。

この戦いはブラジルの勝利に終わった。パラナ川の制海権はブラジルが戦争終了まで維持した。これは本土から長躯遠征しているブラジル軍の補給路が安定することを意味した。しかしロペツは外交上の失敗とこの軍事上の重大な敗北を認識することができなかった。

ウルガァイアナ包囲殲滅戦

一方、エスティガリビアの指揮するウルグァイ遠征パラグァイ軍は、アルゼンチンのミシオネス回廊を突破、ブラジルのリオグランデ州に突入した。ただすでに2月22日ブラジル・コロラド派連合軍はウルグァイの首都モンテビデオを占領していた。

6月11日のリアチュエロ水戦でパラグァイ海軍は敗れていたから、遠征軍が孤軍となったことは明らかだった。しかしロペツは、あきらめず更に海岸を目指し進軍することを要求した。8月5日エスティガリビアはウルガァイアナを占領した。しかし補給はその頃から急速に途絶えた。9月中旬、ウルガァイアナは全周を2万のブラジル軍に包囲された。

エスティガリビアは9月15日、戦うことなく降伏した。降伏式には皇帝ペドロ二世も臨席した。パラグァイ遠征軍は兵力は6200人だったが、パラグァイ陸軍最良の部隊だった。この時点から、この戦争はパラグァイにとり勝利の見通しのない絶望的なものに転化した。

一方連合軍も困難を抱えていた。パラナ川左岸は支配したが兵站は陸路でなく河川に頼らざるを得ない。ところがブラジル海軍の戦列艦は喫水が深く河川通行用に設計されていなかった。パラグァイ軍は左岸が僅かに標高が高いことを利用し洪水作戦で臨んだ。このためパソデパトリアからコリアンテスまで左岸は水につかった。

このためもしパラナ川を渡河しパラグァイ領内に侵攻することを考えれば、パラグァイ軍がパラグァイ川とパラナ川の合流地点に構築したイタピリュ砲台を攻略せねばならない。

パラナ川渡河作戦

1865年9月から1866年3月までの間、コリエンテス近郊で小競り合いが継続した。1866年1月、アルゼンチン大統領バルトロム・ミトレ将軍が連合軍の司令官に任命された。兵力の3分の2を占めたブラジル軍はアルゼンチン国内で戦うことを配慮しその地位を譲った。

3月に入り兵力劣勢なパラグァイ軍は撤退を開始し、アルゼンチン領内のパラナ川右岸にパラグァイ兵は存在しなくなった。ミトレは直ちに、パラグァイ領突入を命令した。渡河作戦の最終目標はイタピリュ砲台だが、手始めにパソデパトリア北方に陽動で上陸を行い次にイタピリュ正面に上陸する計画をたてた。

1866年4月16日、1万5000人のアルゼンチン兵を中心とする部隊はパラグァイ川を溯上し、右岸に上陸しあまり抵抗もなくパソデパトリアを占領した。そして直ちにイタピリュに向かった。そして同時にブラジル海軍の砲艦の掩護のもとカブリタルの指揮するブラジル兵部隊1万人がイタピリュ砲台正面に上陸した。この辺りは沼地であり、また砲艦は沿岸まで近づくことができなかった。

イタピリュからの砲撃は正確で、ガブリタルの部隊は大被害を受けた。しかし量で圧倒的な上陸軍はあちこちに橋頭堡を確保し、その場で夜を迎えた。翌日もイタピリュ砲台は火を吐き続けたが、連合軍は敵兵が後退しているパソデパトリア方面に上陸を続け、18日までに合計約6万人の上陸を成功させた。4月19日、パラグァイ軍はイタピリュを撤退した。パラグァイ軍の遺棄死体は600を数えた。

連合軍はこれから10年間、パラグァイの地に止まることになる。


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