緒戦…パラグァイ軍攻勢

両軍の戦力

パラグァイの人口は80万人で、常備軍として3万人を維持していた。これの他に予備役がほぼ同数存在した。各国とも同じだが南米ではしばしば悪疫が流行し、当時の平均寿命は40歳に満たなかった。パラグァイは徴兵制をとらなかったが、兵士は人気のある職業だった。志願兵からなる七年兵役制であり、予備役年限の七年を足せば、34歳となり、それ以上の兵役は困難で35歳以上は民兵や在郷軍人会に所属することになった。つまり、現役・予備あわせて6万人の兵力をもつことは兵士採用を限界にまで引き上げたことを意味する。

戦時中の新規志願兵の採用ははっきりしないが、おそらく人口からみて成年到達男子人口の年間1万人を加えても合計で9万人以上の採用は通常の手段では不可能と推定される。

つまりその兵力からみればパラグァイは恐るべき軍事国家だった。

ドン・ペドロ二世(Dom Pedro二;1825-1891)

一方ブラジルの人口は850万人を数えた。ところがブラジルは国土が広大で動員が困難なうえ、人口の3割が奴隷と推定され兵士募集が簡単ではなかった。実際ブラジル遠征軍のピークの兵員数は15万人(戦場には5万人)にすぎない。戦争の後半はブラジルはほぼ単独で戦ったから、もしパラグァイが戦場と時期を巧みに選定し短期決戦主義で臨んだとすれば戦力だけからみれば条件付き勝利は全く不可能ではなかった。

そしてウルグァイの人口は20万人にすぎず、兵員はピーク3000人程度で単位にならない。アルゼンチンは人口150万人だが、この段階ではブエノスアイレスを中心とする地域だけを統治するローカル政権の色彩があり、各地の反乱に悩んでいた。このためアルゼンチンはこの戦争のためピークで1万人しか動員できなかった。

兵力の質としては、ブラジルが圧倒的によく将校団はロサス戦争の経験を経ていた。決して十分とはいえないが、その海軍とあわせて戦争終結までなんとか兵站を維持することができた。君主のペドロ2世も当時として強権的だったわけではない。

マトグロッソとコリエンテスの占領

ロペツは1864年12月、ブラジルのウルグァイ内政への関与を最早耐えがたいものと感じた。ウルグァイのブランコ派政権の首領、アナタシオ・アヘイレを支援することに決し、ブラジルに宣戦布告した。そして同時に北部の従来からの領土係争地、マトグロッソに兵を進めた。ここは人口が希薄な地帯であり、ブラジルはほとんど防衛措置をとっていなかった。

実際のところパラグァイの周辺はすべて領土係争地だった。というよりむしろ、相互に認め合う国境線が存在しなかった。都市ですら帰属が判然とせず、多くのアルゼンチン領内の都市はブエノスアイレス政権に不満を抱いていた。ただロペツはマトグロッソを攻略したが、ここは戦略的に重要な地域ではない。すなわち当時の馬を中心とする補給体系では内陸部を大軍の進軍経路とすることはほぼ不可能であり、マトグロッソから他の港湾都市に行くことはできない。ロペツの戦略意図ははっきりしない。

パラグァイ軍将校

ロペツはマトグロッソ占領後、直ちに軍を返し南に向かうことに決めた。この時ブラジル軍主力はウルグァイに駐留していた。ロペツの狙いはコリエンテスからリオグランデ州に向かいウルグァイにいるブラジル軍を孤立させることにあった。これは良好な戦略ではない。すなわちウルグァイ駐留のブラジル軍は海から補給を受けており、リオグランデ州内の陸路を経由していなかった。その後もブラジル軍の補給経路は常にパラナ川であり、陸路を利用することはなかった。当時、汽船は利用されていたが鉄道はまだ南米には敷設されていない。19世紀中葉は人類史上特異な期間で、気船の発明により陸路より海路の方が兵員などを早く輸送できた。

英仏軍がクリミア戦争・セバストポリ攻略戦でロシア軍より有利にたったのもこのためである。

1865年3月、パラグァイ軍最良の部隊はアントニオ・ベラ・クルツ・エスティガリビアの指揮のもとコリエンテスを占領した。ロペツはここで致命的な失策を犯した。コリエンテスの周辺地区は従来からブエノスアイレス政権に反旗をひるがえしていた。しかしこれはあくまでもアルゼンチンの内戦にすぎない。アルゼンチン政府はパラグァイ軍のコリエンテス占領を許すことができない侵略行為だと受け取った。1865年5月、アルゼンチン政府は従来の不倶戴天の敵、ブラジルと攻守同盟の提案を行い成立した。これにウルグァイの傀儡政府コロラド派も参加した。ロペツはこの三国同盟と戦うことになる。


リアチュエロ水戦に進む