戦争の原因
南米で戦われた戦争のうち最も凄惨なものがこの戦争であることは疑いない。原因を探るには数世紀を遡らねばならない。1494年スペインとポルトガルは南米でのその勢力範囲をトルデシラス条約により、西経44.5度(ベルデ岬諸島西方370リーグ)を境に分割した。この境界線はリオデジャネイロ西方50キロを南北に走る。ブラジルは1822年母国ポルトガル王室の皇太子が皇帝を名乗り独立帝国となったが、ポルトガル領からの継承性は明確だった。
トルデシラス条約
16世紀までの南米はスペインとポルトガルの征服者コンキスタドールの世界であり、その来寇の目的は原住民から動産を奪うことにあった。すると不動産は重要でない。ところが奪い尽くすと跡には何も残らず、新しいヨーロッパからの農業植民者がそれら内紛により自滅しまた帰国して消え去ったコンキスタドールにとって代わった。
彼らは農業に適する中緯度地方の平野に定着した。そこはラプラタ地方と呼ばれていた。18世紀スペインは中南米に四つの副王府を置き統治していた。そのうちの一つはブエノスアイレスにあり、そこが現在のアルゼンチン全域、チリ、ボリビア、パラグァイ、ウルグァイを担当しておりラプラタ副王府と呼ばれた。しかしブエノスアイレス市民はある程度の自治を達成し独自の軍隊(自警団)をも保有していた。ラプラタの諸地方は紆余曲折はあるが本国のスペインがナポレオンにより征服された間、実質的な独立を果たした。(但しアルゼンチンがスペインから独立を宣言したのは1816年でスペインがそれを承認したのは1836年)
欧州系植民者は概して中規模自作農であり、富裕であるか否かはその時の農産物の市況によった。ただ南米で戦争が頻発した19世紀初頭はイギリスにおける産業革命・ヨーロッパでの人口爆発によりここ300年間では例外的に農産物価格が高く、ラプラタ地方の農民はその当時の地球上で相対的に恵まれた人々だった。
ラプラタ地方にはパラナ川が南北に走り、河口には二つの大都市があった。ブエノスアイレスとモンテビデオである。ブエノスアイレスを中心としてパラナ川西部に住む人々はアルゼンチンに参加し、モンテビデオを中心として住む人々はウルグァイとして独立宣言を行った。しかしトルデシラス条約の範囲を越え南下を試みるブラジル帝国はこれを認めようとしなかった。
このラプラタを狙うブラジルの動きにアルゼンチンとウルグァイ人は同盟して対抗、1825年両国とブラジル帝国は交戦状態に入った。アルゼンチン・ウルグァイ連合軍はブラジル帝国軍をパソドロザリオで撃破した。この戦いの翌年1828年、ウルグァイは各国の承認を得て独立した。
シスプラチン戦争
一方、アルゼンチンは各地の分離独立運動に悩まされていた。そしてパラグァイは1811年、アスンシオンを中心とする地域の農民が1811年ツカマンの戦いでラプラタ川連合に勝利し建国された。つまりアルゼンチン、ウルグァイ、パラグァイは欧州系移民によりラプラタ地方を根拠に宗主国から武力をもって反抗し独立したという同質性がある。
パラグァイはアルゼンチンから独立したものの、地理的な位置から常にブラジルからの脅威に曝されていた。
ブラジル帝国の指導者層は港湾都市に住む冒険商人だった。多くは奴隷を使役して作った農産物や原住民が採集した熱帯樹木などを欧州に輸出していた。このため人口に対し、奴隷の比率が高かった。一方パラグァイ人は原住民のインディオ・グァラニ族とも長期にわたり混血を重ね土着性が強かった。つまり両国の国民の気質には相当の差があった。南北戦争のあと戦争に敗れた南部のアメリカ人が大量にブラジルに移民したのは偶然ではない。彼らはコンフェデラトスと呼ばれたが一貫して(中央集権に反対する)連邦主義、自由主義(リベラル)を支持した。
1848年今度はアルゼンチンの独裁者フアン・ロサスがウルグァイの内政に干渉、アルゼンチンとブラジルの間で再度戦争が起きた。(ロサス戦争)この時ブラジルはロペツの父、パラグァイの指導者、カルロス・ロペツにアルゼンチンとの戦争に加担することを持ちかけたが、断られている。
ロサス戦争
1862年カルロス・ロペツが死に、長男のソラノ・ロペツが跡を継いだ。この時ウルグァイはブラジルとの外交政策をめぐりブランコ派(保守)とコロラド派(自由)が対立していた。ロペツはブランコ派を応援したが、ブラジルはコロラド派を助けた。ロペツはリオデジャネイロ政府に互いに介入を停止することを提案したが、宗主権をもつと考えていたブラジルの受け入れるところとならなかった。1864年10月ブラジル陸海軍はウルグァイへの侵攻を開始した。
ロペツ、ソラノ

アルゼンチン兵士
緒戦…パラグァイ軍攻勢に進む

ブラジルの独立
ラプラタの独立