ロペツ、ソラノ


Francisco Solano Lopez(1826-1870)

ソラノ・ロペツが論争にたる人物であることは疑いをいれない。1826年カルロス・ロペツの長男として生まれた。ロペツ家はパラグァイでそれまで数百年続く名門の一家だった。集合的な教育は軍人のもので、18歳でパラグァイ陸軍の少将となった。父、カルロスが大統領に就任した年である。その後パラグァイ軍の近代化に努力した。

ロペツの経歴のなかで最も注目されるのは1853年にパリに軍事資材の買い付けのため派遣されたことである。その時フランスはナポレオンV世の治下にあり、何か感銘を受けたようだ。また妻となる女性、アイルランド人のエリサ・リンチ(Elisa Alicia Lynch)とパリで出会った。帰国後結婚したが、エリサはパラグァイ政局に微妙な影響を与えたとされる。

1862年父の死に伴い大統領に就任した。ロペツの外交政策が冒険的なものであったことは否定できない。もちろん致命的な誤りはパラグァイが小国である現実を認めようとしなかったことだろう。パラグァイは経緯はどうあれ、ブラジルの承認または使嗾によりアルゼンチンから独立を果たした国である。これはあるいは好運なことで、アルゼンチンの他の地方、アントレリオス、コルドバは独立に失敗した不運な地域なのかもしれない。そしてアルゼンチンとはブエノスアイレスとパンパが統一した国であることも否定できない。

エリサ・ロペツ

アルゼンチンの独裁者ロサスはウルグァイに干渉に出て、ブラジルの介入により失敗した。この時ロペツの父カルロスはブラジルから共同出兵を誘われて拒絶した。ブラジルのロペツ家に対する憎悪はここから始まった。これをブラジルの身勝手というのは簡単である。だがパラグァイの独立はブラジルの支持がなければ簡単ではなかったことも事実だ。もちろんブラジルがラプラタ地方に野望をもったこと、パラグァイ人はマトグロッソとリオグランデをトルデシラス条約から自国領だとみなしていたことも事実だ。

ブラジルが飼い犬に手を噛まれたと感じたのは容易に想像できる。また同じ緩衝国家としてロペツがウルグァイに同情を感じたのも理解できる。

そしてロペツはブラジルに挑戦した。この行動は国民からの支持を受けていた。国家の指導者とはどうあるべきだろうか。とりわけ緩衝国家で中立を国是とする国の立場は難しい。ロペツとその国民は妥協するのにあまりにも誇りが高すぎたのかもしれない。


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