1866年6月、普墺戦争が勃発すると、前月、プロイセンと秘密軍事同盟を締結していたイタリア王国(1861年2月成立、エマヌエレ二世)は早速、オーストリア領ロンバルディアに兵を進めたが、6月24日、クストッツァで大敗を喫した。
1864年のヨーロッパとシュレスウイッヒ・ホルシュタイン
だが、7月3日、オーストリアがケーニッヒグレーツ(サドア)で敗れると、陸で勝てないイタリアは、海で挑戦することを決したようである。イタリアのアドリア海における領土要求は、ダルマシア沿岸全部に及ぶ。ここに到着するにはアドリア海の制海権が必要である。
そして、アドリア海の中央にはリサ島(現在クロアチア領ビス島)があり、イタリア人はこの島をアドリア海のジブラルタルと呼んだ。
イタリア艦隊司令官カルロ・ペルサノ(CarloPersano)は7月16日午後、朝野の声におされアンコア(Ancoa)をたち、リサ島に向かった。
リサ島は東部は平坦であるが、西部は絶壁に囲まれていた。そして西部にはウムと呼ばれる標高585メートルほどの山があり、絶好の観測所を提供していた。オーストリアはこの島に1800人ほどの守備隊と55門の砲を置き、守備を固めていた。また、海底電話線がスパラトまで通じていた。
イタリア艦隊は三隊に分かれ、島の砲台を砲撃で破壊し、上陸しようとした。しかし西部のビスを狙ったジョバンニ・バッカ(GiovanniVacca)は、砲台の高さまで弾道があがらず失敗した。東部に向かった木製フリゲート艦部隊と海兵隊を率いたバチスタ・アルビニ(BattistaAlbini)も、上陸地点を発見できなかった。
ペルサノ(1806〜1883)
この二隊とも、港湾のあるリサ港に目的地を変更し、ペルサノと合流した。一方、ペルサノは湾内突入に成功した。要は、砲弾は地上、艦船ともにあまり有効ではなかった。
7月19日早朝から、リサ港に対する攻撃が開始された。イタリア海軍は相当数の砲弾を港湾施設に投げ込んだが、地上からの反攻も激しかった。当日はまた、アドリア海には珍しく荒天であり、ペルサノは上陸部隊をあげることを躊躇した。結局、ペルサノは上陸を翌日に延期した。これが致命的な失敗につながった。リサ港守備隊は艦砲射撃により、三分の二の砲が破壊されており、実際にはかなり被害を受けていた。
7月20日、ペルサノは早朝から上陸戦を決行することに決め、夜を徹して準備に当らせた。しかし早朝四時、哨戒任務についていたエスプロラトーレ(Esploratore)は北方より、未知の艦隊が出現したとの至急報を知らせてきた。ペルソナは直ちに上陸作戦の中断を決め、上陸用艦隊を南方に退去させた。
7月19日早朝、フィウメ湾近くのファザナ泊地にいたオーストリア艦隊司令官ウィルヘルム・テゲトフ(WilhelmTeggetthoff)は、リサ島に対するイタリア艦隊急襲が真面目な攻撃であるとすぐ見て取り、艦隊の出撃を直ちに命令した。全艦隊は驚く無かれ午後1時までに音もなく泊地を出発した。
その時、アドリア海は豪雨に襲われており、また夜通し嵐が続いた。しかし午前四時の日の出とともに波は収まり、元の鏡面のような海面に戻った。テゲトフはリサ島に到着するのを午前9時と予想し、8ノットで進んだ。
そして、エスプロラトーレに発見されたころ、テゲトフは三梯団に分かれた艦隊を楔形に変えるよう命令した。
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鉄張り戦列 |
木造戦列 |
フリゲート |
計 |
全砲門数 |
船員数 |
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墺艦隊 |
7 |
7 |
12 |
26 |
532 |
7871 |
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伊艦隊 |
12 |
11 |
5 |
28 |
641 |
10886 |
この時、テゲトフの艦隊は明らかに劣勢だった。しかし、テゲトフには一つの確固たる信念があった。それは、艦砲とは滅多に当らず、当っても被害はたいしたことはない、というものだった。つまり、勝敗は砲門や艦の装甲、兵員の熟練度で決まるのではなく、その士気と敵艦に激突する決意によって決まるという信念である。
テゲトフの艦隊は、ドイツの名前をもつ司令官はともかく、船長以下大部分の将兵はクロアチア人によって占められていた。クロアチア人はリサ島に侵攻するイタリア人を郷土にたいする侵略者として不倶戴天の敵とみなした。
リサ海戦参加各艦の写真
先頭梯団は鉄張り戦列艦7隻のみで構成され、第二梯団は木造戦列間カイザーを先頭に6隻の快速フリゲート艦、残余は第三梯団に組み込まれた。各々の距離は1000メートルである。
テゲトフは10時半、イタリア艦隊と接近すると速度を11ノット半にあげることを命令し、有名な命令を発した。
「鉄艦は衝角をもって、敵に突撃せよ」
ペルサノは、上陸作戦の中断を命令したものの、手許の各艦を戦闘隊形に持ち込むのに時間を要した。
ペルサノのフォーメションは三艦の鉄張り戦列艦を一組として、単縦陣を組み、敵を包囲することだった。まず、オーストリア艦隊の後方に円を描くように回り込み、弱いとみられるオーストリアの木造船を手始めに血祭りにあげることを目論んだ。
ところが、前日の陸上砲台との砲撃戦でフォルミダビレとテリビレはかなり損傷が激しく、帰還を命令せざるを得なかった。
そして、ペルサノはオーストリア艦隊を前にして突然、気が変わり旗艦レドイタリアから、アフォンダトーレに乗り移った。そして、アフォンダトーレを遊軍のように使用するためだった。しかし、この突然の旗艦の変更は全艦隊に知らせるには時間がなかった。
そして、イタリアの三個縦隊の間は2000メートルとやや間が長かった。テゲトフはこの欠陥を見落とさず、やや面舵(4点、右に曲がりながら)をとりながら、第二縦隊の先頭艦レドイタリアに第一梯団を突撃させた。
そして、オーストリア第三梯団はイタリアの第一縦隊を引き付けながら、16点の大回航を行い北方に逃走した。
オーストリア第一梯団、7隻の鉄張り戦列艦は4隻のイタリア鉄張り戦列艦に当ることになった。ただし、イタリアの戦列艦はイギリスのウォリアの流れを汲む装甲フリゲート艦だった。つまり艦首には長いマストが伸び、艦首からの体当たりは難しく、横付けして飛び乗り戦術を主眼としていた。
海面は蒸気機関の排煙と硝煙とにより、黒い煙で早くも覆われた。テゲトフの旗艦フェルディナンド=マックスは突っ込んでくるレドイタリアを無視して、真っ直ぐに進み第2縦隊2番艦パレストロの後尾に衝角をもって体当たりした。
しかし、角度が悪く沈めることはできなかった。しかし、スクリューが傷んだのか速度が落ち、至近距離から砲撃により火災を生じた。
一方、オーストリア第一梯団の中央に入り込む形となったレドイタリアは集中砲火を浴びた。そして、消火のため停船を余儀なくされた瞬間、取り舵をとって回頭してきたフェルデナンド=マックスの衝角が左舷に突き刺さった。この時、11時半であり、フェルディナンド=マックスの艦速は11・5ノットといわれる。
レドイタリアは3分もかからずして海中に没した。381人が艦と運命をともにした。
カイザーにより衝角突撃されるアフォンダトーレ
一方、オーストリア第二梯団のカイザーはアフォンダトーレと一騎打ちの形となったが、カイザーが衝角で体当たりしても、カイザーの衝角が破壊されるほどアフォンダトーレの船体は強固で、カイザーは砲撃の結果、上部構造はほぼ破壊されるに至った。しかし、中央部の戦闘は明らかにイタリアに不利であり、アフォンダトーレも合戦を切り上げるしかなかった。
12時近くなるとイタリア艦隊は単縦陣を維持しながら、西に去っていった。朝からの操艦の連続のため、アンコアまでの石炭が不安となってきたためである。これに連れて、テゲトフも第一梯団と第二梯団がそれぞれ横一線になることを命じ、戦闘隊形を保ちながら、リサ島に向かった。
12時半には両艦隊とも射程距離から離れた。その後、火災を起こしていたパレストロは午後2時過ぎ、火薬庫に火が回り轟沈した。乗組員250人のうち救助されたのは19人だけという。このように、艦隊の規模でも質でも劣るオーストリアが圧勝し、リサ海戦は終了した。
この海戦の結果は、イタリアが2隻沈没、一隻大破で終了したことになる。ただ大破したアフォンダーレは、一ヶ月後、アンコア港内で沈没した。ペルサノは全ての官位を剥奪され免職された。
テゲトフ(1827〜1871)
スチリアのマールブルグ(現スロベニアのマリボル)で生まれ、ベニスの海兵学校を卒業した。クリミア戦争ではドナウ河口の哨戒業務にあたり、海軍総裁マクシミリアン大公の知己を得た。その後、モロッコ紛争・イタリア独立戦争・丁普戦争とアラビア海から北海まで従軍した。普墺戦争の1年後、かつての上司であり、メキシコ皇帝として処刑されたマクシミリアンの遺骸を引き取りにメキシコに派遣された。その後、オーストリア海軍総司令官として、ウィーンでその死まで職にあった。
テゲトフは8月ウィーンに凱旋し英雄となった。そして「鉄の心をもつ提督に率いられた木の艦隊は、木の心をもつ提督の鉄の艦隊に勝利する」と謳われた。
ただ、この海戦は普墺戦争の帰趨に大きく影響しなかった。ケーニッヒグレーツで敗れたオーストリア陸軍は再起できず、ニコラスブルグで和を乞うことになった。そして、陸海での大敗にもかかわらず、イタリアは、ビスマルクの裁定により広大なイタリア中心部、ロンバルデイア・ベネト・フリウリ州を獲得した。
この海戦のあと、艦隊決戦を伴う海戦は日清戦争(1897)まで発生していない。そして、日清戦争において北洋艦隊司令丁汝昌が衝角戦術を中心に据えたことを驚くべきだろう。
日清戦争黄海海戦
そして衝角そのものも残った。第一次大戦を実際に戦った英独のドレッドノートも衝角をもっていた。衝角の存在は、凌波性や旋回性を劣らせ、艦速をも遅くする。衝角を最も早く全廃したのはフランス海軍と帝国海軍であり、1907年竣工の巡洋戦艦筑波では、衝角は綺麗に消滅している。
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