T.E.ロレンスはアイルランド/イングランド系ジェントリーの庶子としてウェールズで生まれた。中東への縁は、大英博物館のカルケミッシュへの学術調査隊に雇われたことから始まる。
アラビアのロレンス(Lawrence
of Arabia:Lawrence, Thomas Edward Brevet Colnel, later added
with Shaw ; (1888-1935)
ロレンスは第1次大戦勃発とともに、イギリス陸軍情報部員となった。その後の活躍もその職掌の範囲である。またアラブ軍を指揮したのはメッカ太守の長男ファイサルであり、ロレンスではない。またアラブ軍単独でトルコ軍に抗することなどは、人口の点で考えられない。アラブ軍は多くて1000人を越えることはない。また正確に言えばロレンスの行為は戦時国際法違反である。
すなわち戦時国際法が適用になる戦争で私服の兵士を雇用してはいけないし、いわんや私服の情報部員が戦闘行為に参加しては、それは単なる殺人にすぎない。ロレンスはベドウィンの服を着るのではなく、イギリス陸軍の制服を着用すべきだった。
トルコ軍は、イギリスの病院船に発砲することなく、また出来る範囲では捕虜の処遇も良好で、国際法を遵守したフェアな戦い振りだった。対するイギリス軍は戦況の不利を原因として数多くの違反を繰り返しており、これもその一つである。日露戦争でロシアの暴動をあおった明石元次郎が直接、私服を着てペテルスブルグの街頭にたちデモ隊を扇動し、警察・コサックをテロにかけるようなものである。
また戦後の批判をおそれてロレンスの身分を転々と変えていることに注意すべきだ。イギリス軍としてロレンスの行為を正式認知できないのはそこにある。
またメッカ太守ファイサルは、ベドウィン族の族長であるが、定住したアラブ人とは交流があったわけではない。また当時オスマン帝国の首長の呼称はカリフであり、イスラム教徒にとっては、世俗上は君主としなければならない地位にあった。すなわち、ファイサルの擁立自体、トルコとの苦戦から生まれた苦肉のアイデアである。
このやり方をトルコ側からも見て欲しい。トルコのアラビア支配は決して、暴虐なものではなかった。戦争によりメッカ巡礼者が減少し収入が減った、メッカ太守ファイサルらしか、トルコに敵対するものはいなかった。イギリス側からみた一方的な見方、文明で劣後したトルコによる支配から解放するためには何をしても良い、は誤りである。
戦後、マクマホン書簡など、アラブ独立の約束とみられる空手形もあり議会でも追求され政府答弁も苦し紛れとなった。根本原因は第1次大戦前のイギリス自由党のトルコ蔑視にあり、トルコが中央同盟に組したのもそのためである。イギリスは伝統的友好国を切り捨てる時不必要な行動を伴うことがある。これはその好例だろう。しかし反省できるのもイギリス人でチャーチルは戦後、ロレンスからアラビアとトルコを徹底的に研究した。第2次大戦でついにトルコを中立とさせたのは、その成果かもしれない。
ロレンス自身のアラビアでの努力はやはり賞賛に値する。つまり、問題はこれを命令したイギリス外務省だろう。
ロレンスは随員の資格でパリ講和会議に参加した。その後軍の援助を得て、アラブ問題研究所を開設、チャーチルやウェーベルも加わった。その後は奇矯な行動が目立ったが出版活動やロビーイストとして活躍した。1935年交通事故により死亡。

中野好夫『アラビアのロレンス』岩波新書 1940
Knightley,P.&Simpson, C.,The Secret Lives Of Lawrence
of Arabia, London, 1969(邦訳)『アラビアのロレンスの秘密』 村松仙太郎 早川書房 1971
自叙伝;Seven Pillars of Wisdom-A Triumph, London, 1935(邦訳)『知恵の七柱』 柏倉俊三 平凡社 東洋文庫 1969
Nicolle, D., Lawrence and the Arab Revolts, London, 1989
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