(*1)南地区隊陣地の左翼、海岸近くにあった魚雷庫。2月17日、海軍重砲陣地は掃海艇にたいし砲撃、位置を暴露したため、大口径艦砲による反撃を招き壊滅した。その夜、魚雷庫は大爆発を起し、近くに駐留した1個中隊を全滅させてしまった。この事故により南地区陣地に穴があき、2月20日上陸翌日に米軍に占領される結果となった。
本件電報は1945年3月7日に参謀本部に打電されたものである。米軍の硫黄島上陸は2月19日であり、すでに日本軍は3割程度の兵員が残るのみで、弾薬は尽きていた。栗林忠道は3月26日に戦死したと推定されている。栗林は参本宛ではあるが、同じ騎兵畑である蓮沼侍従武官長(そのあと終戦クーデターを阻止する側にたった)にも披瀝されることを希望している。おそらくこれが硫黄島戦についての司令官による総括的文書である(なお防衛研究所『硫黄島戦史』や陸戦史研究普及会『硫黄島作戦』陸戦史集15(第二次世界大戦)原書房1970、では第5項がなぜか省略されている。編集者が自衛隊関係者であるだけに理解に苦しむ。栗林が決死の気持ちで陸海二元統帥の誤りを説いた箇所を故意に欠落させており、戦史に学ぶ気概がないとも評することができる)。
栗林の工夫は敵の上陸予定地点(幅3キロの砂浜)に対し、縦に数線からなる縦深的抵抗地区をつくり、そこに兵員を貼り付けることだった。これは、フランスのペタンの戦略的縦深陣地を応用して、第1線陣地に戦術的縦深性を施したものといえる。栗林が陸大教官であった蓮沼蕃から陸大在学中の1923年(大正12年)ごろ教授されたものであろう。
縦深陣地戦術を成功させるためには準備がもっとも大切である。制空権を失った地上軍はいっさい、「目標」をつくってはならない。水際にトーチカ網や重砲陣地をつくることは無駄なのである。さらに飛行機がない飛行場は破壊の対象ではあれ防禦上意味をもたない。結局、島嶼に基地航空をおき、相互に連絡することによって持久が可能だとする「内南洋絶対国防圏」は、海上における決戦に敗れれば、島嶼においた陸軍部隊を徒に斃死させる策であった。この戦略で戦争を開始した海軍首脳部と陸軍東條一派は、軍事学に疎いという意味で、万死に値する。栗林は1923年に縦深防禦について研究し、当然戦略的縦深も教授されていたのである。島嶼防衛網がいかに陸戦常識にはずれたものだったのか、政治干渉を好む陸軍省部将校は理解できなかったのである。
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