栗林忠道の総括電報

(第109師団のコードネーム)参電第351号(三・七・二三〇〇)
参謀次長宛膽部隊長(栗林忠道)蓮沼侍従武官長ニ伝ヘラレ度

感状速ニ上聞ニ達セラレ将兵愈々感奮興起セリ 御懇情謹ンテ御礼申上ク
硫黄島ノ防備就中戦闘指導ハ陸大以来閣下ノ御教導ノ精神ニ基クモノ多シ
小官ノ所見何卒御批判ヲ乞フ

  1. 現代艦砲ノ威力二対シテハ「パイプ」山(摺鉢山)地区ハ最初ヨリ之ヲ棄テ水際陣地施設設備モ最小限トシ又主陣地ハ飛行場ノ掩護二拘泥スルゴトナク更二後退シテ選定スルヲ可トス(本件因ツテ来ル所海軍側ノ希望二聴従セシ嫌アリ)
  2. 主陣地ノ拠点的施設ハ尚徹底的ナラシムルヲ要ス其ノ然ルヲ得サリシハ前項水際陣地ニ多大ノ資材、兵力、日子ヲ徒ニ徒費シタルカ為ナリ
  3. 主陣地二於テ陣前撃滅ノ企図ハ不可ナリ数線ノ面的陣地二夫々固有部隊ヲ配置スル縦深的抵抗地区ヲ要ス
  4. 本格的防備二着手セシハ昨年六月以降ナリシモ資材ノ入手困難、土質工事不適当、空襲ノ連続等二依リエ事ノ進捗予期ノ如クナラサリシ実情ナリ又兵力逐次増加セラレシ為兵カ部署ハ彌縫的トナリシ怨ミアリ
  5. 海軍ノ兵員ハ陸軍ノ過半数ナリシモ其ノ陸上戦闘能力ハ全く信頼ニ足ラサリシヲ以テ陸戦隊如キハ解隊ノ上陸軍兵力ニ振リ向クルヲ可トス
    尚本島ニ対シ海軍の投入セシ物量ハ陸軍ヨリ遥カニ多量ナリシモ之カ戦力化ハ極メテ不充分ナリスノミナラス戦闘上有害の施設(*1)スラ実施スル傾向アリシニ鑑ミ陸軍ニ於テ之カ干渉指導の要アリ
    之カ陸海軍ノ縄張的主義ヲ一掃シ両者ヲ一元的ナラシムルヲ根本問題トス
  6. 絶対制海、制空権下ニ於ケル上陸阻止ハ不可能ナルヲ以テ敵ノ上陸ニハ深ク介意セス専ラ地上防禦ニ重キヲ置キ配備スルヲ要ス
  7. 敵ノ南海岸上陸直後並二北飛行場二突破楔入時攻勢転移ノ機会アリシヤニ観ラルルモ当時海空ヨリノ砲撃、銃撃極メテ熾烈ニシテ自滅ヲ覚悟セサル限リ不可能ナリシカ実情ナリ
  8. 防備上最モ困難ナリシハ全島殆ト平坦ニシテ地形上ノ拠点ナク且飛行場ノ位置設備カ敵ノ前進楔入ヲ容易ナラシメタルコトナリ
    殊ニ使用飛行機モ無キニ拘ラス敵ノ上陸企図濃厚トナリシ時機二至リ中央海軍側ノ指令ニヨリ第一、第二飛行場の拡張ノ為兵カヲ此ノ作業二吸引セラレシノミナラス陣地ヲ益々弱化セシメタルハ遺憾ノ極ミナリ
  9. 防備上更二致命的ナリシハ彼我物量ノ差余リニモ懸絶シアリシコトニシテ結局戦術モ対策モ施ス余地ナカリシコトナリ
    特二数十隻ヨリノ間断ナキ艦砲射撃並ニ一日延一六〇〇機ニモ達セシコトアル敵機ノ銃爆撃二依リ我カ方ノ損害続出セシハ痛恨ノ至リナリ
    以上多少申訳的ノ所モアルモ小官ノ率直ナル所見ナリ何卒御笑覧下サレ度
    終リニ臨ミ年釆ノ御懇情ヲ深謝スルト共二閣下ノ御武運長久ヲ祈リ奉ル

    (細木重辰『栗林騎兵大尉の絵手紙ほか』2004)

(*1)南地区隊陣地の左翼、海岸近くにあった魚雷庫。2月17日、海軍重砲陣地は掃海艇にたいし砲撃、位置を暴露したため、大口径艦砲による反撃を招き壊滅した。その夜、魚雷庫は大爆発を起し、近くに駐留した1個中隊を全滅させてしまった。この事故により南地区陣地に穴があき、2月20日上陸翌日に米軍に占領される結果となった。

本件電報は1945年3月7日に参謀本部に打電されたものである。米軍の硫黄島上陸は2月19日であり、すでに日本軍は3割程度の兵員が残るのみで、弾薬は尽きていた。栗林忠道は3月26日に戦死したと推定されている。栗林は参本宛ではあるが、同じ騎兵畑である蓮沼侍従武官長(そのあと終戦クーデターを阻止する側にたった)にも披瀝されることを希望している。おそらくこれが硫黄島戦についての司令官による総括的文書である(なお防衛研究所『硫黄島戦史』や陸戦史研究普及会『硫黄島作戦』陸戦史集15(第二次世界大戦)原書房1970、では第5項がなぜか省略されている。編集者が自衛隊関係者であるだけに理解に苦しむ。栗林が決死の気持ちで陸海二元統帥の誤りを説いた箇所を故意に欠落させており、戦史に学ぶ気概がないとも評することができる)。

栗林の工夫は敵の上陸予定地点(幅3キロの砂浜)に対し、縦に数線からなる縦深的抵抗地区をつくり、そこに兵員を貼り付けることだった。これは、フランスのペタンの戦略的縦深陣地を応用して、第1線陣地に戦術的縦深性を施したものといえる。栗林が陸大教官であった蓮沼蕃から陸大在学中の1923年(大正12年)ごろ教授されたものであろう。

縦深陣地戦術を成功させるためには準備がもっとも大切である。制空権を失った地上軍はいっさい、「目標」をつくってはならない。水際にトーチカ網や重砲陣地をつくることは無駄なのである。さらに飛行機がない飛行場は破壊の対象ではあれ防禦上意味をもたない。結局、島嶼に基地航空をおき、相互に連絡することによって持久が可能だとする「内南洋絶対国防圏」は、海上における決戦に敗れれば、島嶼においた陸軍部隊を徒に斃死させる策であった。この戦略で戦争を開始した海軍首脳部と陸軍東條一派は、軍事学に疎いという意味で、万死に値する。栗林は1923年に縦深防禦について研究し、当然戦略的縦深も教授されていたのである。島嶼防衛網がいかに陸戦常識にはずれたものだったのか、政治干渉を好む陸軍省部将校は理解できなかったのである。


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