上海・南京戦の勝利により、近衛は従来の非拡大を棄て拡大路線に転換した。近衛の意図は講和を自分の手ですすめ政治的得点を稼ぐことだった。当時近衛側近が作った文書が残されている。
今南京が陥落し蒋介石政権も窮境にたっているが権威が失墜したとは断言できない。手を緩めればまた頽勢を挽回してくるだろう。いわば、もう一押しという所だ。
このような情勢にあるとき(日本側から)条件を提示し講和を促すことは重大なる弱点がある限り、軽々にするべきでない。却って(中国の)侮りをうけて戦意を復活しかねない。すると大害を将来に招く。ゆえに政府としてはドイツ大使からの交渉にたいして賛成することはできない。
ただ軍部側の切なる希望もあり、賛成しただけにすぎない。もし中国側が全面的に承諾しなければ、この交渉は打ち切るべきだと了解に達した。
しかし軍部は支那が一部修正を申し込む場合は多少の譲歩をすべきだとの希望をもつ、と聞いている。軍部がこのように講和を急ぐのはそこに深い事情があると推測せざるを得ない
だがこれまで陸軍大臣は率直に閣僚に説明していない。もし陸軍大臣が他の閣僚を納得させることができないならば、政府は軍部側と別個の所信に向かって邁進する他ない。
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細木 重辰 「南京攻略戦」(『歴史と旅臨時増刊』1992・5 秋田書店)より、現代語に訳した。側近が近衛の口述を筆記したものと信じられている。
すなわち近衛は陸軍の意向を無視して工作つぶしに出る気持ちだったことがわかる。そして自分のことを政府と称しているが、これは広田を含んだ言辞だろう。政治家によるこの種の軽挙盲動は、現在においても発生している。ただ普通、外務省がなんらかのアクションにより防止することが多い。ところがこの時の外務省は違った。
工作の中心にいたのは広田弘毅である。この人物は元来英米派だが、玄洋社に関係するなど大アジア主義または福岡県閥に愛着をみせかつ心情としては反軍部だった。しかし軍部と結託することにより地位を築いたこともあり、対立は避けたかった。この時、ドイツとのパイプを握っていたのは広田だった。
近衛言行録
また誤解があるが陸軍軍人がドイツ軍事学に入れあげていたのは事実だが、それと国家としてのドイツは区別していた。もちろん愛着は示したとしても同盟や敵対は別個のことと理解していた。陸軍軍人がドイツ贔屓のため国を売る程モラルが低いことは決してない。そのうえ上海決戦ではドイツ国防軍軍人は敵として現れていた。陸軍はヒトラーの対フランス戦勝利で「バスに乗り遅れるな。」という言葉が現れるまでドイツとの同盟を絶対としていたわけではない。
もちろん普通の陸軍軍人が世界情勢を把握したり、長期的外交関係を理解できる力はない。またそういった教育もなく経験もない。頭にあるのは中国へ派遣した軍をどうするか、更に脅威である(極東)ソ連軍にどう対峙するかしかない。
究極的な責任が近衛にあるのか広田にあるのかはわからない。ただトラウトマン工作より筋がよいアメリカの仲裁も広田が断っている。やはり外務省が必要な情報を天皇、近衛(内閣)軍部にあげなかった可能性が強い。更につけ加えれば、交渉に当たっての日本側主張のパターンが独ソ両国に筒抜けになったことも見過ごせない。
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ゾルゲによるトラウトマン工作通報の可能性
リヒャルト・ゾルゲは日本が北進論を断念し、真珠湾攻撃にむかったことを通報したことで有名だが、それに止まらず、2・26事件のころから日本の機密情報を獲得、赤軍第4部に通報していた。戦前の検事調書ではゾルゲが赤軍に属していたことを明らかにするのに失敗している。
これは尋問が内務省の手で行われたためである。スパイ行為は平時においても戦時国際法が適用になる。ゾルゲの場合は民間人の格好で赤軍の支配下にあったのだから本来は軍法会議(軍事法廷)で軍事間諜として扱われ、通常は即時銃殺となる。このあたりは内務省が戦時国際法に暗かったのだろう。
調書によればゾルゲは1937年12月「日本の希望によりトラウトマン工作が開始されたが、日本の支那にたいする要求の増大と南京占領とにより失敗に終わるだろう。」と打電した。
この内容はおそらくドイツ大使ディルクセンから得たものだ。この内容は恐るべきものを含んでいる。すなわち外務省は天皇にこの条件吊り上げの経緯を戦後に至っても報告していない。ところが、外務省とドイツ大使とはなんらかの打ち合わせをしていることだ。
この後、ディルクセンは外務次官ワイツゼッカーの手により更迭されオットーが赴任した。オットーもゾルゲを重用したが、反面ゾルゲはオットーの妻と内(姦)通(当時は日本の刑法犯にあたる。)していたと言う。事件発覚後、リッペントロップによりオットーは北京の閑職に回され、そこで妻と離婚している。片足が不自由でもそちらの方は活発でドイツ大使館員の妻、相当数と関係していた。
この男のために、日華事変の終息がある程度、妨害されたことは明らかであり、ゾルゲ事件は十分教訓とされねばならない。
当時リッペントロップはソ連との交渉もあり、日本との提携を強化する計画だったがヒトラーに止められたと言う。ヒトラーは日本の政治自体は昭和天皇がすべて最終的に決裁していると信じ込み、通常の外交ルート以外はパイプを持とうとしなかった。そしてヒトラーのテーブルトークには大島大使からの情報が頻発して出てくる。
結論を先にすれば、三国同盟は軍事条約だが日独の軍部がほとんど接触しない珍しいものだった。これからみても当時の陸軍は同盟を共同作戦実施のためとは全くみなかったことがわかる。そしてドイツ軍部の中心にいたカイテル、ルントシュタット、ヨーデルの手記には日本は全く登場しない。
リヒャルトゾルゲの戦歴
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近衛はトラウトマン工作に初め賛成を与えのち反対に転じたことが、これによりわかる。そしてトラウトマン工作のイニシアチブをとったのは外務省=広田である。ここにねじれがある。近衛がこの時尾崎秀実らの影響でトラウトマン工作潰しに出たとみる証拠はない。ただし尾崎は蒋介石無視=汪兆銘政権樹立策を積極的に支持する論説を発表していた。
トラウトマン工作はここにあるように近衛が途中で広田の出していた第1条件を吊り上げたことにより失敗した。失敗というのは蒋介石は第1条件をマル呑みしていたが、近衛が要求した第2条件のマル呑みに躊躇したためである。実は第1と第2でそれ程差はない。ただ文言が第2の方が厳しく素人が読めば面子を失わせるものがあった。とにかく蒋介石は内容の詳細を知るため照会を入れた。これに対し近衛は陸軍の反対を押し切り、無礼だとしてトラウトマン工作自体の中断と汪兆銘工作を開始した。近衛の動機はここにある言葉だけでは理解できない。
一方、蒋介石は面子を無視し受け入れることはできた。やや躊躇の姿勢をみせたのは近衛と陸軍(多田参謀次長)が対立したことを知っていたためだとも推定できる。蒋介石はおそらくドイツ大使(トラウトマン)から、日本側の内部対立を教えてもらっていたのではないか。
トラウトマン工作
このトラウトマン工作潰しの歴史に与えた影響は計りしれない。第一に陸軍は間違いなく対ソ連に集中し中国大陸の泥沼から脱することができる。もちろんこれは対ソ連戦争(先制攻撃)の可能性を強くする。しかしスターリンが日本の軍事力を考慮し、対ヒトラー強硬方針をとれなくなった公算も強い。そして陸軍は少なくとも親米路線に転換しただろう。中国問題を除けばアメリカとの間に争点はない。
第二に蒋介石は武装共産党解体(掃共作戦)に集中でき、もし日本の軍事的支援があれば少なくとも国共内戦でみられたように満州から崩壊することは避けられただろう。極東を以降現在まで混乱に陥れたほとんどの要因が発生しないことになる。
東條らを除けば陸軍は上海決戦を純軍事的な観点でみる傾向が強かった。ところがこの文民介入による講和失敗から、打開策を自ら求めたり(桐工作)、外交=ドイツとの戦時同盟による打開を求めるようになる。
文民が軍部の意向に反して、講和に反対した。これだけでもあまりない事だ。そして近衛は国民に人気があった。政府各省はセクショナリズムに走り自分の権限の維持に汲々としていた。とくに広田・近衛は第1次大戦型戦争の悲惨さを理解していなかった。すなわち小火器中心の陸戦で武器・兵員が拮抗していれば双方に膨大な損失が生じそれは賠償・領土という手段で取り戻せるものではない。
上海決戦はそれでも日本の一方的な勝利のため、この凄惨さが広田・近衛にはわかりにくかったのだろう。第2次大戦以降は日華事変のように国家間の戦争でもある地域の治安維持を目的とする戦争が大部分となった。もともと日華事変の日本の大義、中国内の治安確保、満州分離をG5諸国とソ連に訴えるべきであり、それを戦争目的として明確にすべきだった。他国への働きかけにより自国の要求が縛られるのは事実だが、敵から攻撃をうけ防衛に成功しても講和により大きな利得は期待できない。近衛のような軽佻浮薄子が国民の人気を集めたのが悲劇の始まりだった。
現在からみると、昭和天皇の上海短期決戦・即講和というお考えが一番すぐれていたようにみえる。近衛は多田参謀本部次長について次のように人物評を行った。(原田熊雄述『西園寺公と政局』第6巻103ページ、1951)
「参謀次長なんかに至ってはまことに判らない先生でよくあそこまで行った(出世した)ものだ。」
恐ろしく品格が感じられない言葉だ。こうしてトラウトマン工作は失敗した。しかしこの後も蒋介石やその周辺、もしくは日本側から和平の声があがった。もちろん太平洋戦争開始後は蒋はアメリカに期待したから講和の機会はなくなった。その間、陸軍は外務省をはずし自ら講和を図った。これは「蒋介石を相手にしない。」という政府の方針をも無視したもので評価しうる。しかし東條らの主戦論(=駐兵論、陸軍のポストを狙ったものだろう)に阻まれ政治的要求の段階で方針を詰めることができなかった。
交渉の前提としてまず休戦ラインを設定することから始めればよかったのだが。
2万人の英霊が散華し、第1次大戦以降の塹壕戦として最も徹底的な勝利だった上海攻防戦はこうして近衛と外務省の愚行により無に帰した。
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近衛の「英米本位の平和主義を排す」
近衛のパリ講和会議印象記