政治家ケマル・アタチュルク

政治家ケマル・アタチュルク

政治家ケマル・アタチュルク

政治家ケマル・アタチュルク

政治家ケマル・アタチュルク

1919年退役し民間人となったころのケマル・アタチュルク;目は常に灰色に光っていたという。政敵のメフメトY世はケマルについて出自のわからない人物、トルコ人ではなくおそらくセルビア人だろうと語った。

軍人ケマルはガリポリ半島でそれまで決して良好な戦績(露土戦争におけるプレブナ防衛戦を除き)をあげていないトルコ軍を率いて、イギリス・フランス連合軍を撃破した英雄である。普通の人間であれば、それだけでも大変なことだと評することができる。

しかしケマルの功業はそれに止まることがなかった。政治家ケマルの業績も軍人のものに劣らない。そして先見性においても抜きん出ていた。帝国ビジネスが本国の国民に利益をもたらさず、災苦をもたらしかねないと主張した。すなわち「トルコの若者がなぜエジプトやイエメンで血を流さねばならないのか?こんな常軌を逸したことを続けてはならない」と演説した。

しかもギリシャとの戦勝直後の言である。

英仏伊軍の軍事占領

1918年10月トルコが休戦協定に応じたときケマルはシリア戦線の司令官だった。その残務整理が終わり首都のイスタンブールに戻ったのは12月の初頭だった。それまで権力を握っていた青年トルコ党の面々はいずれもトルコを去り、そして後を埋めたのはオスマン帝国の宮廷だった。そしてスルタン・メフメトY世はケマルを重用しなかった。

メフメトY世はしかし旧時代から脱却できない人物だった。オスマン帝国の衰勢は18世紀の初頭、既にはっきりしていた。そしてこの苦境を帝国はアラブ世界において強権力で、ヨーロッパでは外交で乗り切ってきた。そして帝国の最も重大な敵は帝政ロシアだった。そして帝国はロシアと12回戦ったが、クリミア戦争を除いて全て敗れた。それでも滅びずに済んだのは、イギリスとドイツが常に帝国の味方をしたためだった。

しかし、帝国はイギリスと第1次大戦でことを構えた。戦後ヨーロッパ外交の世界からロシアとドイツが姿を消した。メフメトY世は帝国の存続をイギリスに期待した。だがロイド=ジョージ率いる自由党内閣は従来のトルコ政策に回帰することなく、事実上トルコの分割、アナトリア地方政権への縮小方針で臨んだ。この方針はロイド=ジョージの失脚まで続いた。

英仏軍は休戦協定成立のあと、とくに占領方針を定めないまま、すなわち保障(講和条約履行の)占領の調子で各地に進駐を開始した。これはオスマン宮廷の了解を得てすすめられ概ね北部をイギリス、南部をフランス、ロードス島周辺をイタリーが占領した。しかし実際のところ、旧連合国に大兵力を派遣する余力はなく、イギリスが2個師団、フランス1個、イタリー2個連隊であり、分散配置した結果1都市に50名程度すなわち1個小隊にも欠ける配置となった。

これでは奥地への配置は不可能であるばかりでなく、しばしば兵力寡少を狙われ襲撃を受けた。そして戦中のアルメニア人虐殺事件の余波が残り、住民同士のテロ事件もあとを絶たなかった。

ギリシャ軍の進駐

ギリシャ軍のイズミル上陸の直後、1919年5月19日ケマルは第9軍の閲兵長官に任命されサムソンに向かった。これはオスマン宮廷の指名だが危険人物を追放するつもりだったのだろう。これはかえって虎を野に放つことになった。

5月22日ケマルはアマスヤに滞在、トルコ軍の各級司令官にアマスヤの回状と呼ばれる文書を配付しギリシャ軍の掃討を呼びかけた。そしてシバスにおける議会開催を訴えた。オスマン宮廷はこの回状を知り直ちにケマルを免職した。

ギリシャ軍侵攻の知らせは復員の途次にあったトルコ軍を再度緊張状態に置いた。当時トルコ軍の無傷の最有力軍団はアルメニア独立運動に対抗するためエルゼルムにあった。そしてギリシャ軍に対する抵抗を考えた軍人はエルゼルムに自然と結集した。

エルゼルム議会とシバス議会

アンカラにおける1920年頃の議会。議事堂は公民館として使用されたもので議員を収容できず屋外で開催された。

そしてアナトリア東部の軍幹部の圧倒的な支持を受け、7月23日エルゼルムで議会が開催された。そこで@あらゆる外国の占領と干渉に反対しA国家独立のためオスマン宮廷の失政の場合に備え臨時政府を樹立しB議会を直ちに結成することを採択した。

更にアナトリア東部における行政府維持のためシバスで再度議会が招集された。ここではエルゼルム議会の採択が確認され、「アナトリアとトラキアの権利防衛機構」の下に国家の行政府が統一されることが合意された。

この議会に出席した議員の大半は旧オスマン帝国議会議員であり元青年トルコ党員だったといわれる。国土防衛の熱情に溢れる反面未だオスマン帝国を全面否定できないディレンマに置かれていた。

しかしこの結果オスマン宮廷とケマルとの関係は完全に断絶した。そしてオスマン宮廷により指名されたダマト・フェリト宰相の内閣は倒れアリリザに代わられた。その後ケマルは再三イスタンブール以外の地での議会開催をアリリザに要求した。

ところがアリリザもイスタンブールで議会を開催するなど二重政府、二重議会の様相を呈し始めた。その間、ケマルはシバスで各級司令官や地方行政府役人による委員会を設置しいくつかの重要な決議を採択した。1919年12月27日、ケマルはアンカラに移動した。

一方イスタンブールでも1920年1月12日、議会が開催された。だが両議会のメンバーはほぼ重なるという変則状態だった。そしてイスタンブールの議会もシバス議会とアナトリアとトラキアの権利防衛機構の採択をそのまま認め国民条約として採択した。

セーブル条約

ギリシャ軍は1920年3月3日イズミル地区を東方に進発し、6月までにブルサを始め数都市を占領した。これに伴いオスマン宮廷宰相アリリザは退陣再度ダマト・フェリトが返り咲いた。そして3月16日、海峡国際管理地を英軍2個師団が全面占領した。そしてイギリスはシバス議会に賛同した議員の一部を拘束しマルタ島に幽閉した。この中世的悪事に対し、オスマン宮廷は反発せず、議員の怒りを買うことになった。一方議員に去られ落胆していたケマルは国民軍の創設と新議会をアンカラで開催するコミュニケを発表した。

つまりギリシャ軍とイギリス軍が動くとケマルの株があがる結果となった。オスマン宮廷は国民軍の結成は大逆罪だとして懲罰軍を編成した。

ケマルの主唱した新議会は国民大会議と名付けられ4月23日に開催された。そしてケマルが議長となり、アンカラ政府がトルコを代表すると発表した。

ダマト・フェリトは直ちに反応し、ケマルの軍籍を剥奪し死刑を宣告した。

この結果、出来たての国民軍は三方向すなわち、対ギリシャ、対オスマン宮廷、対アルメニアと向かいあうことになった。

セーブル条約によるトルコの分割

セーブル条約によるトルコの分割は極めて過酷なものだった。そして俄か連合国のギリシャは従来の領土に匹敵するものを獲得した。即ちブルガリアからは西トラキアを獲得した。更にトルコから東トラキア、イズミル地区を獲得、更にロードス島を住民投票の結果得ることが射程に入っていた。ギリシャはそれに飽きたらず、イスタンブールを含む海峡地区さらにアンカラ以西のアナトリアの軍事的占領併合、黒海沿岸都市、キプロス島の獲得をも考えていた。

ところがイギリスはまたしても致命的な失策を犯した。1920年8月10日オスマン政府との間でセーブル条約を締結した。これはイギリス主導の433条に及ぶ商業契約書のような雑文であり、読むに耐える代物ではない。ロイド=ジョージの謂われのないトルコ人蔑視の所産にすぎない。これに従えばトルコ人の居住する場所はなくなる。

ロイド=ジョージは「今度こそ病人は死んだ。あとは遺産をどう相続するかが問題だ」と叫んだ。だがどっこい病人は死んでおらず、前よりも強靭な体で再度ロイド=ジョージとイギリスの前に立ちふさがることになる。

そして援軍は思いもかけぬ方向からも来た。ソ連がアンカラ政府を承認したのだ。これはアルメニア人独立運動に手を焼いたレーニンがコーカサス地方の鎮定のためトルコ(国民)軍と協力することを考えたためだ。オスマン宮廷軍(懲罰軍)は編成されたものの海峡地区に限定されており広いアナトリアを埋める軍事力としてこの時点でケマルの軍隊しかなかった。ケマルの敵は多いが互いに利益が反していた。

アルメニアの敗亡と仏伊の脱落

トルコ軍とフランス軍の戦いは1919年秋には開始されていた。初めは組織的なものではなくフランス軍が組織したアルメニア旅団とトルコ人との間の争闘だった。アルメニア人はアダマからアレキサンドレッタ周辺を小アルメニアと称して、アルメニア建国が認められればそこも領土の一部をなすと主張していた。アルメニア人がそこに長く居住していたのは事実だが、住民のなかで多数派を占めるとは到底言えなかった。そしてトルコ領内のセーブル条約で定められたトレビゾンドやエルゼルム周辺でもこれは同様だった。

フランス人はこの争いに介入することが無意味だとわかり始めていた。このため1920年5月には早くもケマルとの休戦交渉に乗り出した。これはセーブル条約締結の3ヶ月前であり、この条約がイギリスの一人芝居にすぎなかったことがわかる。

アルメニア問題がソ連赤軍との挟撃により11月までにかたがつくと、ケマルは南部軍を結成しアンタリアにいたイタリー軍とアダマ周辺を占領していたフランス軍に差し向けた。この頃フランスはシリアでドルーズ族の反乱に苦しみ、最早シリア駐留軍はアダマに救援軍を送ることができなかった。孤立したアダマにトルコ軍は遠方から砲撃を浴びせ消耗を待った。

全滅の危機に曝されたフランス軍に血路を開いたり、最後の一兵まで戦うなどの意欲はなかった。これは当然のことだ。フランスはサイクスピコ協定によりシリアを得たものの、結果として自らがイギリスとトルコの間に置かれたことにこの頃気づいた。つまりイギリス軍は海峡に駐留しているものの、トルコ(国民)軍と戦っているわけではない。つまり戦っているのはオスマン宮廷軍(懲罰軍)、ギリシャ軍、フランス軍であるにすぎない。

ここに帝国ビジネスの愚かさがある。つまりケマルの言葉を借りればフランス兵がなぜシリアのために命を落とさねばならないのか?という命題である。あるいはシリア人またはトルコ人の自由や人権のためであれば死ねるかもしれない。しかし現実にはフランスは当のシリア人ドルーズ族に手を焼いているのだ。

希土戦争

しかしトルコ軍もギリシャとの決戦が迫っているなか、フランス軍と戦いを継続する意志はなく1921年3月、アダマで休戦協定が成立した。この段階でフランス軍は1個師団を駐留させており、すでにその負担は限界に達していた。

そして1921年9月ギリシャ軍がサカリヤ河畔でトルコ軍に惨敗を喫したあと、フランスはブイヨンをアンカラに派遣した。交渉は数次に及ぶ複雑なものだったが、1921年10月20日アンカラ条約として署名された。これによりシリアとトルコの現在の国境線が定められた。トルコはセーブル条約の範囲を越えアレクサンドレッタ周辺を確保した。11月、フランス軍は将軍ドフュイに率いられアダマから粛々と撤退した。ドフュイはこのようなフランスと何の関係も土地でフランスの若者を殺してしまったと、その墓前で号泣したという。

そしてフランスが撤退するとほぼ同時にイタリー軍もアンタリアから撤退した。

スルタン制の廃止

希土戦争はサカリヤ河畔の激戦からイズミルの奪還と進みトルコ軍の勝利は明らかとなった。この時、アナトリア半島に残存する外国の兵力はイギリスのみとなった。そしてイギリス軍は海峡国際管理地のチャナックの兵営にこもり出ようとしなかった。この間、イギリスは仏・伊に再度の出兵を求めるなど悪あがきを繰りかえしたが却ってトルコ強硬派のロイド=ジョージの失脚となって終わった。

チャナック危機

チャナック危機を終了させたムダニアの休戦協定(10月21日)により、セーブル条約は廃棄され別の講和会議がもたれることになった。

この間、11月1日議会はスルタン制とカリフ制の分離を決定した。そのうえでスルタン制は廃止された。この結果オスマン宮廷は回教徒の世俗の長としての役割のみにとどまり、国政に関与する権限を喪失した。この時点でケマルはオスマン宮廷の全面廃止までは考えず、おそらく宗教上の指導者の地位は残すことを考えていたと思われる。

ケマルの帝国主義批判

ところがローザンヌ会議を開催するにあたり、イギリス保守党のカーゾンは何を考えたのか、11月初旬、オスマン宮廷にも招請状をおくった。そして今やカリフとなったメフメトY世はそれを受諾した。これは破滅的な決定だった。すでにオスマン宮廷に従う国民はなくイスタンブールに幽閉の状態にあった。11月17日メフメトY世はケマルの勧めに応じ、イギリス艦でマルタ島に亡命した。あとは子息のアブドル・メズイットが継いだ。

ローザンヌ会議は1922年11月から翌年7月まで続いた長丁場の会議だった。領土については既にムダニア休戦協定で管理地域は決定されており、また治外法権などの不平等条約は最早イギリスに強制する力がないのは明らかだった。つまり現状にもとづいてそれを条約とするだけである。

それでもイギリスは抵抗した。この時までイギリスは第1次大戦の結果生じたことを未だ直視する勇気がなかったのだろう。つまりソ連をヨーロッパ外交のなかで考慮するならば、クリミヤ戦争の時と同じでトルコを味方にするよう努力するしかない。もしそうしないとすれば、それはイギリスがヨーロッパ外交から逃れ、バランサーとしての役割を放擲することに他ならない。それでもイギリス外交は一旦締結した講和条約を破棄するという屈辱に耐えながら、トルコとの外交的信頼関係の維持という一点は守った。それは第二次大戦でイギリスが孤軍となってヨーロッパを征服したヒトラー・ドイツとの戦ったさいトルコが最後まで中立を維持した成果として報われた。

ローザンヌ会議のトルコ代表は希土戦争の英雄イスメト・イノニュであり、そして第二次大戦の全期間大統領をつとめたのもイノニュだった。イノニュはケマルの片腕だが、ケマルはそもそもドイツにたって第一次大戦に参戦すること自体に反対だった。イギリスはドイツ支持のエンベルの青年トルコ党の悪夢をケマルと二重写しにしたのだろう。ケマルはエンベルとは対立したが、その国家主義者としての主張は認めていた。認めなかったのはテュライズムすなわち大トルコ主義である。ケマルはイギリス人バーナード・ショーにエンベルについての感想を聞かれ「夢想家だった」と評した。

ローザンヌ条約が締結されたあとケマルは共和国宣言をおこない、更にアブドル・メズイットを追放しカリフ制度を廃止、世俗国家としてのトルコ共和国を建国した。

ケマルの活躍は1938年11月10日、その死まで続いた。その間の文化的また経済的業績も偉大なものがある。20世紀の政治的巨人のなかで現在もその統治した国民に愛されている存在は数少ない。ケマルはそれに値するに違いない。

ケマルは3月事件(クーデター未遂事件)をひき起こした橋本欣五郎に賞賛されるなど、戦間期参謀将校にもてはやされた。ケマルの政治信条を一般的に表現すれば国家主義であり、イスラム国際主義とは対極をなす。ただケマルの国家主義は偏狭な人種主義や現実を無視した拡張主義・前進主義とは無縁だった。そして共和主義に基礎を置き、独裁に反対し議会を重視した。

橋本欣五郎は1930年までアンカラの駐在武官として何回かケマルと面会したに違いない。しかし橋本は自伝においてもケマルの実際的な側面に注意を払っていない。軽率な夢想家だったに違いない。そして桜会などただ料亭で酒を飲む目的のようなケマリストの会をつくり、参謀将校を集めクーデターを夢想した。実際のケマルは全くの逆の存在である。ケマルはあくまでもテロに反対し一党独裁を嫌悪し、外征を嫌った。ケマルの名言はトルコの若者がなぜイエメンやエジプトで命を落とす必要があるのか?に尽きる。同様に日本の若者がホロンバイル平原やアラカン山系で命を落とす必要はなかったのだ。


セーブル条約