日本陸軍はイギリスと同様に、総動員に憧れたが、その必要はなかった。隣接国が海外にあるから、敵が動員をかけてもそれから兵員を召集して間に合うしそもそも徴兵制が必要あるかも疑問である。徴兵制といっても平時は甲種のみが召集される体制であるし、その合格比率も年次で変動している。また全員が訓練を義務付けられたとは言い難い。徴兵制の完成度は成年男子の総数に対する訓練済み予備役兵士の比率で表される。訓練率と呼ばれるもので、第1次大戦前の独仏両国では6割以上に達していた。これに対し、日本は1935年まで2割を越えることがなかった。2割はイギリスなど志願制をとっている国と大差がない。
戦間期前半日本は大国のなかではアメリカと並び最も兵営国家とは遠い存在だった。ただ若手参謀将校は現在の少壮官僚にみられるようにその国のよってたつ基盤を理解することなくただ単純に総動員体制を作らねばならないと考えた。
バーデンバーデンの密約
日本は第2次大戦が欧州で開始されても完全戦時体制とはせず訓練比率の向上を図らなかった。奇妙だがドイツも総動員を実施せず、1943年まで準戦時体制である。他方フランスとソ連は完全な総動員を実施した。日本は近衛師団を除き0から10番台を現役師団とし平時20個師団体制だが(宇垣軍縮で3個縮小)、太平洋戦争開始の時点まで逐次増加させたものの新設師団を除き49個師団にすぎない。しかも火力増強で歩兵3個連隊が基準で定員は以前より3000人減少していた。
新設師団は欧州でいう予備師団で(1936年兵制変更)装備が旧式なためほとんど内地にいて別名留守師団といわれた。番号は100番台である。一部は大陸に送られた。また大陸の戦線外の警備要員として独混旅団が作られた。これを見ても独仏が第1次大戦で15日間で80個師団近くを動員したという総動員の迫力がわかる。その時点で独仏の人口は1941年時点の日本の半分である。
関特演は田中新一陸軍参謀本部作戦部長の主導で進められた。1941年7月2日の御前会議で決められたとされる。動員下令による兵員の召集は充員召集令状によると定められていたが、機密保持のため、臨時召集令状に切り替えられた。官僚は自らの法律違反はすぐ救済措置をみつけるものである。だが臨時とゴム印で修正しただけなので事情はかえってよく分かる。
陸軍参謀本部作戦課
動員は7月7日(100号動員)から始まり在満州兵力を25万人から85万人に増やすことを目標として行われた。ただし動員は7月16日下令(102号動員)で打ち切られ、以降は南方への動員となった。関特演は、はなはだ奇怪なできごとである。
この動員演習(実際は動員というのは敵に脅威を与えるのが目的なので、演習でなくて実際動員して、攻勢をかけなければよいのだ。)で田中新一は何を考えたのだろうか。当然6月22日の独ソ戦開始を念頭においたのだろうから、同盟国への協力だろうか。ただ日ソ中立条約が発効していたが。
軍事的にみると85万人満州陸軍では100万人極東ロシア軍には対抗が難しい。そしてたとえばあと100万人を増員することは不可能ではなかった。もちろん予算は必要だが。要するに中途半端なのである。もし動員を理由に極東ソ連軍が攻勢に出れば簡単には敗北しないが(予備がソ連にはない)兵力の逐次投入で不測の損失を受けただろう。ロシア軍は当時機甲師団編成になっていなかったから、攻撃に出るのは難しく戦車は防御にまわった15留(150ミリ重砲)の餌食となった公算も強い。ただし守勢にまわったソ連軍にたいし日本から攻勢に出るのは、局地でのソ連の歩兵・戦車協同による地域支配力および陣地構築法からみて同じく難しい。
ヨーロッパの陸戦の規模は大きい。しかし当時の日本で手に余ったか否かは再検討の余地はある。陸軍の作戦畑の最大の仕事は予定戦場に最大の兵員を集めることだ。ロシアの人口は日本の3倍あり、すでに部分動員を実施し日本の兵員の5倍900万人300個師団を動員していた。この大軍にたいし独ソ戦が始まっても50個師団150万人程度で当たらねば勝ち目はない。極東向け師団は30個師団と見積もり、15個師団は西送されると見込んだらしいが、索敵能力欠如とシベリア鉄道軽視にすぎない。
実際は30個師団は減少せず更に増加した。当然この兵力では攻勢に出られず進退極まった。ソ連はそもそも郷土連隊主義をとっていないから、策源地での兵力配置を論じてもあまり意味がない。更にバルバロッサ作戦発動直後でスターリンは総動員を下令しており、各軍管区で予備師団が大量に作られていた。もともとの規模が違うのだ。
もちろん兵を装備させねばならないが、スターリンの国の工業力は、帝政時とは全く違った。1年間ほとんど援助もないなかで、独力で延べ550個師団を装備させるのに成功した。
実際には、ソ連はオムスク以東で37個師団配置し、極東に30個師団は常時即応できたと推定される。また第2次大戦全期間この程度の兵力はシベリアにあった。これは総動員実施の結果、予備師団の集結地ともなったためだ。
そして総動員というのは平時が重要で、ほぼを男子国民全員を日常的に訓練していなければ出来ない性格のものである。日本の地理環境がそういった体制を必要としない。均衡予算(日本陸軍はなぜかルーデンドルフ=レーニン流財政を信奉)を前提とするなら、動員力の不足を正面装備で補う、すなわち機甲師団の設立や航空兵力を重点としなければならない。しかし生産能力と消費量の区別が理解できない経済軽視の田中にはそれもわからない。下僚は同じく政治屋ばかりでアドバイスも得られない。
田中新一(1893−1976)
こうみると関特演は田中新一が戦略目的(外交目的)と作戦をもたず、独ソ戦をみて攻撃してこないことを見越して(事実正しかったが)楽しんだ作戦の実地演習ということになる。田中新一は極東裁判で作戦部長は上にいわれて計画を作るだけだと言い訳し、罪を武藤軍務局長にかぶせた卑劣漢でもある。また旧陸軍は政治にたいする作戦の優越を唱えたが、すると作戦が政治的効果(=外交的効果
たとえば中立国が敵対する)をよび、作戦をいくらたてても必敗となったらどうするのか。むしろこれを恐れて中途半端な児戯に類する計画をたてたのではないか。
要するに動員というのはこのような遊びの演習以外は演習としてなりたたない。当時陸軍参謀本部には作戦畑閥というのがあり、田中‐服部‐辻のラインで陸軍全体が引っ張られて行く。問題はこのラインが真剣に作戦に取り組んだのかという点である。辻が仕組んだマレー作戦を除き、陸軍はしっかりした作戦がなかったようにも見える。また独ソ戦でシベリア方面の兵がヨーロッパ正面に抜かれ攻勢のチャンスがあるとみたのだ、という説明もある。しかし季節、攻勢準備終了8月というのは最悪ではないか。それとも冬季を乗り切る作戦があったのか。
田中はその後1942年12月佐藤賢了陸軍省軍務局長とつかみ合いの喧嘩をやり翌日総理官邸で『バカヤロー』ほか悪口雑言を吐き、南方軍(ビルマ)に転任させられた。このあたりはプロイセンの参謀とはだいぶ趣が違う。こういった粗暴な人物が事実上陸軍の統帥部のトップにいたのだ。
このあと田中−辻がビルマで苦労したので、責任はある程度果たしたという見方もある。とんでもない話である。ビルマ戦線で倒れた兵士をどう考えるのか。二人に開戦責任があるとは言わない。作戦がなっていないのだ。太平洋戦争では絶対国防圏=大東亜共栄圏で持久するのが根本的な戦略であり、ビルマはそこに入っていない。そして海軍との協力があれば、陸路に出る必要があったのだろうか。そのうえ弱い部分というなら桂林打通と雲南打通を同時に進行させ重慶に脅威を与えた方が効果的だったろう。ビルマの地形では攻勢に出たほうが不利なのは陸軍が以前から言っていたことだ。
またこの三人とも戦後まで生きぬき回想録も残したが、三人とも真実の吐露に欠ける。田中は関特演の攻勢作戦(あったかどうか疑問であるが。)を断念したが翌年になれば南方作戦のあとにチャンスがあるかもしれないと思ったと書き残している。そのままに従えば、ソ連も含めた3正面作戦を実施する結果となる。それでもよいかもしれないが、南方作戦のあとというのは、12月8日(7日)の開戦を知っての謂ではないか。
また海軍が英米不可分論をとなえ、南方作戦に出ようとしたとき、陸海軍間で戦争決意論争が起きた。すなわち陸軍は奇襲をやるにせよ戦争決意が前提となることを主張した。これにたいし海軍は和戦両用でのぞみ、決定となればただちに奇襲作戦が可能だと説いた。これは両者の動員方法の差を考えれば、当然の論争だろう。これは陸軍の方が正当の主張をしている。海軍軍令部が陸軍の動員方法を知らなかった方がむしろ恐ろしい。
ただし当時、大国間の戦争で海軍がイニシアチブをとれるとは誰も考えなかった。この論争の背後にいる決定的人物が戦争のイニシアチブをとり20世紀後半の歴史を企まずして形成したのではないか。
この論争と関特演は陸上兵力動員の仮定としての議論が実際に試されたという点で、画期的である。また関特演は実際には対英戦を意識した陽動作戦だとする見解もあるが、とらない。事実一部はマレー作戦に向けられたが、結果論でロシア‐イギリス両面にわたる作戦は旧陸軍の資料から発見できない。
関特演が日米戦争の第一歩という説もあるが、ソ連はともかくアメリカはこの動員を脅威とみなした形跡がない。アメリカが問題にしたのは南部仏印進駐である。要するに関特演は中途半端なのである。従って関係がない。また軍事措置がすべて戦争の原因だといえば、起源論は必要ない。誰がイニシアチブをとって開戦(戦闘の開始)の契機となる作戦を推進したかが問題なのだ。
関特演は8月7日に事実上攻勢作戦は中止となった。だが兵力の拡大は続けられ、南方に転用され、フィリピン作戦およびマレー作戦に代替はあるものの使用された。これはいくつかの事を教える。動員を実施するだけなら攻勢作戦は不用だが、周囲を納得させるのは至難である。通常は作戦がなければおかしい。本当に作戦がなければ恫喝外交となる。また恫喝であれば秘匿は必要ない。この時場合に応じた作戦を即興で実施できるとは思われない。動員自体2ヶ月以内の短期のものでもなかなか即興を許さない。とにかく関特演は謎の多い事件であることは間違いない。
そして謎といえば第2次大戦の黄昏戦争も同じある。このときは、英仏は宣戦布告し、フランスは総動員をかけた。しかし英仏は攻勢作戦をもたず国境内で持久の作戦をとった。これは第1次大戦の戦訓により攻勢よりも防御の方が有利という考えに拘泥したためである。そしてドイツがシュリーフェンプラン類似計画をとると予想し、ドイツのベルギーへの侵攻そして攻勢防御というガムラン(第2次大戦のフランス軍参謀総長)計画に従った。ところがヒトラーに裏をかかれアルデンヌを中央突破された。これは防御のみの作戦が危険であることを示す。
D計画
田中新一は即興を含めて大規模作戦すなわち旧軍が実際に実施した12月8日からの攻勢作戦を準備出来るほどの人物ではない。12月8日からの作戦はシュリーフェンプランを越えた大胆さが備わっておりかつ成功している。田中がシュリーフェンに達することは到底ない。
(別宮 暖朗)

田中作戦部長の証言 田中新一 芙蓉書房 1956
政治家軍人らしく軍事には触れることがなく直前外交のみに終始している。それでも事実が伝聞の形でしか表現されていない。松岡外相が独ソ戦勃発に関しアメリカの見解を質したところ、「アメリカに手をこまねいて傍観しろと強制する国は武力侵略国(独伊)の一味・徒党とみなす」とアメリカから回答があったと記されている。現在までこの表現のアメリカ側記録は発見されていない。松岡・田中のような極端な反米・反ソ主義の人々に外交を壟断させたことを反省すべきなのだろう。日本語のこの表現では田中はアメリカは悪鬼のような国でしかないと思ったようだ。ただ田中は単純な男だけに外務省の作成した日本語テキストのみを間に受けた公算が強い。せめて英語を勉強するかまたは明治以降の日米外交史・国際法を知り外交文言がどのようなものか理解する必要があっただろう。なお下僚は戦後40年経過しても外交用語の侵略が理解できていないことを、自著で暴露している。

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