ビミーリッジで戦った日本人


1922年11月、カナダ大西洋岸のバンクーバーにあった日加新聞社は『在加日本人人名辞典』を発刊した。

当時、カナダ在住の日本国籍をもつ日本人は1万2000人ほどで、大半はバンクーバーまたはその近郊に居住していた。そして市の中心部パウエル街は、日本人が多く住み、日加新聞もそこにあり「日本人街」と称していた。ただ、第一次大戦前には人種的軋轢が加州と同様にあった。

バンクーバー暴動


1910年代のバンクーバー・パウエル街

そして、今日からみると異様だが、日本人男子が出稼ぎに出て、のち日本在住の縁戚・知人などから、婚約者の紹介をうけ、呼び寄せるケースがほとんど全てである。出身は熊本・福岡・広島の三県に片寄っている。

日加新聞は人名辞典に日本人がカナダ軍に加わり、出征した経緯を次ぎのように述べている。

「1916年1月、日本人義勇団組織せられ出師に志願するもの202名に達し、数ヶ月の教練を経たるのち、その出発隊は同年12月、渡欧の途に上り、ついで加奈陀兵に混じりて出征せるものなるが、陣中戦死せるもの、負傷せるもの頗る多く、帰還後兵員は約半数失われたり」

カナダ兵として戦った日本人(辞典に写真入りで登場した兵士)

山本万沢
原籍 愛媛県西宇和島(ママ)郡千丈村字郷
現住所 英領加奈陀晩香坡市ナレキサンダー(ママ)街240

君は明治26年を以って生まる。大正2年英領の地加奈陀の一角に上陸す。爾来海上生活に農園生活に奮闘すること2年、欧州大戦の結果加奈陀徴兵令の施行を見るに至るや君加奈陀帰化人たるの故を以って大正7年1月24日を以って召集せらる。入営後三ヶ月にしてヴィクトリア屯営を発し、征独の師に加わり、渡英す。のち仏国に入り加奈陀軍第1師団第7大隊に編入され戦闘線につく。大正7年11月休戦命令とともに対陣数ヶ月のち英国に帰り、加奈陀に帰還し、大正8年4月25日除隊となる。爾来農業に従事し今日に至る。君や加奈陀徴兵令に際し帰化邦人として召集されし第一人にして実に加奈陀軍人として誠忠を披瀝し、報告の丹心を発揚し、大和民族の清華を西欧の天地に耀かしものなり。想うに異境の空、大和錦の香りは永へに日月とともにその光輝を添えんかな。

この兵士は初めて、日系カナダ人として召集されたようである。ただ入営は1918年なので、最終攻勢にのみ参戦したものと思われる。当時、除隊兵士には20エーカーの農地が与えれた。

高島安雄
原籍 熊本県上益城郡豊神福村西下郷
現住所 英領加奈陀ビーシー州
(ブリティッシュコロンビア)マウントレーマン

君は明治11年10月25日を以って生まる。32年英領加奈陀の一角に上陸せり。偶々欧州大戦に際し挺身勇躍加奈陀軍兵として幾多の激戦に参加し殊勲を樹て大和民族の清華を発揚せし一人也。その驚天動地の活動を記せんは紙面に限りあり。ただ君を表彰せる次項を以って、これを補わん。
加奈陀第50大隊 高島安雄
1918年11月1日バレンシーネ前線のおいて勇敢なる行動と臨機の決断を敢行したる行為のためミリタリーメダルを授与さる。詳細は所属小隊が一家屋に接近せる際、敵の猛烈なる機関銃隊員を殴殺し、その勇敢なる行為は全小隊の全滅を防止したり。その後彼は敵の隠れたる狙撃者に突撃しその二名を殺せり、彼の全戦闘期間中における勇敢な行為は前期の成功をもたらしたるものなり。
加奈陀歩兵第50大隊長陸軍歩兵中佐エル・エフ・ページ
かくのごとく勇戦奮闘右腕及び左股に負傷すること二回におよび、1917年11月11日休戦命令一下、ここに平和の風は吹き渡りぬ。のち加奈陀に帰還し、今や20英町の農園地を授けられ、マウントレーマン農家の主人公たり。

表彰状は、この兵士の勇敢さを余り無く伝えている。夫人は現地人だったと推定される。

坂本弥七
原籍 山口県大島郡国野村
現住所 英領加奈陀晩香坡市アレキサンダー街240

君は明治40年の渡航者にして爾来各種の労働に従事する所ありしが偶々欧州大戦勃発に際し、日会主唱の下に邦人義勇兵の壮挙を敢行するや君また勇躍これに応ず。のちアルバータ州歩兵第50大隊に入り1916年ビミーレージ(ママ)の激戦に参加し名誉の負傷をなす。その後大小の戦いに参加し悪戦苦闘三度び傷を負うにいたる。而して戦いはなおさかんなり。戦闘力を失いたる君の悲憤慷慨も効なく、ベルギーより英国送還静養の身となる。1919年6月加奈陀に帰還除隊せらる。身を鴻毛の軽きに比し義を泰山の重きに置き泰然自若として弾丸雨飛の間に往来し、大和民族の忠勇義烈なる丹心を発揮せしその効
(ママ)や実に偉大なりというべし。

中村万一
原籍 広島県佐伯郡巳斐町297
現住所 英領加奈陀ビーシー州カムバーランド

君は明治15年2月15日を以って生まれ31年英領加奈陀の地に渡航す。爾来カムバーランドに於いて鉱山業に従事すること十数年、偶々欧州大戦勃発するや挺身勇躍して義勇兵となり、大正6年8月5日アルバータ州歩兵第50大隊に入営す。同年10月征独の師に加わり、リバープル(ママ)に上陸し、ついで仏国戦線にたつ。かの有名なるソンム、ビミー、レージ(ママ)の激戦に参加し、勇戦奮闘生死の巷に出入りし、忠勇義烈鬼神をして泣かしめる底の日本民族の清華を発揚せしは、蓋し、世界史上の一異彩たらずんばあらず。胸間燦然と輝く「ミリタリーメダル」はまさに未来永劫、君の勲功を物語って余りあり。今や第二の故郷カムバーランドに生還す。武運の長久と君の勲功にたいし同地白人挙って感謝の意を捧げしか、また一代の面目というべし。好漢幸に自愛せよ。

16歳で渡加し22歳で第一次大戦を迎えたことになる。この兵士はカナダ国籍はないものの、日本人会ルートより前に志願したとみられる。

三井真春美
原籍 福岡県京都郡犀川村上高屋
現住所 英領加奈陀晩香坡市パウエル街318

君は明治20年10月7日を以って生まる。長ずるにおよび東京麹町小学校並びに青山小学校に学びのち埼玉県立浦和中学を卒へ41年1月英領加奈陀に渡航す。偶々欧州大戦勃発するや加奈陀日本人会主唱の義勇兵に志願し、1916年アルバータ州歩第192大隊に入営す。越えて10月英国リバープールに上陸直ちに仏国に入り、加奈陀第10大隊に編入さる。1917年4月加奈陀軍の総攻撃を開始するやこれに参加し激戦数度勲功によりミリタリーメダルを授けられる。その後白耳義パッセンヂール(ママ)、アラス、キャンブレ(ママ)、エクロン等、前後八回の激戦突撃に参加せしも武運強く休戦とともに独逸に入りライン河地帯の守備に任じ凱旋後昨年4月除隊となる。君一兵卒に身を起こし累進して曹長に任官さる。蓋し白人種の間にありてこの栄位を担う。真にこれ大和民族の誇りというべし。

この当時中学校卒業は珍しい。そして下士官試験を通過し、曹長まで昇進したのだから相当に語学力があったのだろう。写真の右肩にある3本山形は曹長の肩章。

木下喜一
原籍 熊本県玉名郡花簇村大字日平
現住所 英領加奈陀ビーシ州カムバーランド

明治11年1月を以って生まる。40年英領加奈陀の地に渡航す。爾来カンバーランドに来たり鉱山事業に従事す。偶々欧州大戦の勃発に際し邦人義勇兵の組織あるや、挺身勇躍これに応ず。大正5年10月6日加奈陀軍歩兵第91大隊に入隊し、翌年3月19日愈々征独の軍に加わりリバープール港上陸、9月7日仏国戦線に起ち砲火相交えしのちレンズの守備に任ず。ベルギーを経てアラスに帰還、翌年4月アラス陣地争奪の激戦において敵の飛行機機関銃より発射せる弾丸のため脇腹部に負傷するに至る。直ちに野戦病院に入院後英国に送還され療養1ヶ年に及び、大正8年2月晩香坡に凱旋し除隊となる。義を泰山に置き身を鴻毛の軽さに比すテフ君の至誠は今や世界史上の一異彩たるや必然なり。

この兵士は30歳台後半になり志願しているが最前線に配属されている。翌年4月のアrス争奪戦がビミーリッジ戦を指すことは明らかだが、ここで飛行機により重傷を負ったようだ。鉱山業に従事していたため工兵など専門兵だったのではないか。

小林亮一
原籍 広島県広島市稲荷町45
現住所 英領加奈陀晩香坡市パウエル街307

君は明治24年10月15日の生にして40年6月30日を以って英領加奈陀の地に渡航す。爾来各種の労働に従事す。偶々欧州大戦勃発するや義勇奉公の一端を示すは加奈陀在住同胞の友邦に対する一大義務となし義勇兵募集の壮挙に際し挺身勇躍これに応募す。訓練数ヶ月1916年に至りアルバータ州歩兵第192大隊に編入し、同年10月渡英の途につき第10大隊に転じ1917年1月愈々征独の師に加わり仏国戦線に戦う。とくにビミー、レージー(ママ)の激戦に参加するや猛烈なる敵弾の洗礼をうけ遂に名誉の重傷を負う。のち英国に送還され除隊となる。帰還後一時客自動車業に従事せしも中途これをやめ目下白人経営のグラツジー(?)に就働しつつあり。性活発進取の気性に富む。また将来有望の青年というべし。

リーエンフィールド小銃をかかえている。引き金の周囲には遊底保護袋がかぶせられているが、英陸軍の官給品である。

飯塚喜代治
原籍 東京市浅草区北三筋町2丁目4番地
現住所 英領加奈陀晩香坡市アレキサンダー街240

君は明治20年8月21日の生にして渡航以来各種の労働に従事すること数年、偶々欧州大戦勃発に際し、加奈陀日本人会主唱の下に邦人義勇兵募集の壮挙を敢行するや、挺身勇躍これに応募せし一人也。軍事教練を経ること3ヶ月のちアルバータ州に至り、歩兵第50大隊に入営し1916年10月征独の師に加わり渡英す。滞在3ヶ月翌年正月仏国に渡り、4月ビミー、レージの攻撃に参加し負傷す。のち更にアラス方面の激戦に参加し再び名誉の負傷をなす。この激戦に際し、殊勲をたて、直ちにミリタリーメダルを授けられる。のち英国病院に後送せられ休戦と同時に加奈陀に帰還し大正8年1月除隊となる。その間実に砲煙弾雨の巷に馳駆し未曾有の塹壕戦に艱苦欠乏に耐え大和民族の清華を発揚せしこと世界史上の一異彩というべきか。

穂井田陸造
原籍 広島県安佐郡日浦村後山
現住所 英領加奈陀ビーシー州ウェブスターコーナー

君は明治25年を以って生まる。42年12月加奈陀に渡航し、キャンプブルックにおいてスクールボーイをなし公共学校に通学しのち白人商店に入り勤務すること四年、偶々欧州大戦勃発するや、挺身勇躍進んで騎兵第102連隊に入営す。実に邦人義勇兵の嚆矢なり。1916年2月9日第143大隊に転じ、大隊長従卒を命ぜらる。1917年2月13日動員下令とともに征独の途に上り仏国戦線に入り前後9回の激戦に参加し、10月30日パーシングデルク(パッシェンデールの誤り)の戦いにおいて名誉の負傷をなす。のち加奈陀に帰還し、1918年6月1日除隊となりビーシ大学瓦斯工科専攻部に入り翌年3月これを修了し、7月より白人青物問屋の店員に雇わる。同年9月陸軍省より土地20英町を与えられる。戦闘参加の勲功によりミリタリーメタルその他三個の勲章及び従軍記章を授けられる。また一代の名誉というべし。

この兵士の実家は相当に裕福であり、公共学校すなわち私立高校に進学させた。日加新聞では、この人を日本人として最も早く、カナダ陸軍に志願したとみなしている。ただ、国籍は不明である。

日本人がカナダ兵として何人西部戦線に行ったか正確な数字はわからない。およそ300人前後とするのが一般的である。そのうち少なくとも22名が戦死し、日加新聞は名誉の戦死者(Roll of Honour)として紙面に載せている。

当時、バンクーバーを中心として日本人は農業・漁業・商業などで活躍していた。そしてその歴史は1870年代まで遡る。というのは、当時カナダ太平洋岸では希なイチゴなどの園芸栽培を開始したこと、及び鮭マスなど沿海漁業の創始者であったためだ。

このため、第一次大戦のあとには、バンクーバーでも中産階級として成長していた。日本人街とされたパウエル街には日本食レストラン、宿屋が並び、アメリカ大陸でも有数の成功した地帯としてみられていた。この辞典は外相弊原喜重郎の賛が添えられており、また価格も8米ドルと現在では4万円ほどの値段で売られた。

カナダ政府は1988年、日系カナダ人に第二次大戦たいしてとられた措置を謝罪している。謝罪の一環として、カナダ政府および日本バンクーバー駐在領事の醵出のもと、日系カナダ人国立博物館がバンクーバーに建設された。

同博物館によると日系カナダ人約200人がフランスで戦い、そのうち54人が戦没し、92人が負傷したとしている。

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