石原莞爾は軍人であって、まずそのとった軍事的手段について検討される必要がある。満州事変で夜盗・追剥のような手法で、広大な不動産を確保したといったところで、軍人または作戦家としての評価には値しない。
石原についてまず非難すべき点は、支那事変勃発時における判断の誤りである。全面戦争に訴える(ファルケンハウゼン)という蒋介石の意図を見誤り、陽動作戦にひっかかり当初部隊配置を誤ったことである。
支那事変勃発時、1937年7月18日、次のように語っている(田中新一陸軍省軍事課長談。石原が杉山陸相に述べたもの)。
「本年度の動員計画師団数は30コ師団、そのうち11コ師団しか支那方面にあてられないから、到底全面戦争はできない。然るにこのままでは全面戦争の危険が大である。この結果は、あたかもスペイン戦争のナポレオン同様、底なし沼にはまることになる。この際、思い切って北支にあるわが軍隊を一挙に山海関までさげる。
そして近衛首相自ら南京に飛び膝づめで日支の根本問題を解決すべきである」
これは程度の低い議論である。まず、本年度の動員計画とは参本が予算獲得のため年次計画をつくるもので、平時の机上計画である。戦争となれば、敵や作戦の情況によって新たな動員計画をつくるのは当然である。
石原は支那との全面戦争できないと断言するが、1937年の支那事変は全面戦争そのものであって、日本軍は勝利した。事実をもって石原の言は成立しない。
次にナポレオンの比喩はゲリラ戦についてであるが、1937年においてゲリラ戦のようなものは発生しなかった。近代軍にたいしてゲリラ戦で対抗するためには良好な補給網をもつ必要がある。華南の交通はクリークを利用した舟運であり、ゲリラ戦ができるところではない。この段階では石原は、蒋介石の上海包囲作戦をまったく見通すことができなかった。
山海関までの撤退とは天津軍をさげることである。天津軍は北清事変の講和条約によって、北京公使館地区の護衛のため駐屯が認められたものである。このときでも仏軍や伊軍は駐屯を継続していた。日本だけ責任を免れる(ただし居留民を犠牲にして)ことが得策だろうか?
最後の首脳同士の話し合いというのは論外である。ヤクザのトップ会談の決着のように外交は進まない。このとき日中間には満州国問題があった。さらにいえば、日本は中国全土を占める独裁政権樹立阻止を外交目的としていた。
懸案事項が解決されてトップは親密になれるのであって、ただ話をしても意味がない。
1937年8月18日16時すぎ、軍令部長、続いて参謀総長参内のとき天皇は次のように下問した。
「戦局漸次拡大し上海の事態も重大となれるか青島も不穏の形勢にある由 かくの如きにして諸方に兵を用ふとも戦局は長引くのみなり 重点に兵を集め大打撃を加へたる上にて我の公明なる態度をもって和平に導き速に時局を収拾するの方策なきや 即ち支那をして反省せしむるの方途なきや」
これに対して石原莞爾は、参謀総長に次のような意見を述べた。
- 陸軍兵力の一部を上海に、又要すれは青島に派遣して居留民の現地保護に任せしむ
- 北支に対しては更に若干師団を動員増加(要すれは南満に控置す)し北部河北省及察哈爾省の主要地を占拠し敵か北上攻撃し来るあらは之を迎撃す
- 前二項の態勢において戦争持久の場合に対処することとし何等かの関係によりて生ずる講和の機を待つ
- 戦争の結末を求むる為に海軍の強力なる対南京空爆の成果に期待す
日本の陸軍参謀本部作戦部長の天皇の希望に対する発言がこれである。河北省は察哈爾省には軍閥軍しかおらず、ここに陸軍を置いて、「何等かの関係」で講和の機運が生じるだろうか?講和とは戦局の変化によって生じるのであって、迎撃するために待機するとは、戦略的にまったく意味がない。
石原莞爾は蒋介石がイニシアチブをとり先制攻撃してきた事実をなんとしても直視したくないようにみえる。この当時の参謀本部若手にとり石原莞爾は出世した英雄であったためか、部内ではあまり論難されていないが、そのそも石原のソ連脅威論は実効のあるものだろうか。そのあと中国には総計40個師団内外を派兵したが、このときを除いてソ連配備の関係から中国への派兵量が論じられることはなかった。
海軍航空に期待する議論は当時の軍事界の流行ではるが、結果としては謬論である。当時の爆撃機は地上砲火に脆弱であった。96式陸攻は大きな被害を受けた。海軍をためにする議論としか思えないのだが。
8月31日、石原莞爾は近藤信竹軍令部第1部長を訪ね、次のように申し入れている。
上海方面には兵力をつぎ込んでも戦況の打開は困難である。(せいぜい呉淞-江湾-閘北の線くらいであろう)北支においても作戦は思うように進捗せず、このようでは、われの希望しない長期戦になろうとしている。
陸軍統帥都としては、何かのきっかけがあれば、なるべく速やかに平和に進みたく、ついては平和条件を公明正大な領土的野心のないものに決めておきたい。陸軍大臣は誰に吹き込まれたのか、穏和な平和条件には満足しないようである。
両統帥部で条件決定を促進したい。参謀総長は自ら陸軍大臣に話してもよいと言われている。陸海軍両次長の懇談により大綱を決めたい。国民は戦時体制になっているのに軍部は平時のままになっているので、大本営設置に進みたい。
事実は上海方面に兵力をつぎ込むことにより、戦局は日本軍有利に転換した、石原の観測は軍人とも思えぬ誤ったものである。
この時点で杉山陸相に固執すべき講和案があったとは思えない。講和とは戦局が決定的にならねば機運が生じないのは自明である。蒋介石から攻められたことがまだわからない石原莞爾は日本が「寛大な」講和条件を示せば、戦争が止み、講和できると考える平和ボケした男であった。
9月27日、石原莞爾は関東軍副長に更迭された。石原を嫌う東條英機が参謀長にいたため制御できると考えられたのであろう。そのあと第16師団長に板垣陸相が「強訴」したので親補されたが、直後予備役編入となり、軍人としての生命を終えた。これらの発言は支那事変初動に関するものであるが、国家が侵略をうけたとき、何をせねばならないかという点で危機管理の悪例を残した。
関東軍参謀に左遷され、その後、板垣陸相によって第16師団長に栄転した石原は、そこで竹田宮から支那事変初期の処置について質問を受けそれに答えている(『現代史資料9日中戦争2』「石原莞爾中将回想録」みすゞ書房)。
一般ノ空気ハ北支丈ケデ解決シ得ルダラウトノ判断ノ様デシタガ然ツ私ハ上海二飛火スル事ハ必ズ不可避デアルト思ヒ平常カラソウ言ツテ居ツタノデアリマシタ
抑々上海二飛火ヲスル可能性ハ海軍ガ揚子江二艦隊ヲ持ツテ居ル為デアリマス 何トナレバ此ノ艦隊ハ音支那ガ弱イ時ノモノデ現今ノ如ク軍事的二発展シタ時ニハ居留民ノ保護パ到底出来ズ一旦緩急アレバ揚子江二浮ソデハ居レナイノデアリマス
然ルニ軍令部ハ事変ガアル前二之ヲ引揚ゲルコトガ出来ナカツタ為事変後軍艦ヲ下航セシムル際漢ロノ居留民ヲ引揚ゲシムルコトトナリマシタ大体漢ロノ居留民引揚ハ有史以来無イコトデアリ若ツ揚子江沿岸ガ無事二終ツタナラバ海軍ノ面子ガナイコトニナリマス
即チ今次ノ上海出兵ハ海軍ガ陸軍ヲ引摺ツテ行ツタモノト云ツテモ差支ヘナイト思フノデアリマス
ソレカラ私ハ上海二絶対二出兵シタクナカツタガ実ハ前二海軍ト出兵スル協定ガアルノデアリマス其記録ニハ何トアツタカハ記憶シテ居リマセソガドウシテモ夫レハ修正出来ナイノデ私ハ止ムヲ得ズ次長閣下ノ御賛同ヲ願ツテ次ノ様ナ約束ヲシタノデアリマス
夫レハ海軍ガ呉淞鎮ト江湾鎮ノ線ヲ確保スル約束ノ下二必要ナルニ至レバ速カニ陸軍ガ約一ケ師団ヲ以テ同線ヲ占領スルコトトシタノデアリマス
更二参謀本部デハ要スレバ青島二当テテアツタ一ケ師団ダケハ持ツテ行ク裕リヲトツテ置ク考ヘデアリマシタ
これは虚言の塊である。この当時、英米仏も揚子江に砲艦を派遣していた。『和泉』が上海飛び火の原因というのは言うに事欠く虚言と言わざるを得ない。「飛び火」とは軍事用語ではない。軍人は「飛び火」したならば、誰が飛び火させたのか考えねばならない。
攻撃された自国軍(海軍)があって、その原因は、自国軍が砲艦を遊弋させていたからだという珍説は、単なる大アジア主義者の謬見ではなく、石原には日蓮宗≒儒教が根底にあり、中華主義(=中国は全部正しい)から離れることができなかったからであろう。
石原莞爾は、自ら自分を批判することは簡単だといい、次の点をあげる。
- 西洋=覇道、東洋=王道という分類、これほど単純か。
- 最終戦争論 戦争で絶対平和(世界の政治的統一)が達成される。なぜ戦争か。
- 持久戦(長期戦)と決戦戦(短期戦)が交互に発生する。実証的でない。
- 最終戦が日蓮宗により説明されているがおかしい。
以上のことは1941年の段階で疑問点として照会され石原が自ら回答を書いている。つまり戦争の敗者は普通、戦後の秩序を前提に批判さるが石原の論はすでに太平洋戦争勃発の直前に概ね周辺の人々により疑問視されていた。今日の目からみて当時の疑問はいずれも正当だろう。
つまり石原の論はその時代でかつ特定地域しか受け入れられない議論の範疇にも入らないのだ。つまりその時でも陸軍の一部にしか通用しない議論だった。
歴史上有名人の行った議論の普遍性欠如の原因はかなり定型的である。一つは人種・民族・特定グループ(職業または階級・性別・信心・収入・疾病など)差別または攻撃を伴うことである。また、自然科学で未解明のことを予言的に議論することである。これは仮説をたてることだから、科学者は普通のことだが基礎的教育のない政治家や軍人・官僚また僧侶が叫ぶと独断に陥る。この二点が、概ね失敗の原因だ。
石原はアジア北部人種が世界で最も優秀な民族集団とみなしていた。とくに中国人をそのようにみていたようだ。そしてロシア人は無知蒙昧な種族だとする。アジア北部人種とは日本、朝鮮、中国、モンゴル、満州をさしいわゆる五族協和の五族である。このあたりは満州国設立の張本人だからそう主張したのかもしれない。
満州の帰属が当然中国(国民)に属するという見解を石原はとらなかった。これは理由のあることだ。忘れられた大義であるが、満州の東半部は朝鮮族の故地だった。高句麗の4世紀ごろまでの首都丸都は満州にあった。そして高句麗の遺民が建国したと推定される渤海国は満州を基盤としている。その後も女真族による支配まで再三朝鮮族は満州を支配下に置いている。
満州を中国の現政権の指図に従属し東北と呼んで恥じない人々はこの点をどう考えるのだろうか。ともあれ満州は1948年まで漢民族の全面支配に入ったことはない。地名について言えば中国(共産)政府が満州をあたかも以前から漢民族の支配する地域の一部のように東北と呼び、満州族の定めた地名奉天を明時代のあまり使われなかった地名審陽に戻したりすることに納得できない。(国民党政府は東三省と称す)これは先住民の地名は残すべきで権利を尊重すべきと思うからだ。英語はマンチュリアで満州からの地名を維持している。固有名詞について、対象となる国におもねる必要はない。
そのうえ辛亥革命(第1革命)時、アメリカを除き各国とも中国(袁世凱)が大清帝国の継承国家と認めていなかった。中国(袁世凱)は清国旧債や既条約について継承を拒否していた。満州が漢民族に当然属するという見解は万里の長城が存在する以上歴史上難しい。石原は北満無住者地帯論を唱えるが、そこに無理があるとは思わない。
ところが第2革命の時、日本政府は満州が中国に帰属することをを含み(決定的表現ではない)袁世凱政府を承認した。つまり石原らによる満州傀儡政権樹立は日本の承認した行為と矛盾した。また背後に隠れる問題は日中外交は近代外交のルールに乗らず、当事者主義に則るべきだ、という安易な東洋的逃げ道である。中世的中華秩序や王道による外交とは何だろうか?リットン調査団で真実を暴かれ、逆上して国際連盟脱退という方法を選ぶ前に正々堂々と国際ルールに依拠するやり方があったのではないか。これからも噴出する子供っぽい軍人の謀略と言えばそれきりだが。
南京事件(第二次)の外交決着
ただ石原の上司板垣征四郎の発言、「満州人といったって人口の数パーセントに過ぎず、溥儀をたてるのは時代遅れだ」というのは現実の認識としては正しいのだろう。ただ、この考え、すなわち多数派の人口で領土を決めることを単純に認めるわけにはいかない。例えば漢族の流入は満州だけに止まらなかった。尼港事件のニコライエフスク(樺太の間宮海峡を隔てた対岸)の漢族人口はその事件が発生したとき日本人人口の数十倍ありロシア語を喋るロシア人を上回った。そしてこのシベリア居住の中国人は1939年までにスターリンによりほぼ絶滅させられた。この事件は中国国内の生活苦による流民の発生も一因だ。流民によって領土の帰属が決まるとすれば難民を暖かく迎える国はなくなってしまう。
石原の基調をなす点は北部アジア人種が、ヨーロッパ人種にたいし優越するので現状打破の点から最終戦争に導かれ、最終的に世界は日本の指導下に置かれるとする。これにより大アジア主義が根本として人種差別意識に基づいていることがわかる。
そして、以降の統治の基本をなすのは農本主義とする。これは人口を農村に集めすべての人間に耕作を義務つけ、副業として工業をやらせるというポルポト張りの施策だった。これは緑の革命という農業革命が起きたことがわからず、労働生産性の向上、肥料、種子の改善を石原は理解できないことによる。現在でも耕地面積の縮小が収穫の減少ととらえる人は多いが。残念ながら現場にいるよりは大学の農学部に行ったほうが良い。これは社会科学でなく自然科学だ。現在先進国で専業農家の総所帯に占める比率はどこも5%以下だ。
社会科学たとえば歴史学、経済学や軍事学はナポレオンが言うように素人にチャンスは十分ある。しかし自然科学では基礎の教育が無ければ、発言権はない。ところが例えば毛沢東もこの単純なことがわかっていなかった。雀撲滅運動や土法鉱炉という自然科学軽視は軍人的人物の方が陥りやすい。日本の戦時生産をみればわかる。日本以外は第2次大戦で戦闘機の生産は全て文民が責任者だった。もちろん、科学的知識によって得られた物の使用方法やその優先順位は、科学者とは直接関係しない。
以上はよく知られた石原の謬点だ。ところが軍事論も無視できない誤りがありかつ興味を引く点だ。
石原は戦争を持久戦(長期戦)と決戦戦(短期戦)に分類する。
そして決戦戦は殲滅戦であるとする。そして第1次大戦のシュリーフェンプランは、小モルトケが右翼の比重を落としたことで失敗したという。そうだろうか。
イギリス陸軍旬報のシュリーフェンプラン批判
まず石原はドイツ右翼を第1軍(クルック)から第4軍(アルブレヒト、ウユルテンベルグ公)までとする。通説は第1軍から第3軍までを右翼とする。それは定義の問題で重要ではない。そしてマルヌ戦前の実際のドイツ軍右翼の総兵力を約21個軍団だと言う。
これは実際は16個軍団だった。第1次大戦で日本の観戦武官はフランス側だったから戦中にドイツ軍右翼の編成を知ることはできなかった。石原の数字は1921年から2年ドイツ国防軍に留学した際得た数字だろう。そして石原は偽りの数字をつかんで来たのだ。ただ作戦重点の軍でも1個軍が5個軍団以上保有することはまずないから、石原は疑問に思ったに違いない。それが約という言葉に表れたのだろう。
マルヌ会戦前の両軍配置
別に、シュリーフェンの原案ではオランダの中立をも侵犯する計画だったと石原は見抜いたことを自慢している。だが最近のシュリーフェンプランの研究では案自体は大きいもので6回見直され、全てのバリエーションを入れれば64通り存在した。すなわち共通国境通過、アルデンヌ通過も含めあらゆる可能性が検討されていたのだ。ロシアだけと交戦する計画は忘れられていたが、これだけの大掛かりな計画でバリエーションを研究するのは当然だろう。この委細についてもドイツ側は石原に教えていなかったのだ。
そして、フランス軍の作戦重点がロレーヌにあったという。しかしこれも量から言えばアルデンヌだろう。つまりロレーヌにもフランス軍は攻めたがそちらは陽動だった可能性が強い。ところがフランス軍はロレーヌを主攻としなければシュリーフェンの思惑通りになったとは言えない。このためドイツ人はシュリーフェンの無謬性を主張したいがためにロレーヌ主攻説をとる。ここでも石原はドイツ参謀軍人に乗せられている。
このような偽りのドイツ側証言にたって第1次大戦持久戦論を展開している。すなわちシュリーフェンプランがシュリーフェンの言うと通り行われなかったから持久戦になったと。実際はシュリーフェンの言うようにするとフランス軍が緒戦でドイツ軍右翼を殲滅したかもしれない。第1次大戦で機関銃を始め防御兵器が向上し長期戦となったのは事実だ。しかし長期戦、短期戦が交互に来るとか、短期戦が死滅したというのは一般化できない。戦争結果が必然というのはまずない。いわんや様相が必然というのはとてつもない誤りだ。石原は中隊長程度で政治的陰謀をめぐらすのは得意だが1軍を率いさせてはいけないことがわかる。
もっとも酷評かもしれないが東條は中隊長も危ない。吉田茂が日露戦争のときの日本の将軍と比較して第2次大戦の陸軍軍人との懸隔の激しさを指摘している。それでも硫黄島の栗林中将のような名将もいた。とにかく人事の名人が参謀総長になってはいけないのだろう。
それでも石原はこの時の日本の参謀将校の例にはずれて連合国の最終攻勢については攻勢防御と攻勢移転について正しい判断を加えている。これは陸軍の公式文書ではまずみられない。
一般的に第1次大戦の旧軍の記録でドイツ側の証言にたったものは史実に反するものが多い。つまりゼークト参謀本部は日本軍人など騙しにかかっていたのだ。この時ドイツ参謀本部は蒋介石と密接だったから当然だろう。反面、英仏側の証言は極めて正確である。同盟というのはそういうものだ。ところが東條、永田ら幼年学校=陸大組みを筆頭にドイツに傾斜して行く。
石原は最終攻勢についてフォシュの功績としている。ドイツ留学の関係からフランスについては情報が入りにくくペタンが落ちているのはやむを得まい。ただいわゆるフランスのエラン(鋭気)については正しく理解しているのだろうか。石原は日米の重巡同士では精神力にまさる日本が強いという。これは水兵の砲術能力などが上回るという意味だと思うが、フォシュの言う敵に優る精神力はこのような意味ではない。例をあげれば戦争の勝敗はどちらかの司令官が敗北を認識したら決まるというのがある。
エラン・ビタール
唯物論者はこれをとんでもない観念論だと一蹴するが、果たしてそうだろうか。第1次大戦のドイツの敗戦はルーデンドルフの敗北認識または停戦を利用した謀略が最大の原因だったのではないか。これには異論があるかもしれない。しかしユトランド海戦で逃げたドイツ外洋艦隊はやはり被害を多く与えても負けではないのか。すなわち負けるという認識は戦況が不利なことで生じる。しかし決戦場面では彼我ともに膨大な被害を受けている。最後どちらかが継戦が無理だと感じるのはやはり将領の頭脳にある。1914年のマルヌでジョフルはフロンティアの戦いであれほどの損害をうけながらあくまでフランス軍とフランスに自信をもっていた。1918年のルーデンドルフは、連合国の最終攻勢でドイツ軍とドイツに自信をもっていただろうか。銃後の反乱とか初年兵がノロマだとかあげくのはては同盟国が信頼できないなどジョフルは決して言わなかった。
ジョフルはBEFのフレンチが海峡を渡って帰ろうとしても、イギリス人は自ら名誉を毀損することはしないことまた友好関係は決して崩れないことを信じていた。それでも戦術家・参謀としてはルーデンドルフはジョフルより優秀かもしれない。だがそういう問題ではない。
つまりエランの発揮されるのは兵や参謀ではなくて将領の方なのだ。日本の陸軍は日本の兵卒の精神力が優れていることを主張する。しかし必要なのは将領の精神の涵養だ。そしてエランの本質は将領が目的を一つに絞り込むことだ。
そして陸士16期以降は石原のようにドイツに留学させられる。そこで学ぶのが偏頗な知識に基づく軍事学と唯物論=社会主義だった。このときドイツは戦争の敗北を将領にではなく兵卒と銃後に求めていた。そしてこれは唯物論に十分な根拠を与えた。そしてフランスへの観戦武官の多くは宇垣軍縮とともに陸軍を去っていった。
石原は王道楽土を満州に求めた。そこを問題にしてはならないだろう。満州が先住民のものか、多数派の流民のものか、軍事的優越者のものか、地球上の全ての土地のようにわからない。ただ、差別をすれば満州国民は生まれない。そして差別が無くなれば、満州国は成立しない。解決方法はあるかと問われればあるだろう。民族浄化と強制移住だ。もちろんこれはできない。日本の君主制はそれを許さない。しかし中国(共産)がチベットで現在これを実行中である。
張作霖爆殺事件に始まるテロ、陰謀そして長期にわたる目的のない政治工作・戦争のうち、たしかに石原の進めた満州事変だけは勲章や栄達、要するに人事抗争とは無縁で目的も明確だった。しかし、この状態で非道を繰り返す北部アジア人種がどうして王道種族なのか。そして王道が武力によらず友好関係による調整だとすれば、満州事変によるヨーロッパにある友好国との関係破壊は無視できないだろう。
自分達またはそのグループが何らかの点で優れていると思うことは自然だ。しかし日本は明治から軍事でも経済でもそのことを常にデモンストレートしているではないか。日本の現代史はそのことの究明にあるといってよい。このうえ、世界に冠たる必要があるのだろうか。石原はあると考えた。それが魅力かもしれない。
また石原の大アジア主義の根幹をなす東亜連盟(日満支同盟)という外交政策について言えば、その実現性にたいする当然の批判はともかく従来の外交政策について変更する必要を認めたのは確実だろう。当時(満州事変前)日本の外交政策はドイツ人に「棄てられた女房(イギリス)に未練を残す男やもめ。」と揶揄されたという。
このとき外交政策としては3通り考えられた。
- 英・米を基調とするゆるやかな協調方針
- ドイツまたはソ連との同盟
- 非同盟で東アジアに割拠
1番は幣原が追及した方針。2番は広田が追及した方針。3番は石原が主張する内容だ。石原は宗教的またはイデオロギー的考えから自由主義の英米と共産主義のソ連とは同盟できないとした。
そして前提だが、戦間期一貫して同盟者としてアメリカを追及したのはイギリスだけだということだ。現在までに公開されたイギリスの外交文書によればほとんど毎年のようにイギリスはアメリカの戦時におけるコッミトメントを求めている。これに孤立政策からアメリカは一切の言質を与えていない。日本はイギリスのようにドイツという脅威がない。石原はスターリンの5ヵ年計画の成功による工業力強化と極東軍事配置増加に警鐘を鳴らしている。そしてそれは的中した現状把握だった。
歴史では日本は防共協定締結(1936年)のときにドイツとの同盟を選択した。ドイツの言う通り日本は満州事変勃発(1931年)からおそらく5年間考える時間=男やもめの期間があった。石原は日本を盟主とする東アジア同盟でまず力を蓄え、アメリカとの最終戦争に臨もうとした。石原を嘲るのは簡単だ。しかし、不承認・不干渉・無約束主義を貫いている隣国アメリカとどうつきあえばよいのか。また経済ではアメリカは日本に興味があった。そしてイギリスは日本に経済的興味はない。
この前提で孤立した日本が、外交方針を決定することの困難さは同時代人でなければわからないのかもしれない。
外交官からみれば石原の大アジア主義は一部支那通を除けば、現実味のないものだった。満支両国が目先の紛争に何個師団送れるのか。そして政府は国内には大東亜共栄圏を言い自存自衛が国策だとした。しかし背後の裏付けはドイツの軍事力だった。
現在非同盟中立主義とか東アジア同盟を唱える人はなお存在する。それは戦前の外交官の失敗と同じではないのか。そもそも同盟というのはできてすぐ機能するものではない。第1次大戦のイタリーをみればわかる。それは場合によれば戦争で肩を組み、文化・経済で網の目のように交流し始めて機能する。英仏協商はもうすぐ100年を迎える。日米が安政の和親条約以来対立したのはこの150年間のうち僅か15年にすぎない。この枠組みを無視して新思考外交を展開するのは無理がある。また不幸なことにドイツは第2次大戦までソ連は現在も同盟が短期的相互利益を目的として成り立つと考えている。これはチンメルマンノート的誤りだ。同盟とは世界全体または大地域の安定に寄与するという側面を無視してはならない。またそれでなければ長続きしない。
満州事変は当時国民に人気のある戦争だった。恐らく小さい武力行使で地図上広大な地域を得たという頭が働いたのだろう。欧米諸国はおろか革命に忙しい中国(国民)やソ連も武力による干渉または経済制裁はできなかった。この事態はおそらく石原の予想を裏切るものだっただろう。だが当時の国民を納得させてかつ成功する外交政策は存在したのだろうか。
ときどき石原の外交策が実行されたときを考えることがある。満州国を保護国とする大日本二重帝国が成立する。そして非同盟、対華不干渉を実行する。おそらく欧米の植民地は生き残り大陸では混乱が続くだろう。日本は大陸の大混乱を座視できないアメリカをあやそうとする。満州国では隠然たる不満が残り反乱が絶えない。日本経済は成長に失敗し統制経済に移行しようとしますます傷口を広げる。ソ連またはドイツの脅威は増大し国内の政争は収まるところをしらない。現在とどちらがよいのだろうか。
ここでは批判が中心なので石原の正しい論点についてはあまり触れなかった。しかし石原がルーデンドルフの問題点を昭和軍人のなかでは最も適切に指摘していることは特筆したい。
石原の論の根本はソ連警戒であり、また軍事的には上海で塹壕戦として膠着することを恐れたものである。この見解は当時の軍事認識として一級のものだと認めざるをえない。
第1次大戦を参考にして欲しい。塹壕戦としてすでに膠着したにもかかわらず、機動戦が展開できるとルーデンドルフですら1918年だが予期したのだ。
ただ現実に戻れば石原と昭和天皇は1937年7月蒋介石が設定した上海決戦をめぐり対立のピークに達した。石原はこのとき満州事変開始の帰結がこれだったと気づき動転した。攻撃されたにもかかわらず反撃する策を立案できず、また得意の謀略=私的外交、船津工作に走った。軍人にもかかわらず、この子供のような弱気を愛するべき否かは人によって異なるのかもしれない。しかし国家は攻撃されたならば反撃し、友軍が孤立したならば救援せねばならない。
昭和天皇は石原の無能を見抜き、すぐさま上海決戦に応じる処置を要求した。攻撃をしようとしている人間に交渉を行い取りやめを頼んでも意味がない。国家と個人は異なる。石原は得意の長期戦不可避論を展開し煙に巻こうとしたようである。昭和天皇は自然科学者であり石原のようなロマンチストではない。1937年9月27日、石原は作戦部長の地位をおわれ、二度と重要な役職につくことはなかった。
昭和天皇による石原莞爾批判
〜『文藝春秋』2007・4月特別号「小倉庫次侍従日記」解説半藤一利
昭和14年7月5日「后3・30より5・40位約2時間半に亘り、板垣陸軍大臣、拝謁上奏す。直後、陸軍人事を持ち御前に出でたる所。「跡始末は何【ど】うするのだ」等、大声で御独語遊ばされつつあり。人事上奏、容易に御決裁遊ばされず。漸くにして御決裁、御前を退下す。内閣上奏もの持て御前に出でたるも、御心止【とどめ】らせらざる御模様に拝したるを以て、青紙の急の分のみを願ひ、他は明日遊ばされ度き旨言上、御前を下る。今日の如き御忿怒に御悲しみさへ加へさせられたるが如き御気色を未だ嘗て拝したることなし(この点広幡大夫にのみ伝ふ)。
板垣征四郎は、東京裁判で刑死するまで石原信者であった。板垣がもちだした陸軍人事とは石原莞爾の第16師団(京都)長補任に係るものであった。「御独語」と書くが、じっさいには板垣にやめるよう面罵したのであろう。そして板垣は、いっさい喋らず、天皇が黙ったところで退出する。残された天皇は立憲君主として裁可せざるをえなかった。陸軍人事とは陸軍省が所轄する「軍政事項」であり、統帥権とは関係がない。このときすでに、日本の(軍)官僚は「省内お手盛り人事」に明け暮れていたのである。
昭和17年12月11日「閑院さんの参謀総長で今井が次長であり、石原莞爾が作戦部長であったが、石原はソヴィエト怖るるに足らずと云ふ意見であったが、支那事変が始まると、急にソヴィエト怖るべしと云ふ意見に変った」
昭和天皇は蒋介石が上海陸戦隊を攻撃してきたとき、見捨てるのではなく反撃すべきだと石原に訴えたが、石原は臆病風に吹かれ拒絶した。石原にとってのソ連は口実でしかなく、内心ではスターリンに感心していたのである。
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(別宮暖朗)
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