大イラク革命
Ath Thawra al Iraqiyya al Kubra

第一次大戦の終了とイギリスの軍事占領

第一次大戦前のイラクはオスマン帝国領に属していたが、経済的に帝国に重要だったことろではない。バクダット鉄道がその地を有名にした。この鉄道は当初、イギリスが建設に難色を示したが、英独トルコ資本により、建設することで1914年4月合意が成立しており、何か英独間に対立をもたらしたものではない。

アナトリア南西部のコンヤからバクダットまでは1899年、バクダットからバスラには1902年、オスマン帝国から建設許可がおりており、その後着工されていた。

第一次大戦でイギリスが占領したのはモスールまでだった。その後クルド人の住む北東部(クルディスタン)を除き全イラクを支配した。イギリスのメソポタミア軍司令官モーデはアッバス朝の崩壊とともに終了したイラクの異民族統治をイラク人に戻すと宣言した。これはアラビア半島でイギリスがアラブ人に対して行なった独立の約束と同様のものだ。反トルコをいいたいがため、古代帝国をわざわざ持ち出したのだろう。

ただ、イラクは他のアラブ諸国とは異なった面があった。すなわち、人種的にアラブ人と異なる民族が二つある。すなわちクルド人とアッシリア人である。双方を合計すれば総人口の15%にもなる。またアラブ人もシーア派とスンニ派に分かれる。この対立はオスマン帝国とサファービー朝ペルシャの対立によりもたらされた。そして人口ではスンニ派は少数であるが、オスマン帝国が官吏に多く登用したため、政治的に習熟していた。

一方、パレスチナ戦線で、メッカ太守のハシミテ家(マホメット直系の子孫と称した)のフセインは英仏軍と共同して戦い、統一アラブの王家となることが約束されていた。フセインの三男のファイサルはパリ講和会議に出席し、統一アラブを訴えた。このファイサルがイラク初代国王となる。

ベルサイユ条約22条により、イラクの委任統治権はサイクスピコ協定のまま、イギリスに与えられた。シリアは同時にフランスに与えられたのだが、ファイサルはサイクスピコ協定の存在を知らなかった。ファイサルはシリアは統一アラブの分王国になるべきだと考えた。ファイサルは1920年3月、ダマスクスにおいて、シリア国民議会によりシリア国王に推戴された。

フランスは7月、国民議会の議決を否認しファイサルをシリアから追放した。ファイサルはイギリスに逃れた。

イギリスの軍政

平時になったイラクでは軍政がしかれ、イギリス高等弁務官パーシー・コックス(Percy Cox)と弁務官代理ウィルソン大佐(Arnold Talbot Wilson)が支配者となった。しかし、この二人はバクダットで、部族長・軍閥・少数民族指導者・大商人などの陳情をうけるばかりで、なんら有効な手をうてなかった。国内の諸勢力があまりに対立していたためである。

シーア派の聖都ナジャフとカルバラは、たちまち無政府状態となり。イギリス人将校が殺害された。西部の砂漠ではベドウィン同士が血腥い内戦に入った。クルド族の土地にはイギリス軍民は一切、足を踏み入れることを拒絶された。アッシリア人は、キリスト教徒の支配が始まったとして、北部からバクダットへ移動を開始した。

バクダットに滞在し、統治者として振舞うウィルソンは、下僚としてイラク人を一切用いず、インド人を招致するとともに、アッシリア人を重用した。

これに怒ったイラク人は各地に反英団体を結成した。「イスラム覚醒同盟」(ナハダアルイスラミヤ)、ムスリム国民同盟、独立のための守護神(Haras al Istiqlal:バクダット)などが目立ったが、実際には各モスクごとに、反英団体が結成されるありさまとなった。

1920年5月、あるムジャヒディン(イスラム神学者)の死とともに、シーア派とスンニ派指導者は今までの行きがかりを棄て、デモとストライキを命令した。代表はウィルソンに独立を要求したが相手にされなかった。カルバラの聖者、シラジ(Shirazi)が指導者となった。シラジはファトア(宗教令)を出し、「イスラム教徒が非イスラム教徒に支配されることはイスラム法に反する」としてジハード(聖戦)を呼びかけた。

これによりイラク南部を除いて、内乱状態に陥った。ウィルソンは空軍による爆撃を開始するとともに、インドとイランから陸軍の増援部隊を招致した。イラク国内は大混乱に陥り、あらゆる都市で街頭暴力が発生した。この「大革命」は、シラジにより呼びかけられた。が、スンニ派の教義によれば聖者は、暴動について「ファトア」により解釈を与えるだけであって、軍事的指導者とならず、モスクにとどまり外に出ない。

このようなことから、軍事力となる単位、部族・都市における各種団体がバラバラに行動に出るだけで、統一した動きとならない。かつ、軍事力といっても補給部隊をもっているわけではないから継戦能力はない。「大革命」自体はイギリス軍民への攻撃を目的としたが、すぐに同族相打つ戦いとなった。イギリス空軍の爆撃は効果的で、農村部の反乱はすぐ鎮圧され、都市についても1920年7月までに沈静化した。

ファイサルT世の即位

「大革命」は終息したものの、ロイド=ジョージ内閣は、鎮圧のための費用に驚いた。イギリス人(インド人を含む)の死亡者は百名以下に止まった(イラク人死者は数千人)が、動かした軍隊は英印軍二個師団であり、費用は全部、本国が負担せねばならない。

そのうえ、トルコ(オスマン帝国)もこの地において実効的な徴税組織をもたず、またイラク人に担税能力がなかった。

ガートルード・ベル Gertrude Bell (1868-1926)

イングランドのダーハムの富裕な家庭で生まれた。ロンドンの学校で教育をうけ、オックスフォード大学の歴史の聴講生となり、20歳で第一級学位を獲得した。

当時、イギリスの大学に例外を除き女子の入学は許されておらず、また学位を獲得した初めての女性である。

大学を出たのち二回、世界一周の旅行に出、また、1899年から1904年の間、たびたびアルプスに登り、登山家としての名声を得た。1900年ごろからアラビア語をマスターし、考古学を志した。第一次大戦中、そのアラブ世界の造詣はイギリス情報局のしる所となり、情報員として採用された。のち、アラビアのロレンスに、アラブ各界の名士を紹介した。

イラク王家を創出したあともバクダットに留まり、バクダットのイラク博物館を創設した。1925年、睡眠薬摂取過多により死亡した。自殺か否かは不明である。現在ニューカースルアポンタイン大学に、ベルの残した全ての文書が保存されている。

ベルの英国政府へのイラク統治の助言は「イラク統治において、シーア派を重用してはならない」というものだった

1921年春、カイロでチャーチル(陸相)が主宰して、イラクの統治方法を決定する会議がもたれた。この会議をリードしたのは、ガートルード・ベル(Gertrude Bell)だった。ベルは大戦中はイギリス情報部に勤務、アラビアのロレンスを補佐した。その後、バクダットに移り、ウィルソンの副官となった。

ベルは上司ウィルソンの軍政継続を批判し、フランスからダマスクスを追われたファイサルをイラク国王とし、アラブ人による仮政府を樹立することを主張した。チャーチルは最終的にベルの案を採用した。

ファイサルは、第一次大戦のパレスチナ戦線で、英軍に協力しトルコと戦ったアラブ人の王子として著名であり、またそのハシミテ家は十世紀から、マホメットの子孫としてメジナ・メッカの太守であり、イスラム教徒の信望が厚いと考えられた。

1921年8月23日、ファイサルはバクダットでイラク国王として即位した。ファイサルは第一次大戦から、パリ講和会議までにみられる通り、政治的才能に恵まれていたと考えられる。イラクはサイクスピコ協定とベルの地理学的才能によって国境がつくられた、全く人工的な国家にすぎない。

1922年、住民投票が行われ、なんと98%の投票者がファイサルによる王制を支持した。ただ、投票の内容は一問形式であり、あまり公正なものとはいえない。ファイサルは、国民としての意識のない住民が対立しあうことを止めさせねばならなかった。これは非常に難しい。

しかも、ファイサルの従臣はいずれも、パレスチナ戦線を戦ってきた仲間であり、スンニ派であるとともに軍人であった。ファイサルは国軍を結成し、立憲君主制を約束した。そして翌年、全土にわたる普通選挙を実施したのち、祭政一致を除去した新憲法を議会で制定した。そしてイギリスとの保護条約を結び、クルド族にある程度の自治を許しながら国軍に取り込んだ。

これから1932年、国際連盟に加入し、完全独立を果たすところまで全部ファイサルの功績である。しかし、同時に積年のイラクの病弊もまた固まったとみてよい。

三つの問題が残った。

すなわち部族によって分断されたシーアへの対処、国家において唯一の政治勢力となった軍、イラクで少数派にもかかわらず、一つの部族のように行動するスンニ派、の三つである。この三つが互いに矛盾せず集中したとき、1958年破局が訪れた。

しかし、1921年から1958年の37年間、王制が維持できたことの方を驚くべきだろう。


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