堀 悌吉はのちロンドン軍縮会議のとき海軍省軍務局長でいわゆる条約派と目された。その後艦隊派に海軍をおわれ、浦賀ドック(現住友重機械)の社長などを歴任した。
海軍軍務局は、海軍大臣の政務の分掌を統括するセクションで本来海軍の政治面の発言(軍事を国家間の戦争に限定すれば外交に関する発言)はここからしか出ないと言う重要部門である。すなわち局長は海軍の政治的意見を代表する。本来、軍人勅諭により軍人は政治活動(外交活動)への関与を禁止されている。
堀 悌吉(1883−1959)海兵32期。海大卒。
第1次大戦中3年間パリに留学する。1921年ワシントン会議随員。1927年ジュネーブ会議随員。1929年海軍省軍務局長。1934年予備役編入。
堀はパリ講和会議について次の発言を、第2次大戦後している。思想的には、右翼自由主義者と思われる。また注意して欲しいのは、戦間期(日本では1980年代まで)は、国政のイデオロギーとして各国とも社会主義(日本ではマルクス主義がそれを代表すると誤解された)と国家主義の対立となり、従来の保守主義者、自由主義者は勢力を失ったことである。
- 日本全権は世界動向の趨勢を悟らず、初めより出発点を失えること。
- 白面の支那全権に振り回されたること。
- 全世界は支那の宣伝に乗りて、日本に背を向けたること。
- 5大国の一に連なりて、形式上の面目は維持できたとはいえ、事実上、戦勝者の栄を分ちたる気分はなかりしこと。
これは極めて的確な批評である。堀はこの感慨を第1次大戦直後から持っていたと思われる。日本全権は、牧野伸顕を指すのだろう。
初めから、3番目までいわば代表団にたいするもので日本の外交技術を論難したものである。ただ牧野が世界動向の趨勢を悟らなかったかは疑問が残る。この趨勢と言うのは大国による世界平和への責任と思われる。
元来海軍主流は、防衛が戦争の本質であり戦略(作戦計画)で戦争を開始してはならない、という考えだった。これは艦隊温存主義に基づくもので、当時各国海軍で主流の考えだった。
艦隊温存主義(Fleet in Being)
艦隊温存主義は、第2次大戦前に主流だった考え方である。これは前提として艦隊は陸上に対する攻撃力がない、という考えに基づいている。これは奇妙に聞こえるかもしれないが、艦砲で陸上設備と対抗することはできないということである。当時の軍港は開戦とともに機雷が敷設され、敵からの侵攻にたいし完全に閉鎖できた。また湾内に多く設置されたから、陸上の砲台に守られていた。艦砲で陸の砲台に対抗できてたとして耐久性は全く異なる。すなわち、陸上設備は沈まないが、艦船は沈没する。
また陸上に艦砲射撃はできても弾丸数(艦砲では数百発が単位であるが1個大隊6門の野砲は1日数万発発射可能である。)に限界があり狭い目標(飛行場など)でなければ無意味である。つまり艦隊は海上を走る敵艦船にのみ効果を発揮すると信じられていた。
ところが、艦隊によって海洋を越えた上陸作戦などは阻止できる。加うるに、艦船を作るには時間がかかる。また装備・性能なども普通は周知である。とすると、敵にせよ味方にせよ戦う前から結果は予想できる。すなわち事前に艦隊を準備しているだけで外交上有利にでき、また戦時には敵の活動を事実上封鎖できる、という考え方である。
ただこれがためには仮想敵を上回らねばならない。
イギリスは第1次大戦前、ドイツに建艦競争を挑まれたが、ドイツは常にイギリスを上回ることができなかった。1911年頃、ロイドジョージはティルピッツにドイツの外洋艦隊は国家の飾りかね、と聞いたと言う。確かにイギリスを上回ることができないとすれば、艦隊など持っても持たなくとも同じである。これは第1次大戦で実際に現出した。(第2次大戦の大西洋も水上艦をとれば同じである。)
ティルピッツはその話をきいてどう反応したのかと?激怒したと書いてあります。
また、空母による攻勢を日本が真珠湾で用いたため考え方は一変した。ただ現在に至るまで、歴史上実践した国は日・米・英(フォークランド紛争)しかない。
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これは戦争哲学をも変える。すなわち海軍国の英・米の戦争計画は防衛を第1義に考え攻勢案については考える必要がないとする。これは、敵の出方を見て攻勢移転をかけた方が有利とするわけで、敵地に入らないという決意ではない。
そして陸戦でも第1次大戦前、大国間の戦争を前提にして攻勢計画を保有していたのはドイツだけである。仏露は単独で独に当たれる力がなく露仏同盟の性格上攻勢案をとることができなかった。侵略国ドイツへの反発が連合国の大義であり、日本政府も認めていた。
太平洋戦争の日本のハワイ攻勢案は、これら海軍の伝統的考えには反したことがわかる。ただ、航空兵力への着目という点で画期的なものだった。またアメリカのオレンジ計画もあくまで防衛を念頭に置いていることを考慮して欲しい。
そして戦間期日本でも、加藤寛治ら艦隊派の数量根拠対米7割は、漸減案という防衛計画を前提にしていた。これは、太平洋中央で開戦時に3割程度米艦隊を消耗させ、反攻してくる米艦隊を小笠原周辺で数量同一にて決戦に持ち込むというものだ。これを批判することは易しいが、当時無理がないものだった。
石井菊次郎の渡米
この考え方は外交による戦争防止につながる。近衛のようにこれを簡単に切り捨てては国家の全体政策を自ら矛盾に追い込む事になる。もちろん海軍のホープであった堀はよくわかっていたし、他の海軍軍人も承知していたはずだ。
牧野は連合国の大義を了解していたが、外交技術での見切りのようなものがなかった。すなわち、転んだ場合どうなるか、という設問がなかった。英仏米は、欧州安保という点で日本の会議からの離脱はどうしても防ぎたかったに違いない。つまり、対ソ連、欧州安保で日本の協力は必須とみなされていたのだ。もし第1次大戦でロシアが日本口をふさがれたら、おそらく1916年のブルシロフ攻勢は不可能で同年度中に分離和平に追い込まれる可能性があった。つまり、英仏の対独安全保障はロシアが不可欠で、ロシアの生存には日本の同盟または中立が必須である。これと同じ事が第2次大戦でも現出し容易に理解できるだろう。
この地勢的な感覚が牧野にはない。つまり軍人としての認識またはそれに関するアドバイザーが不足していた。この牧野=外務省の軍人感覚欠落は昭和に暗い影を投げかける。第1次大戦の開始でも露墺独でこの統帥と外交の分離が大きな役割を果たした。
牧野はそれでも孤独によく頑張った。白面の支那全権は顧維均をさすが若く英語が堪能なだけの人物であり、国際法に理解があったわけではない。所詮レベルが異なるものを突然過大視するのも外務省のこれからの通弊と化する。また宣伝は日本国内を意味するのだろう。常に強者はマスコミで批判にさらされる。
ウィルソン、ロイドジョージ、クレマンソーの三人は牧野にとり荷が重く直接話せる相手ではなかった。また本国外務省が問題とした山東問題は、おそらく日本は終始沈黙するか同盟国のイギリス、ロイドジョージのアドバイスを全部受け入れれば、どう転んでも日本に不利とはならなかった。西園寺公望はこの状態を渡欧前から読みきっていたし、何よりもクレマンソーを信頼しフランスを信じていたから、会議いや調印式に出るだけで十分とみた。それだから出港を遅らせたのだろう。この人物は日本の欧州での重要性や欧州の弱みをよく承知していた。
日本はイギリスとの同盟に基づいて参戦したのがあくまでも原点だった。この会議を社交の場でなく事務協議の場所としたのはアメリカだが、アメリカ対策を十分準備しなかったのが致命的だったのだろう。
堀の第4点は日本が欧州に派兵し、発言権の拡大を狙うべきだったという感慨にもとづくのだろうが、これは首肯できない。おそらく10万人程度の英霊を熱心に主張したところで大勢が変わったとは思えない。もちろん日本国内が戦争営利主義から、世界平和維持のための戦争と言う見識に変更できた可能性はあるかもしれない。
堀 悌吉はこの発言だけでも並外れた人物であることはよくわかる。ただ、軍人ではなく(軍事をよく知った)外交官であればよかったのかもしれない。

宮野 澄 『不遇の提督堀 悌吉』 光人社 1990
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