幣原の複数心臓論(第3次南京事件)

幣原は対中国にたいし宥和策をとったことを戦後に至っても誇りとし、1927年3月、英米による共同軍事行動参加要請を拒絶したことを自慢げに書き残した。

この4年後満州事変と第1次上海事変が勃発し、日本は幣原外交の清算を迫られる。1927年の英米の軍事行動の理由は、居留民の安全と租界にたいする課徴金要求を拒否したもので、現在の考えからいっても決しておかしなものではない。ただ両国共同して揚子江から砲艦による射撃を南京に浴びせるなど方法はいささか乱暴だが有力な陸戦隊を持たない両国としては止むを得ない判断だったかもしれない。

この時は北伐軍の都市での無差別略奪に警告を与えたわけだが、英米は相当に蒋介石政権にたいし懐疑的であったことがわかる。これが蒋をしてドイツ軍事顧問団の招聘につながった。また第2次大戦後も蒋の個人的な英米にたいする反感は消えていない。

蒋介石(1887-1975)1942年ロンドンで撮影された。

蒋介石は北伐時点では広東・広西軍閥の北行する軍の司令官にすぎず、影響力は野戦軍のみに限られていた。元来イギリスは辛亥革命の第2革命の時孫文の主張する武力統一に反対し、軍事介入の姿勢を見せており最も強硬な反統一派だった。これに対し日本の陸軍出先は北洋軍閥の生き残りを支持していたが、私的な軍事顧問の域を出ない。ただ、陸軍中央では基本的には中国の分割を支持していた。ただ在野のアジア主義者の中では孫文への支持があり外務省もおそらく旧債権継承の点で統一を認める傾向があった。

日本は、この時幣原の手により蒋の側につこうとしたようにみえる。それから10年の動きをとらえれば日本は友好的とならねばならない相手、イギリス・アメリカと意図して手を切り敵対関係を作ったようだ。

幣原の論である。

蒋介石が列国の最後通牒を断乎拒絶したらどうなるのか。あなた方は共同出兵して、砲火によって懲罰する他に方法はないであろう。が、これは大いに考えなければならん。

どこの国でも、人間は同じく、心臓は一つです。ところが中国(支那を文庫本では修正、以下同じ)には心臓は無数にあります。一つの心臓だと、その一つを叩き潰せば、それで全国が麻痺状態に陥るものです。たとへば日本では東京を、イギリスではロンドンを、アメリカではニューヨークを仮に外国から砲撃壊滅されると全国は麻痺状態を起こす。取引は中絶される。銀行だの、多くの施設の中心を押さえられるから、致命的な打撃を受ける。

しかし中国という国は無数の心臓を持っているから、一つの心臓を叩き潰しても他の心臓が動いていていて、鼓動が停止しない。すべての心臓を一発で叩き潰すことは、とうてい出来ない。だから冒険政策によって中国を武力で征服するという手段を取るといつになったら、目的を達するか、予測し得られない。

また、そういうことは、あなた方の国はそれでいいかも知らんが、中国に大きな利害関係を持っている日本としては、そんな冒険的な事に私は(文庫本付加)加わりたくない。だから、日本は、この最後通牒の連名には加わりません。それは、私の最後の決断です。どうかこの趣旨を、あなた方からそれぞれ本国政府へお伝へお願いたい(のであります、文庫本削除)。

この複数の心臓論は、現在でも先見性があると評価が高い。ただ戦後書かれたもので、密室での意見開陳ともみられ事実確認には、あと数十年待たねばならない。

ただし、この論旨は極めておかしい。この時英米は全面戦争を意図していない。心臓をしらみ潰しにしようなどとは毛頭考えていない。外交官は局地戦と全面戦争の区別を理解して臨む必要がある。

日本は中国に利害関係があるとして(実際は第2次大戦後中国との経済関係が断たれた時むしろ日本経済は高度成長を遂げた。)その合法利権、更には最低の条件である居留民の安全をどう維持するのか。英米はこの時、南京の居留民が危機にさらされており、この要請をしたのだ。現に南京では外国人多数が殺害された。(第3次南京事件)

1925年の中国

しかも幣原の論が正しいとすると日本はなぜ北清事変に出兵したのか?

1918年のシベリア出兵の時、英米仏と肩を並べて戦うのが望ましいと要路の人間は皆考えていた。一体なぜこのような急変が起き、また板垣征四郎・石原莞爾らによる満州事変という英米と対立せねばならない局面になってしまったのか。そしてこの1927年に英米と共同軍事行動を行えば、英米の態度は現実に起きたことと異なったのだろうか?どこの国の国民もリーダーも互いに肩を組んで戦ったことを急に忘れるものではない。

ただ参戦しないというのは、誰にでも出来る簡単な判断だ。だが実際には大きい戦争を防ぐため小さい戦争、南京への共同砲撃があるのではないか。小さい戦争が常に全面戦争を招くわけではない。明確な戦争目的を当初から設定する必要があるだけだ。そしてその目標は良くて現状維持に終わることが多い。それでいいのだ。国民が常に益を追及する戦争しかしないと考えてはならない。

幣原喜重郎(1872−1951)

またこの人物の国益にたいする理解もわかりにくく、国益に国民益がない印象をもつ。もちろん世界平和にたいする責任が欠落している国家主義は唾棄すべきで、幣原がそう言った人物とも思えない。国内政治で大アジア主義者が辛亥革命貫徹=北伐支持を唱えた影響があるのかもしれない。これも致命的な失敗である。啓蒙主義・法治主義など日本の存立にかかわることで、内乱や革命における一方の交戦団体に味方することはあるだろう。だからといって現地の法令と条約を遵守している居留民を無作為によって犠牲にすることはできない。

南京では北伐軍と暴徒により領事館が占拠され、そこにいた邦人多数が殺害されまた暴行をうけた。


『朝日新聞』は次のように伝えた。

【上海特電二十五日発】その筋着電=南京混乱の結果城中の消息全く不明なるをもって吉田指揮官は陸戦隊決死隊三十名を率いて二十五日朝十時四十分城中に向ったその報告によれば日本領事館は掠奪され館内殆んど一物をも留めざる有様である、しかし御真影、重要書類は無事なるを得た
【上海特電二十五日発】南京日本領事館を襲撃した南軍兵士は日本陸戦隊の武器を奪い婦女子に対して暴行し、またハルクに侵入した数名の暴兵は後にある軍隊の力をたのみ日本陸戦隊の保護の下にあるハルク内の邦人の貴重品を掠奪したが陸戦隊は阻止し得なかった
【上海特電二十五日発】その筋着電によれば南京日本領事館内にて南京駐在武官根本陸軍少佐は南軍兵士のため右腹部および臀部を銃剣にて突かれ負傷し、木村警察署長は右腕貫通銃創を受け、両氏は駆逐艦『檜』に収容されて手当中である


『東京日日新聞』は次のように伝えた。

弓削南京特派員二十九日発

二十四日午前五時頃である、国民第二軍、第六軍、第四十混成旅団の各軍から選抜された約二千名の決死隊は南京南部の城門を押開き侵入して来た、市民は各戸に「歓迎北伐軍」の小旗を掲げ爆竹を揚げて歓迎した、

われ等在留日本人は南軍が入った以上もう大丈夫だと安堵の胸を撫でていた矢先き六時半頃平服隊や左傾派学生に手びきされた約百余名の国民軍が突如わが領事館に向って一斉射撃を行い餓狼の如く闖入して来た、

そしてピストル、銃剣をつきつけてまず第一に現金を強奪し眼鏡や時計、指輪をはじめ身に着けたものは着物まで剥ぎ取った入り代り立代り入って来る国民軍兵士、それに勢を得た群衆まで交って手に手に領事館内の畳から便器、床板に至るまで一品残らず持ち去った、かくて領事館内は阿鼻叫喚の巷と化し居留民は数家族ずつ一塊りとなって何等の抵抗もせず、婦女子をかばいつつ身を全うするにつとめた、

国民軍の闖入と同時に御真影は金庫の中に奉安したがこれを警護申上げていた木村警察署長は第一番に右腕に貫通銃創を負いさらに右横腹を突かれた病気で臥床中の森岡領事は二回にわたって狙撃されたが幸いに命中しなかった、また根本駐在武官は銃の台尻で腰をしたたか打たれた上左横腹をつかれ二階から地上に墜落して人事不省に陥った、

かくて領事館内の日本居留民は一まず領事館舎の西側窪地に落合い種々善後策を講じたが下関との連絡は断たれ妙案の出るわけもなかった

その間国民軍の兵士は数回銃を擬して迫って来て身体検査を行い金を出さねば 皆殺にすると威嚇する、全く生きた心地もなくその二十分ばかりは千秋の思いだった十一時過ぎ党代表蒋継、戴岱二氏がやって来て兵士の無礼を謝すと共に今後は十分取締ることを誓い数名の警備兵を残して日本人保護に当たらせた、

そこでやっと蘇生の思いをして領事館舎の一部に表を剥ぎ取られた畳を敷き一まず籠城の覚悟を決めた、しかし下関との連絡は依然として断たれている思案に余ったわれ等は支那人二名を買収して下関の海軍に至急来援を乞う旨いい含めて派遣した、

そのうちに領事館外にいた者も追々集まって来た、朝から飯も食わず飲むものもなく辛うじて主人の身の上を気遣ってやって来た各自の使用人にまんじゅうを買わせお互にこれを一つずつかじって飢をしのぐことが出来た、この時領事館にあった者は男二十六名、女二十三名、子供五十二名でその外駆逐艦の乗組員荒木大尉以下十一名、合計百十二名である、

檜の乗組員は二十二日上陸、領事館で通信その他警備の任に当たっていたのであるが事余りに急なると 危険の増大を慮り発砲等は一切しなかった、万一発砲して支那側を一名でも殺したら第二のニ港事件を演出しわれ等日本人は一名残らず惨殺されたことであったろう、

あくまで隠忍自重してしまったのは実に幸であって負傷者二名を出したに止まったのはむしろ奇跡だ、畳八枚を敷き暗い別室に婦人、子供、負傷者を収容し一夜を明さねばならぬ、しかも病人は四名あってそれは皆刻々悪くなって行く、子供は泣く、寒気は強し、裸体にされた者は使用支那人の物を一枚、二枚分けて貰って着るという始末、実に悲惨の極みだ、

午後五時頃下関より砲撃が開始された、さては列国協調の作戦に出たなと思い日本陸戦隊の来援を待ちに待った、この間三時間砲声を聞きながら一同希望の色をうかべたがこれも八時半頃にはやんで何の便りもない、いよいよ夜に入った、寒気は一層加わって来る、夜具は毛布一枚さえなくふるえながらお互いの体温で暖をとる、なかなか興奮と不安とで眠られない、男は馬小屋から藁を持出しその中にもぐり込む、かくして不安のうちに二十五日の夜はあけた

あくればまた朝飯が一心配だ、二十五日支那側から糧食を持って来るといっていたがそれは一時の御世辞に過ぎない、自給するより外ない、しかし領事館外には一歩も踏み出せぬ、下関の海軍にやった使はどうなったか、まだ返事が来ぬ、警備に来てくれている国民軍兵士のすごい顔を見れば依然として不安は募るばかり、二十六日午前十一時五十分突然 戸を破って躍り込んだ一隊がある、

これは第二十四駆逐隊長吉田中佐が決死隊三十名を率いて駆つけて来たのである、吉田中佐は「皆無事か」と叫びながらわれ等と握手した、もう救われたと思った瞬間うれし涙が止め度もなく流れる、共に相擁して泣く、この時の感謝と喜びは一生を通じて忘れることは出来ぬであろう、大日本帝国万歳を三唱した、

吉田中佐は浅賀書記生と共に第六軍長程潜氏の司令部に談判に赴く、午前十一時より軍艦へ引揚を開始し辛うじて手に入れた二台の自動車で病人、負傷者、婦女子を積んで先発さした、しかしガソリン欠乏のため引つづき輸送することは出来ぬ、

午後辛うじて被害を免れた二つの金庫の破壊に取りかかった一つには御真影と領事館の重要書類がある他の一つには会計書類と現金三千元が入っているのだ、二時頃御真影は無事領事の居間に奉安した、三時頃吉田中佐は第六軍の楊第十七師団長を伴い来った楊氏は日本陸軍大学出身で流暢な日本語で今回の不始末を陳謝し領事館内を見廻り日本人引揚に要する乗物を周旋することを約束して帰った、

赤十字会から間もなく自動車、馬車を周旋して来たので全部これに分乗し前代未聞の惨害を跡に艱難辛苦数十年を費して築き上げた地盤も今は無一物に帰し、寂しい別れを告げ二十四駆逐隊檜、桃十八駆逐隊浜風の三隻に分乗した今回の掠奪は共産党南京支部の手引によるもので全然排外行為である、

ゆえに日本は勿論英、米、仏その他の外国人は全部惨澹たる被害を受けた、外人側の死傷者は英国総領事ヂャイルス氏が脚部に重傷を被り、四名射殺、負傷者数多、米国側は金陵大学長が射殺され、数名負傷、五百名の在留民中二百名は生死不詳という有様である


領事館守備隊(11人)の隊長荒木亀男少尉(海軍)は責任をとり自決を試みた。この時、領事は揚子江を行く、海軍駆逐艦利根に砲撃を控えるよう要請した。これは暴徒の宥和的態度を期待したためである。それは全く期待はずれに終わった。暴徒やテロリストに他国より良い扱いを受けようとして宥和的態度に出ることは決定的に誤りである。またこの事件により居留民のなかで、すこしの事態で軍事介入を求める傾向を生じた。日本人と同じように多数の外国人が被害をうけたことも忘れてはならない。

第三次南京事件の真実

日本だけよければよい、日本人だけ助かればよいが幣原の信念だったのかもしれない。

幣原外交とは霞ヶ関外交と言う名の省益外交のはしりなのだろう。幣原は閣議後の昼食会に常に欠席し、外務省の同僚ととった。また第1次大戦時、国際連盟加入に反対した伊東巳代治と敵対し、二元外交だとつかみ合いの喧嘩をしている。外交を外務省の特権的行為と考え閣僚・重臣の意見を謙虚に聞く態度がなかった。

森島守人による幣原外交批判

この時宜を得ず理念のない対英米強硬外交が与えた影響は太平洋戦争終了まで続くことになる。これにより安政条約以来の太平洋安全保障における日米協調が崩れたとは誰も気づかなかった。この時、ちょうど国内で金融恐慌が発生し、そちらに注目が集まったときの外務省の大きな失敗だった。

もし、が許されるとすれば幣原が軍縮会議で英または米と断乎対決、南京事件(第3次)で英米と協調という方針をとったならば、日本は違う方向を辿ったのではないだろうか。あるいは第2次大戦後の米仏関係のようなものが築けたかもしれない。

また幣原の各国協調の拒否という行為は、ある種の誤った観念を中国人に植え付けた公算がある。つまり、外国居留民への襲撃と財産の接収を当然とする考えである。これは第2次大戦後もしばしば現れている事に注意して欲しい。



幣原喜重郎、外交50年、中公文庫 1992
臼井勝美、満州事変、中央公論社 1974
信夫清三郎、日本外交史vol1-3、毎日新聞社 1974

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