平成12年2月21日第147回国会における衆議院国際問題に関する調査会で、小和田恆財団法人日本国際問題研究所理事長は次のような参考意見を述べた。
今からちょうど百年前、昨年がその百周年の記念に当たりましたが、1899年にオランダのハーグで第一回ハーグ平和会議というものが開催されました。このハーグ平和会議の流れをくむ、国際の平和と安全を確保するために国際社会がどういうふうに機構づくりをしなければならないかという見地から出てきた流れでございまして、いわば平和確保の主体としての国連というふうに申し上げられるかと思います。
御承知のように、19世紀、ナポレオン戦争が終わってウィーン会議によって欧州に平和が訪れる、その中で欧州協調体制というものができるわけでありますけれども、しかしその後、露土戦争であるとかクリミア戦争であるとかいろんな形で欧州の情勢が騒がしくなってくる。そういう中で永続する平和というものをつくるためには、そのためのやはり国際的な枠組みというものが必要ではないかという考え方が19世紀の後半に非常に強くなってまいります。そういうもののはしりが先ほど申し上げた1899年の第一回ハーグ平和会議であったわけでございますが、その結果、具体的な機構をつくるには至りませんでしたけれども、紛争を平和的に解決するためのメカニズムというものをかなり精密な形でつくって、それが新しくハーグ平和体制と呼ばれる体制になったわけであります。
ところが、それにもかかわらず第一次大戦が勃発いたします。その反省に基づいて、やはりもっときちっとした国際機構をつくって平和というものを確保しなければならないということでできたのが、御承知の国際連盟であったわけであります。
ハーグ平和体制は存在したか?
現在の国際連合が「平和体制」と呼びうるのか、そもそも平和のために役立っているのか、という点は措いて、ハーグ平和体制が存在したかという点については、はなはだ疑問である。ただし、他にも沢山ある安全保障助言機関として、ハーグ万国平和会議が国際連盟の魁をなし、また国際連合が国際連盟の後継団体であることは事実であろう。この点について、小和田恆が第一回ハーグ万国平和会議を取り上げたことは誤りではない。
さらに、「紛争を平和的に解決するためのメカニズムというものをかなり精密な形でつくった」というのも誤りである。それをつくるのに失敗したのが第一回万国平和会議であり、それゆえボーア戦争、北清事変、日露戦争と第一次大戦が立て続けに発生したのである。
平和を維持するものは、軍縮運動や平和運動ではなく、非人道的統治を行い先制攻撃を辞さない国家を掣肘しうる国際的軍事条約と軍備なのである。
ニコライ二世の提案
ことの始まりは、1898年8月29日、ニコライ二世が多国間軍縮会議をペテルブルグで開催したいと各国に通知したことであった。反動と侵略、キリスト教のベールを被せた非ヨーロッパ国家ロシアが、なんと軍縮を呼びかけたのである。
このとき、ヨーロッパに軍需産業が勃興し、その膨大な利益と活発な武器販売がヨーロッパ国民に嫌悪されつつあった。例えばクルップのエッセン工場は事実上世界最大の工場であったし、オーストリアのスコダ、フランスのシュナイダー・クレソー、イギリスのビッカース・マキシムはいずれの国でも産業界に有力な地歩を占めていた。
ニコライ二世の提案は各国政府ではなく、主として新聞で大きく取り扱われた。
社会主義者は疑った。ドイツのリープクネヒトは「単なる詐欺」だと書いた。自由主義者は概ね歓迎した。ただ、多くの人々は米西戦争に関するアメリカへの批判ではないかと疑った。日ごろ平和についてシニカルな説教をたれるアメリカ人が「でっち上げ」の理由で戦争を引き起こし、あまつさえプエルトリコとフィリピンをヨーロッパ人から奪取したのである。
ある新聞は旅行好きのウィルヘルム二世がエルサレム巡礼を発表したことにたいする「出し抜き」ではないかと書いた。そして同盟国であるフランスに事前通告があったのか、という点について穿鑿された。事実はすぐ判明した。フランスは事前相談にあずかっていなかった。安全保障上の重大事項とロシア政府は認識しなかった。
ニュースそのものが大きく扱われたわけではない。同時に起きたドレイフュス事件に関連したアンリ大佐の自殺、イタリア人によるオーストリアのエリザベート皇后の暗殺にむしろ耳目は集まっていた。
ロシアの狙い
軍縮国際会議の発想はニコライ二世から出たのではなく、クロパトキン陸相から出た。この時代の技術進歩は他のどの時代より激しかった。戦艦や巡洋艦は十年ごとに全面的廃棄、新造船を繰り返さないと、他国に追いつけなかった。日清戦争の巡洋艦は日露戦争では役にたたず、日露戦争時代の戦艦はドレッドノート級戦艦には全く抗し得なかった。太平洋戦争では、『金剛』級高速戦艦といった第一次大戦前に設計された艦が活躍したことと比較して欲しい。
ロシアの当面の急務は、シベリア鉄道と東支鉄道を完成させ、旅順艦隊をもって西太平洋を制覇することであった。ところがヨーロッパでは、宿敵オーストリアが全軍に駐退機付野砲を配備しつつあった。駐退機がつくと発射速度が6倍に向上する。ロシアは技術的にも財政的にもオーストリアと対抗することは不可能であり、ともかく時間を稼ぎたかった。これがため、クロパトキンはまずオーストリアとの軍縮交渉についてムラビヨフ外相に相談した。
ムラビヨフは二国間会議ではロシアの意図が見破られてしまうため、多国間会議はどうかと提案した。これに陸相またウィッテ蔵相も賛成したのである。
1899年1月、ムラビヨフはヨーロッパ各地を歴訪して、軍縮、陸戦規定制定、ジュネーブ協定の海戦規定への援用、残虐兵器の禁止を題目とすることを訴えた。ドイツは反対したが、英仏は場所を中立国オランダの非政治的都市ハーグにすることを条件に応諾した。
ハウステンボス
ハウステンボス(Huis ten Bosch)
「森の中の家」という意味で、オレンジ(オラニエ)公の夏宮として建てられた。
1899年5月18日を開催日とすることが決まり、非ヨーロッパ国も招聘することになった。ただし、オランダはトランスバール共和国とオレンジ自由国も招聘することを主張し、イギリスの猛反対に会った。
この他にもオスマン帝国はブルガリア、イタリアはバチカンの招聘に反対した。各国とも全権と随員の選定に入った。
フランス:レオン・ブルジョワ、ド・コンスタン
イギリス:ポンセフォッテ、フィシャー、アルダー
アメリカ:ホワイト、マハン、クロツィエール
ロシア:デシュタール、フェオドール・ド・マルテンス、ジリンスキー
ドイツ:ミュンスター、ツォルン、フォンシュテンゲル、シュワルツコップ
日本:林董、有賀長雄
参加国は26カ国で、
ドイツ、オーストリア、ベルギー、清国、デンマーク、スペイン、アメリカ、メキシコ、フランス、イギリス、ギリシャ、イタリア、日本、ルクセンブルグ、モンテネグロ、オランダ、ペルシャ、ポルトガル、ルーマニア、ロシア、セルビア、シャム、スウェーデン、スイス、オスマン帝国、ブルガリア
であった。メキシコを除く中南米諸国、エチオピア、アフガニスタン、朝鮮は招請されなかった。中南米諸国が参加できなかったのはブラジル、アルゼンチン、チリの軍拡競争が激しかったためであろう。エチオピアとアフガニスタンは「野蛮」国であったためだ。朝鮮不参加はロシアの侵略意図からであろう。日本と朝鮮はその意図に気づかなかった。
軍縮
本会議のあと、軍縮・戦時国際法・仲裁裁判の三つの分科会が開催された。もっとももめたのは軍縮についてであった。初めから徹底的な反対に会った。
ロシアのジリンスキー大佐(タンネンベルグ会戦の敗者)は、兵力・新兵器・予算について猶予期間を設けての停止、上限設定、あらゆる方向で説いたが、全て「実効性がない」と反対された。賛成したのはオランダなど小国ばかりであった。
ドイツのシュワルツコップは、
「ドイツ国民は軍事予算の増加に萎縮したりはしない。軍事予算は破滅の道ではなく、繁栄の道である。国民の生活水準はむしろ上っている」
と演説した。イギリスのフィシャーは、ロシア提案を阻止する側に回るのは得策ではないと思ったが、ロシアのいう兵器近代化・増加によって戦争形態が残虐になるという点については批判した。
「戦争を人道化する?それは地獄を人道化するというようなものだ。文明化した戦争においては、捕虜に暖かいシャワーをあげて、それから処刑すべきだというのか?」
スケベニンゲン(Scheveningen)のホテルクルハウス(「海の家」という意味)。フィシャーはホテルの中に鉄道駅があり、電信局があり郵便局まであると感激して書いている。昭和天皇も1921年の御訪欧時、宿泊された。
この発言はあとでホワイトの懇請によって議事録から削除された。フィシャーは、ハーグから馬車で30分ほどの保養地スケベニンゲンのホテルクルハウスに宿泊していた。フィシャーによれば「そこでは朝食も夕食もいつもバンド付でそのうえ昼食までもだ。会議など沢山だ」とのことであった。このハウステンボス会議期間中に地中海艦隊司令長官に昇進し、多数の軍官から祝福を浴びた。
フィシャーは会議よりも、各国武官との接触に重点を置いた。ドイツ海軍武官との会話で「奴らは水雷艇で英海軍を打倒しようとしている」と確信した。
またフィシャーの報告によると「日本人は大海軍国になるまでは黙っておく」ようにみえたという。そのあとも日本の外交官や軍人は国際会議では、黙っているだけなので、この批評は必ずしも中っていない。
またこの当時のアメリカ人にしては珍しく親英であった軍事評論家マハンは、フィシャーに
「政府は措いて、私は海軍軍縮を討論する気にはまったくなれない。来るべき中国市場の取り合いでは、相当の艦隊増強が必要であろう。そうなると五カ国の海軍と衝突することになる」
と語った。マハンはどこまでも粗暴な男であった。軍縮をまともに取り上げる国はどこもなかった。
戦争行為
軍縮があっけなく否決されると議論は「戦争行為」(Conduct of War)に移った。この分野に参加者はもっとも熱心であった。
問題となったのは、民間人による武装勢力にたいする防衛に関してであった。ドイツとロシアは民間人の自発的な抵抗を保護する必要を認めないといい張った。中小国は民間人の抵抗を認める立場をとったが、けっきょく民兵保護という点だけが認められた。
スパイの取り扱い、捕虜の保護、都市への爆撃の禁止、毒物使用の禁止、策略の禁止、休戦協議の方法、降伏の方法、敵地占領の方法については論争を招かなかった。
新兵器の禁止については定義が定まらなかった。けっきょくダムダム弾や爆裂弾が禁止された。これにはイギリス人が未開の野蛮人には教訓になるとか、アメリカ人がフィリピン人にたいして使用を計画しているといい、反対を示唆したが各国の冷笑を浴びた。
それでもイギリスのアルダーは
「野蛮人が負傷した兵士を刀と槍で襲撃してきた。兵士は『ちょっと待て。ジュネーブ協定に従えば、私は担架にのせられ医者に包帯され、赤十字病院に運ばれる権利がある』と説明したところで、首を切られるだけだろう。戦争とは厳しいビジネスだというしかない」
と頑張ったが、22対2で押し切られた。
次に気球からの発射物や爆発物の投下について、禁止で一決した。ところが翌日、アメリカのクロイツィエールは、
「近い将来、気球にモーターをつけて戦場の上空に達し、決定的な場面で爆弾を投下し、決定的な勝利を収めることができるかもしれない。そうなれば人命も少なく紛争を解決できるかもしれない」
と挑戦状をつきつけた。マハンの意見を取り入れたものだがロシア人は反発した。けっきょく5年間の期限でということで妥協がはかられた。窒息性毒ガス禁止についてもマハンだけが反対した。
「アメリカ政府は市民による創造的武器開発への禁止に反対する」
ととってつけた理屈を述べた。マハンによれば毒ガスは潜水艦より残虐な兵器ではない、ということであった。だが、23対1でマハンの動議は否決された。
ハーグ陸戦協定
仲裁裁判所
国際司法裁判所。平和宮(Het Vredespalesis)と呼ばれ、1913年に完成した。現在(2008年)、小和田恆は裁判官の一人である。
最後まで論争の的となったのは仲裁裁判所問題であった。仏:レオン・ブルジョワ、英:ポンセフォッテ、米:ホワイト、露:デシュタール、独:ミュンスターと首席代表がこの設立問題に係わった。
ポンセフォッテの提出した仲裁裁判所設立案が、もっとも妥当なものと認められた。これに断然反対したのはドイツであった。オーストリアも消極的であったが「郵便や保険に関するマイナーな問題のためであれば設置してもいいのではないか」という態度であった。
ルーマニア、ブルガリア、セルビア、ギリシャのバルカン諸国は仲裁裁判所が設立されなければ、国に帰るといい出した。ロシアはこれに成功せねば会議を提唱した意味が失われると必死であった。このころのバルカン諸国はロシアの与党であった。
次第にドイツは孤立の色を濃くしていった。だが、アメリカも最後になってゴネ出した。マハンが米西戦争について仲裁裁判所があれば、未然に防止できたというヨーロッパ側の論調に過敏に反応したためだ。マハンにとりヨーロッパの西半球への介入は許せないことだった。だがドイツが国家主権を損なわない範囲で仲裁裁判所を認める方針を打ち出すと、アメリカ人も設立を認めるしかなくなった。
最後に「アメリカはヨーロッパに介入しない」と宣言することで決着がついた。
会議の成果
7月29日、会議はいくつかの協定という成果を残して閉幕した。
- 国際紛争の平和的解決
- 陸戦協定
- 1864年ジュネーブ協定の海戦への援用
- 気球からの弾丸および爆弾発射の禁止
これに附属して、@気球からの弾丸および爆弾発射A窒息性毒ガス放射の使用B体内において拡大または扁平する弾丸の使用
について宣言された。
ロシアはヨーロッパ各国の軍拡に追いつけなかったのである。
ドイツのミュンスターは「ドイツが全ての悪の元凶とされるような国際会議には二度と出席しない」と捨て台詞を残して去った。イギリスのホワイトはマハンについて「ヤツの前では(ヨーロッパ)1千年の歴史もないかのようだ」と嘲った。
3カ月後に、ボーア戦争が勃発した。4カ月後になると山東省の拳匪が外国人宣教師と教民を襲撃した。こうして波乱の二十世紀の幕が上りつつあった。
ボーア戦争