ハプロ条約

ハプロ条約

ハプロ条約

ハプロ条約

ハプロ条約


1927年からドイツ国防軍(Reichswehr)は、予備役やフライコールあがりを国府軍に軍事顧問団として、派遣していた。ただし、ドイツ人は北伐にはほとんど参加せず、報酬目当ての者が多かった。

本格的となったのはゼークトの第一回訪中(1933/5〜7)からである。この時、ゼークトは対日戦を念頭においた、上海周辺の塹壕線の設営をすでに蒋介石に具申した。蒋介石は第一次上海事変の休戦協定に違反して早速、トーチカの建設に乗り出した。

ファルケンハウゼン

そして、親中路線をとる国防相ボロムベルグと軍務局長(参謀総長)ライヘナウの案にもとづきハプロ(Handelsgesellschaft fuer industrielle Produkte)が設立された。ハプロの機能は、軍需生産品の生産とドイツへの希少金属(モリブデン・アンチモン)の輸入にあった。

ゼークトは、これをうけて第二回訪中(1934/4〜1935/4)を行ったが、この時はファルケンハウゼンを伴っていた。そして国府軍近代化の提案がなされた。

そして、ゼークトの建策は、1936年4月調印のハプロ条約として実現した。(署名者は蔵相のシャハト)

  1. ドイツ軍事顧問団のほかに顧問団本部を設け、そこに現役将校を派遣する。
  2. 6個師団からなる10万人のエリート軍を建設する。それを早急に30万人に引き上げる。6個師団に見合って6個の師管区を設け、そこに軍需産業のコンビナートをつくる。
  3. 中国にたいする緊急武器輸出として4隻の高速魚雷艇を供与する。そして50隻まで増強する。沿岸警備用に15センチ砲台を建設する。機雷設備を供与する。
  4. 中国人学生をドイツに派遣し、機械技術者として養成する。

この条約にもとづき、蒋介石は国防設計委員会を国防資源委員会に改組し、重工業建設3ヵ年計画を樹立した。また魚雷艇や機雷設備、砲台は揚子江と黄哺江の水上封鎖を目論むもので、上海攻防戦を念頭においている。ただし、実戦において、このような簡易な設備は、帝国海軍の河川砲艦・駆逐艦の敵ではなかった。

ゼークトの神通力も、海戦水戦には及ばない。

そして、軍需産業の目玉として、1936年末までに湖南省にディーゼルトラックの製造を目的とする「中国汽車製造公司」をベンツ社と共同経営でたちあげた。現在、日産のセフィーロをノックダウン生産している、「東風汽車」の前身である。なお、この工場建設のエンジニアリングはクルップ社が担当し、土木・機械設備の設置はシーメンス社が担当した。

この時、ドイツは別の片手で日本と「防共協定」を締結していおり、日本の外交官はこの条約について猛烈な抗議を行った。これにたいし、ワイツゼッカー外務次官(元西独大統領はその子)は「中国での行動を共産主義に対する戦いとして防共協定で正当化しようとする日本の説明はまったくの邪道である」と答えている。

これは日華事変勃発後の会話であるが、自らの軍事顧問団が蒋介石をそそのかし、上陸(しゃんりく)を攻撃させた件については頬かむりした、ドイツ的言いがかりである。また、日本の外交官(大島武官ら)が、反共十字軍のようなイデオロギー戦争だといった可能性はあるが、それは正当化の議論ではなくて(外交的には先制攻撃をうけたか否かのみが正当化の判断)、NSDAPの主張に沿った議論を展開したということにすぎない。

1938年に入ると、ノイラートやワイツゼッカーに代わって、リッペントロップの勢力が外務省でも強くなり、6月にはトラウトマン大使を召還し、軍事顧問団も引き揚げさせた。これは、ヒトラーの判断によるところだが、ドイツ自らの戦争を中軸に考えれば当然の結論だろう。すなわち、国府軍が独ソ戦に介入したとして、現実的な戦力になるとは、ドイツ参謀本部も想像できなかったということだろう。

だが、1939年8月のモロトフ=リッペントロップ協定成立をみて、国民党親独派の朱家華は喜び、ドイツに独中ソ経済同盟の樹立を提案している。さらに1940年7月、フランス戦が一段落すると、ドイツに「満州国承認」「日本の上海・平津地区以外からの撤兵」「華北経済権益の確認」を条件に再度、日本との和平仲介を依頼した。

この時、陸軍は参謀本部次長沢田茂を中心として「桐工作」に取り組んでいた。外務省から参謀本部に、この仲介依頼の連絡があったか否かについて、沢田はその回想録に記録していない。ちなみに、朱家華の条件は沢田の桐工作における条件と同じである。更に、「ハルノート」は満州を除く撤兵を要求しているので、朱家華の条件より厳しい。役所のセクショナリズムが日本を追いつめていったのだ。

手本はドイツ

1934年2月、蒋介石は「新生活運動の要義」の演説で、第一次大戦の敗北から十数年で立ちなおったドイツの例をひいて国民の奮起をうながした(『蒋介石秘録』10 サンケイ新聞社)。

『われわれが社会を改造し、国家と氏族を復輿しようとするとき、武力によって成功する
ものではない。では、どうすれば成功できるのか?

簡単にいえば、第一は一般国民に国民道徳を身につけさせること、第二に国民意識を身
につけさせることである。道徳がより高く、意識がより良い国民ほど、それだけ容易に社会を日一日と進歩させ、国家と民族を復興させることができる。

たとえば、ドイツの復興がもっともよい例である。ドイツはヨーロッバ戦争(第一次世界大戦)で敗北し、ベルサイユ条約に調印したあとは国家全体が各戦勝国の圧迫と干渉のも
とに置かれ、まったく動きがとれなくなった。

とくに軍備は厳重に制限され、陸軍についていえば十万人を超えないように制限された。列強と比較すればゼロに等しいと言いうるものであった。だが、彼らは武力を持たなかったにもかかわらず、十五年足らずで復輿し、世界の列強と肩を並べるようになった。な
ぜか?

あらためて、ドイツの状況をわれわれ中国と比較してみよう。ドイツには強大な武力はない。これにたいしてわれわれにはドイツに十数倍する陸軍のほか、海軍、空軍もある。ドイツの人口はわずか六千万人だが、われわれの人口は四億人である。

国土の広さにいたっては、ドイツはわれわれと比べものにならない。だが、ドイツは軍備の平等を求めてなしとげ、賠償取り消しを訴えて、すぐなしとげた。ところが、われわれ中国は不平等条約を根本的に廃除できないばかりでなく、その部分的改定、修正の提議さえも無視されてきた。数十年、百年以上にわたる賠償も、なお払い続けなければならない。

ドイツが一国家なら、中国も一国家である。ドイツが武力なしに各国との平等を達成し、中国は武力を持ちながら依然平等を獲得できないのはどのような理由からなのか?

それはほかでもない、一にかかってわれわれ一般国民の知識、道徳がドイツに及ばなか
ったからである。

今後、われわれが平等を求め、われわれ国家と民族の復興を考えるならば、まず国民の
知識、道徳の向上という基礎から着手しなければならない。

外国人といえども、文化的な国家、民族にたいしては、粛然と畏敬の念を払う。ドイツの要求を各国があえて拒絶しなかったのは、このためである。

われわれ中国がなお平等を獲得できず、日々帝国主義者の侵略と圧迫にさらされている理由を二言でいえば、一般国民の衣食住と行動が、われわれの先祖や現在の外国人のように「礼義廉恥」にかなっていないからなのだ』

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