ソンムにおける独近衛予備第2師団予備歩兵第5隊 ソンムにおける独近衛予備第2師団予備歩兵第55連隊 ソンムにおける独近衛予備第2師団予備歩兵第5隊 ゴムクール突起部
ソンム初日、イギリス軍は北から、ゴムクール・セール・ボーモンハーメル・チェッバルの四点を攻撃した。このうち主攻はフランス軍との受け持ち境界線の近くの、ボーモンハーメルであることは明らかである。
最北のゴムクールは小さな突起部を形成しており、それを理由としてイギリス軍が助攻の目標とした。この突起部を守備していたのは、近衛予備第2師団予備歩兵第55連隊(デュスモント少将)である。ドイツ軍の交代勤務は1個師団3個連隊のうち、2個連隊を前線勤務にあて、残る1個連隊は後方の兵舎で休憩となる。
そして1個連隊は3個大隊で編成されており、概ね2個大隊が第1線壕の守備につき、残る1個連隊は交通壕の守備などにあたる。そして、敵の一斉攻撃があった場合は、交代が不可能となるため、受け持ち地区を離れず戦うことになる。
英軍の準備射撃が開始されたのは6月24日からで、その時、突起部の北を予備歩兵第55連隊の第1大隊(ポトメル少佐)、南を第2大隊(ミンク大尉)が守備していた。そして7月1日、英軍は南北から突起部を分断しようとして、第1地区と第5地区に攻撃を集中した。
第1地区を守備していたのは第4中隊銃剣120人、機関銃2挺、第5地区を守備していたのは第8中隊銃剣170人、機関銃3挺であるにすぎない。この二つの中隊は6月24日から交代派遣が可能となった7月3日まで、不眠不休で戦うことになった。
英軍の猛砲撃
英軍はここゴムクールに、重砲・野砲・迫撃砲あわせて30万発以上の猛砲撃を6月24日から6月30日まで連続して浴びせた。
予備歩兵第55連隊は、この英軍の準備射撃による損害を戦闘詳報に次のように報告している。
6月24日負傷者1名
6月25日戦死者2名、負傷者2名
6月26日(毒ガス攻撃をうける)
負傷者4名
(150名の補充員到着)
6月27日(この日までに全鉄条網破壊さる)
戦死者1名、負傷者4名
6月28日終日砲撃受けるも被害なし
6月29日(第1線壕の破壊著し)
迫撃砲破壊さる
6月30日午後6時まで終日砲撃
戦死者1名、負傷者11名少なくとも10万発は、予備歩兵第55連隊に向けられたが、戦死者はわずか4名に過ぎなかった。20世紀前半の戦いで、白兵戦の対比として砲撃戦があげられることがあるが、誤りであることがわかる。
砲弾をいくら投げても敵陣地を制圧することはできない。歩兵が前進することのみによって敵陣地を制圧できる。その場合でも白兵戦が生じるケースは少なく、手榴弾の投げ合いで陣地の奪い合いになるケースが大部分である。
塹壕戦において、砲撃数万発で、一桁台の戦死者というのは珍しくない。戦死者が出るのは攻撃側が徒歩で前進するところを、小銃・機関銃・榴散弾などで弾幕射撃(旧軍は阻塞射撃と呼んだ)を受けた場合である。この場合、砲撃側はしばしば目視して敵を確認しているわけではなく、ただ手だけを出し射撃してている場合が多い。
そして、7月1日の英軍の突撃を受けることになった。
・・・この時の予備歩兵第15連隊の守備情況
第1線壕、銃剣732人、機関銃8挺
直後、応援部隊として銃剣54人、機関銃1挺
核心角面保塁、銃剣552人、機関銃3挺7月1日の攻撃の情況
英軍は、7月1日総攻撃を敢行した。ただし、第1地区と第5地区に二手に分かれて突撃を行い、北からはノースミッドランド第56テリトリアル師団(ノッチンガムに本部を置く、シャーウッド・フォレスター連隊のテリトリアル兵を中心とする部隊)と、南からはロンドン第46テリトリアル師団が攻撃部署についた。このうちノースミッドランド師団は第1線壕の占拠もならなかった。これにたいしロンドン師団は第5地区のドイツ軍塹壕の占領に一旦成功している。
ドイツの予備歩兵第55連隊のの戦闘詳報は第5地区の攻防について以下のように記している。
第五地区ドイツ軍戦闘詳報
午前6時30分より、15センチ以上の火砲をもってする砲撃をうけ、生活掩蔽壕入り口はほとんど全部埋没し、塹壕全体も原型をとどめなくなった。鉄条網も寸断され、陣地の防御力は減殺された。
そのうえ第1線壕はフォンクビエー方向より縦射されて守兵は配置につけなかった。午前7時30分、英軍は第1線壕に侵入してきた。予備砲兵第6中隊付きシレッテル大尉の観察によれば、英軍は予備歩兵第55連隊の左翼の第5地区の赤色塹壕を占領し、ゴムクール墓地の南方、および核心角面堡の南方に近づいた。
この攻撃にあたり、第4地区の左翼の1小隊は英軍の前進を拒止したが、全体として掩蔽壕が埋没したため、進出することができなかった。ついに、第5地区の左翼は英軍のために侵略された。
午前7時50分、英軍砲兵の核心角面堡および第1連絡壕にたいする砲撃の爆煙の下、一層の攻撃を加えてきた。核心角面堡にあった第10中隊と工兵第4中隊は、手榴弾による格闘戦を行い、英軍兵をゴムクール墓地から放逐した。
更に工兵第4中隊は核心角面堡の入り口を閉鎖し、手榴弾および小銃をもって英軍2個中隊と戦った。午前7時40分ごろ、ミンク大隊長は第7中隊に南方塹壕方面より、第8中隊守備の失地回復を命令したが、実施することはできなかった。ただガウゼル塹壕と南方塹壕の中間100メートルの地点で英軍の前進を拒止した。
この時までに地下2メートルに敷設された電話線は破壊され、連隊本部との電話は遮断された。午後7時50分、ミンク大隊長は第2連絡線にあった第10中隊の主力をもって、核心角面堡を領せしめ、第7中隊に逆襲を命令した。
午前8時30分、デュスモント連隊長は後方にあって連隊予備となっていた第3大隊(タウシェル少佐)に第5地区に向かい、危機に陥っている第2大隊を救援することを命じた。第3大隊の2個中隊のうち第11中隊は赤色塹壕に、第12中隊は第2交通壕に向かった。
午後3時、第11、第12中隊は突撃を行い、第9中隊の一部も参加し猛烈なる格闘戦となり赤色塹壕の一部を回復した。一方、第6、第8、第11中隊も逆襲を行い、第1線壕の一部を回復した。
しかし午後4時の時点では南方塹壕と第1線壕に英軍兵はとどまっていた。
午後6時50分、連隊長は第1線の情況をほぼ掌握し、タウシェル第3大隊長に英軍兵を全面的に駆逐することを命令した。タウシェルは下士卒80名を率いて、突撃を行い、英軍を全陣地から駆逐した。
上空6500フィートからのゴムクールの航空写真
右が核心角面堡、煙のように見えるのは、木の影英軍兵士の回想
7月1日、英軍はアレンビーの第3軍に属する、ロンドン第46テリトリアル師団が第五地区をノースミッドランド第56テリトリアル師団が第一地区の攻撃を担当した。
以下は第46師団のビクトリア女王狙撃兵連隊の一兵士の実家へおくった手紙の抜粋である。
「わが軍の猛烈な砲火のカバーとドイツ軍から弾幕射撃のなか、出撃した。また同時に煙幕も張られたようだ。7時半 、40ヤードの間隔で5〜6波の横隊による攻撃がかけられ、私は第2波にいた。
戦友の何人かが、途中で倒れた。ドイツ軍の塹壕に到着すると、ドイツの歩哨はわが軍の砲火により、倒れていた。ドイツ軍の地下壕には30名ほどが隠れていたが、声をかけると『友達よ』と言って出てきた。ドイツ軍の地下壕は9メートルほどの深さがあり、それに手榴弾を投げ込み爆破した。
捕虜は後送したが、無人地帯はドイツ軍の絶え間のない砲火にさらされており、何人かは、途中で死亡したことだろう。
それから順繰りに、ドイツ軍の交通壕に進んだ。しかし、後続の大隊は途中でドイツ軍の放火になぎ倒されたようで、なかなか到着しない。おそらく数個大隊は到着したと思われるが、手榴弾の投げ合いとなり、何人かはその犠牲となった。
直協部隊が到着せず、徐々に手榴弾が尽きていった。私は第2線の壕にいたが、連隊はほぼ、3線の塹壕に閉じ込めれる形となった。夕方の5時になると弾薬が尽きた。7時半となり、すでにドイツ軍の塹壕に12時間以上いたことになるが、350ヤードを走って戻るしかなくなった。
戻る途中、何人かの戦友を失った。ドイツ軍は手榴弾をも投げてきたが、私はなんとか、元の塹壕にたどり着くことができた。戻ると、大隊の将校は全員行方不明であり、兵卒も一割以下しか確認できなかったようだ。生きて戻れたのは幸運だったとしか言いようがない。」
イギリス軍の損害は6760人で、そのうち2760人が戦死した。ドイツ軍の損害は591人で、そのうち185人が戦死した。ノースミッドランド第56師団長は、当月末革職され、予備軍法会議にかけられた。
英軍の敗因
二つの叙述は一致している。
英軍の大損害の原因が準備射撃を過信したことがあったのは疑いない。すなわち、よく整備された塹壕に砲撃を加えても意味はない。塹壕そのものに命中しても敵兵は地下室にいて大きな打撃をうけない。
誤解を招く言い方かもしれないが、当時の装備で塹壕を屠るためには、歩兵の突撃以外なかった。
これの前提として、敵陣地を占領するために相当の歩兵の犠牲が必要だと計算されていた。現代人は、これ自体に戦争の悲惨さを見出すに違いない。ただ、兵士も国民も第一次大戦が "The War to End War"(全ての戦争を終わらせる戦争)と思っていたのであり、後世の結果を知った人間が批判できない面があるのも事実である。
それでは、英軍は損害を少なくし、かつ戦果を拡大する方法があっただろうか?
第一の問題は横隊攻撃すなわち狭正面を横一線に広がって、歩兵を突撃させるやり方である。これは弾幕射撃の餌食になりやすい形であり、カバーをとりながらランダムに突撃すべきだった。
第二の問題は攻勢発起点から敵塹壕までの距離が300メートルとやや長い。できるだけ接近させるべきだった。そして攻撃波の間隔が35メートル程度と短すぎる。すなわちカバーをとる方法を併用し、間隔を広げるべきだった。
第三に上記と関連して直協部隊が十分でなく、敵兵の予備兵力の投入に一旦占領した塹壕を簡単に奪回されたことである。
これらの問題は開戦初頭、または日露戦争から気づかれていた問題であるが、英軍は学習効果を得ることなく、類似の方法を1917年の第三次イープル戦まで続けた。