8・13上海決戦に先立ち、石原莞爾参謀本部作戦部長および外務省東亜局長石井射太郎は蒋介石に日本の妥協案を示し平和を維持しようと私的外交に走った。この二人は、「話せばわかる」程度の認識でこの工作を開始した。
s昭和天皇の船津工作についての発言(嶋田繁太郎大将無題備忘録)
8月6日、支那沿岸および揚子江方面に於ける用兵関係にて上奏。(軍令部総長)
「近衛首相の話によれは船津か上海にて内面交渉を行う由なるが、うまく行けば宜しいが、若しこの条件にて支那が同意せさるなれは寧ろこれを公表し日本がかく公明正大の条件を出したるに支那同意せさるなりとせば、各国の世論も帝国に同情すへし
出来るだけ交渉を行い纏らされは止むを得ず戦うの外なし。先日参謀本部の話に長引く時に露を考慮するの必要上支那に大兵力を用い得ずとの事なるがやれる丈けやるの外なし。
陸軍も困ったものなるも海軍のみにてもしっかりやる様に。」
昭和天皇は近衛首相から船津工作の概要を聞いた。ただ、これは石井→広田→近衛、経由で石原が介在しているとは聞かなかったのだろう。ただ、この時点で昭和天皇は蒋介石の開戦決意が固いことを見抜いていたようだ。交渉自体にあまり期待していない。
要するに、日本は交渉をする意志があったが、蒋介石が拒絶したという形をつくりたかったのだろう。近衛・広田はこの点を理解していたと思われるが、石井・石原は全くわかっていなかったようだ。つまり、自分たちは蒋介石と信頼関係がつくれると錯覚していた。この種の下僚の暴走は終戦まで続いた。そして戦後でも折に触れ顔を出す。また、先日の参謀本部の話とは明らかに、石原の説明である。
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蒋介石がまさに全力をあげて刀をうちおろそうとしていた時、この試みは実施され当然のように失敗した。個人と国家は異なる。個人が暴力手段に訴えようとする場合あるいは「話せばわかる」かもしれない。しかし国家はそうはいかない。近代国家が戦争に出る=侵略者となる時は周到な事前計画をもち、機関決定を行い、動員をかけ(蒋介石は7月下旬動員下令)、開進を実施する必要がある。事前計画にもとづく戦争をやめさせることは極めて至難であり外交交渉ではまず不可能である。
これは好戦的に聞こえるかもしれない。しかし実際には軍事バランスを巧妙に維持し、第三国との外交関係を有利に働かせ、事前作戦計画の前提を覆すことしか方法はない。あるいは敵の意図が諜報などで確認できたならば、すぐさま周辺各国との調整のうえ、予防戦争を考える必要がある。陸軍参謀本部はそのいずれの手段も自己の権限にあるとみなさなかった。
現在まで尾を引く問題だが、外交問題は外務省の専管事項であり重要案件でも局長以下の下僚に任された。すなわち盧溝橋事件が発生してから日本側で、この事件を機に戦争を引き起こそうと考える人間はいなかった。もちろん内蒙古の前年の徳王による蜂起失敗を無念に想う関東軍の一部将校はいた。しかし蒋介石は内蒙古について満州と同程度にしか関心を示していない。そしてその問題が参謀本部で大きくクローズアップされることはなかった。参謀本部は盧溝橋事件に対応して内地から留守師団3個師団を北京・天津に派遣することを決めた。これは孤立した北支派遣軍を救援する意図で、冀東地区にいた宋哲元(この地域に有力だった軍閥・29路軍司令官)25万人の兵力からみれば大きなものではない。
しかし派兵した以上、なんらかの協定を成立させ再度内地に戻さねばならない。これも不思議に聞こえるかもしれないが、地上部隊の派遣は財政に大きな負担をかける。戦時編制とするうえに食料を除く軍需物資は全て内地から運ばねばならない。陸軍も役所の一部であり、予算がなければ何も動けないことは他の役所と変わることがない。参謀本部は早期の撤収策は蒋介石との交渉によらねばならないと考えた。これは外交であるから、外務省の職掌である。しかし交渉開始のタイミングを誤れば、蒋介石の開戦意図を考慮すると途轍もない判断ミスにつながりかねない。
参謀本部から文民政府へは蒋介石の真剣な軍事措置の開始の情報は伝達されていない。国民政府への和平提案なる作文が閣議(四相会議)で7月29日了解された。これは外務省東亜局長、石井射太郎が閣議に諮ったものでこの種の作文が閣議で否決されることはまずない。ただこれをどのように外交ルートに乗せるか、どのタイミングで出すかは再び外相(広田弘毅)マターとなる。このようなハンコたらいまわし的無責任が日本外交の特徴である。
参謀本部と軍令部は間諜や暗号解読により蒋介石の動向をほぼ完全に把握していた。7月20日蒋介石は華北における部分動員を下令した。そして上海・南京地区への開進はその意図を明白にさせつつあった。更に、7月29日以降、蒋介石は宋哲元に北京・天津での増援部隊を含む日本軍を攻撃するよう督促した。石原莞爾やその配下河辺らを除き、ここに来てさすがに蒋介石の意図が全面戦争であることを疑う人間はいなくなった。ただちに内地師団と新編師団(特設師団)動員の計画が準備された。
それでも石原は自分の引き起こした満州事変がこのような結果を招いたとは信じることができなかった。石原は動転していた。参謀本部は政治(外交)に関与できない建前から陸軍省軍務課長柴山兼四郎を通し幣原外交を信奉する支那通の石井射太郎に依頼、蒋介石に7・29和平提案を基礎に交渉する方策を模索した。
船津辰一郎(1873−1947)
元奉天総領事・ノンキャリ外交官
石井は支那通の常として自分の上海総領事時代の知人、船津辰一郎(在華紡同業会理事長)と国民政府高宗武(外交部亜州司長)との個人的人脈を利用しようとした。船津は8月4日7・29和平提案が示されると直ちに上海に渡った。会談の予定は8月9日とされた。ところがそれまで天津にいた駐華大使川越茂も上海に戻り、船津に代わり高に面会することになった。8月7日あるいは8月8日に川越は本国の訓電を受け取った。そこで7・29和平提案について知らされたことは確実である。ただ広田外相の予定される会談への方針、または国民政府とどのような交渉姿勢で臨むべきかについては内容が不明だ。
8月9日、川越は高と面会したが7・29和平提案についてはついに触れず、そのまま何事もなく会談は終了した。石井はこの事件を川越がサボタージュしたと痛恨の想いで書き残した。
だが石井の無念はマトがはずれている。たとえ蒋介石に7・29和平提案が届いても100%耳をかすことはないだろう。国家が計画にもとづいて動員・開進を実施している時途中で停止することは不可能だ。この事実を知らないことは外交官としてあきれかえる程の軍事的知識の欠落である。せめて第1次大戦の直前外交でロシアの部分動員から始まる軍事措置がどのように破局を招いたのか勉強すべきだった。
広田と川越はおそらくその程度の知識は有していて、7・29提案を更に効果的な時期、国府軍が苦境に陥った時期に提出し、自らの得点にしようと思ったのに違いない。広田は大アジア主義者として蒋介石と親しかった。この広田の野心はその後思いもかけない方向に転じて行く。
トラウトマン工作

在華紡績同業会 『船津辰一郎』 1958
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