フランソワのシュタルペーネン戦の手記

フランソワは第一次大戦終了後何冊かの本を上梓した。いずれも戦闘についての評論と自分の戦闘記録を交えたもので、どうしても自慢話が中心となるが、それでも非常に興味をひくエピソードも衒うことなく書き残しており、初期のドイツの戦いの格好の題材を提供している。

以下はフランソワの書いた1914年8月17日東プロイセン国境の戦況である。

8月17日

朝、シュミット少佐の大隊が前日の戦いでとった行動を顕彰するためビルダーワイツェンへ自動車で向かった。同行したのは大本営からのカルマン中尉、副官の騎馬擲弾兵クンハイム少尉、カーニッツ伯予備役中尉、息子のフランソワ退役少尉だった。息子は健康上の理由で1901年近衛野砲隊の将校をやめなければならなかった。開戦後は後備役に配属された。息子は私の代わりに日記をつけていた。それゆえに私の移動に全て同行せねばならなかった。移動中はマッソウ少佐に副官の代表をさせた。

いつもとは異なる煙と火が地平線にみえた。本日にとり悪い前兆である。シュミット少佐と町の前面で砲撃戦が開始されたようだと話し込んだ。そこに自転車伝令兵がビルダーワイツェン南方のメッケンにロシア兵が入ったことを伝えてきた。そこでスツゲルンのワラ積みに行くことにした。2日前そこでは戦場をよく俯瞰できた。望遠鏡を使うことなくロシア兵がスツゲルンに向かって一列となって進む長い隊列を見ることができた。しかし我々の位置も知られてしまい撤退せざるを得なくなった。シュタルペーネンではコンタ将軍に会うことができた。将軍もロシア軍侵入をすでに知っており、ロシア兵の隊列はここシュタルペーネンにも向かっているとして応戦の準備をすすめていた。その隣の国境防衛分遣隊はトルミングケーレンで戦場からは18キロ離れていた。私は直ちにゴリッテンに向かうよう電話で命令した。第2師団の師団長は既に警告を受けとっており、4個大隊と野砲5門とで到着した。そしてグンビネンにあった重砲もシュタルペーネンに向かうよう命令した。

それからシュタルペーネンの教会に塔にのぼり、戦闘を実見した。エンドトクーネンとシュタルペーネンの間の道には14キロに亘りロシア歩兵と砲兵とで埋まっていた。南北からシュタルペーネンを包囲するように動いていた。ペシケンとラウドーネンで我が軍はロシア兵を撃退していた。ウィロッテンではロシア砲兵はわが榴弾砲の射撃が命中し武器をおいて逃走を開始していた。

この緊張の一瞬に教会の鐘が突然鳴り始めた。あまりの大音響で望遠鏡は揺れ、ほとんど倒れんばかりだった。市民会の一人に敵の到着を知らせようと町の人々に警告する考えが閃いたらしい。

正午重砲隊がグンビネンから到着した。1門はタルプポーネンの道沿いにパッケルンに配置し北を狙わせた。2門はウスツバーレンンの道沿いを進ませた。ロシアの砲兵隊も射撃を開始したが速度をあげ、被害をうけることなくアレックスケーメンに配置させることに成功した。

ロシア軍歩兵はあまり抵抗を受けずに南北から順調に前進しシュタルペーネンの包囲を開始した。我が軍が撤退したわけではないが両翼からの脅威は迫っていた。私はカルマン中尉と副官の一人に塔からの観察はまかせ、コンタ将軍のところに向かった。将軍は参謀全員をひきつれ駅舎の近くにいた。そして両翼からの脅威を除去するため、そこに戦略予備を待機させていた。

ゴリッテンにおける戦いはますます激化していた。ロシア砲兵もシュタルペーネン駅に榴弾を浴びせかけていた。そこでは防衛指揮官のランゲン少佐が下車し砲弾の輸送にあたっていた。

ちょうどその時(1時頃)第8軍司令官プリトウィッツ将軍の連絡将校の車が到着した。そこにいた将校諸氏の数が多かったことを考えれば必要以上の大声でこう叫んだ。
「軍司令官は貴殿に直ちに戦闘を停止し、グンビネンに撤退することを命令した。」

私はこう返事した。
「フランソワ将軍はロシア人が敗退したときに戦闘を停止すると、プリトウィッツ将軍に伝えろ。」

現下の戦況としてはフォーク支隊の到着と正確な使用が決定的重要性をもっていた。11時半にフォーク支隊は行動を開始したが、まだどのように動いているのか判明していなかった。私はコンタ将軍に引き続き町を防衛するように命じ、フォーク支隊を発見しゴリッテンに向かわせることに決めた。

車で副官とともにシルポーネン経由カースベンに向かった。それからウィクナバイチェンへの小さな道をとった。ここでピサ川は浅瀬となっており、ここでしか渡ることができない。しかし川水が車の電池に触れ動けなくなってしまった。川の真ん中で立ち往生した。すこし小さめの2番目の車に乗り換えた。ようやく川を渡りきると第10騎馬擲弾兵のクロス大尉が来た。クロス大尉はフォーク支隊は見ていないが友軍のシュケルンにある野砲が砲撃を開始したと言った。またここからはロシア騎兵1個連隊がいるため車は得策でない、そしてカービン銃でそのロシア連隊は食い止めると付け加えた。キセルンにある館が燃えていた。それは敵が近い証拠だった。

とりあえず2番目の車でカーニッツ伯中尉と一緒にその野砲座に向かうことに決めた。その野砲隊はやはりフォーク支隊の一部だった。そして歩兵はブドワイチェンに向かったと言われた。そしてそこでフォーク将軍と会うことができた。フォーク将軍は朝方シュタルペーネン方面から砲声を聞き、トルミングケーメンの守備隊を糾合し、シュタルペーネンに向かうことに決めた。その時ロシア1個師団がウィステニエックからメルケーメンに向かって行軍中だと知り、シュリム少佐を第45連隊の第1及び第3大隊、第10騎馬擲弾兵第4中隊、第1野砲連隊の第1中隊をメルケーメンで敵を阻止するために向かわせた。自らは残余の第33狙撃連隊、第45歩兵連隊の第2大隊、第1野砲兵連隊の5門の砲を率いて、カースベン、ポズツォーネン経由マッテルニヒケンに向かった。そこで大隊単位で攻撃陣形をとらせ、野砲による射撃を行ないながらゴリッテンに向かい突撃して行った。攻撃が順調に進捗しているところに私が到着したわけだ。

私は教会の野砲の司令官に塔から望見できた敵野砲の位置を知らせた。そしてフォーク司令官から借りた馬に乗り、カーニッツ伯中尉とともに歩兵部隊の攻撃地点に向かった。歩兵部隊は私に歓声をあげた。誰しもが「きっと勝つ」という意思を秘めていた。

攻撃は鉄道と主要道路が交錯する開豁な地域でゴリッテンの方向にロシア軍の背後をつく形で行なわれた。家畜小屋には50頭から60頭の傷ついた牛が横たわっていた。死亡したまたは重傷を負ったロシア兵が野原を覆っていた。道のへりにロシア歩兵第105連隊長の大佐が重傷を負って座っていた。衛生兵が胸の開いた傷口を治療していた。その大佐が私をみつめたときの苦痛と悲しみを私は忘れることがないだろう。

背後をつかれたと知ったロシア兵は小隊ごとに降伏し、その場所で3000名に達した。ゴリッテンの近くでロシア兵は東に逃げ砲兵隊は沈黙した。完全な勝利だった。ドポーネンで再度車に乗りゴリッテン経由、シュタルペーネンに向かった。

道の両側にはロシア兵がいてまだ武装解除されていなかったが、完全に士気阻喪しておりもはや危険ではなかった。シュタルペーネンでコンタ将軍はゴリッテン集落内で激しい戦闘があったと私に伝えた。第41歩兵連隊の第3大隊はビルダーワイツェンから撤退した。またその地域の砲2門に不都合が生じた。すなわち1門が砲弾を費消した。もし私が許可すれば大隊予備の弾薬を与えたいと付け加えた。ロシア兵は撤退しているので弾薬が奪われるということは最早ないと予想された。この問題と軍司令官から撤退命令が出ているため、私はこの選択をとることができなかった。

撤退のための準備がなされ18日の夜までに実行された。ロシアの第20軍団及び第3軍団も自国内の野営地に戻った。私は町の防衛司令ランゲン少佐に市民のこの情報を伝えるように命令した。18日の最終列車までに全ての負傷者を含みシュタルペーネンを去ることが決定された。撤退自体はさほどの困難もなく実施された。ロシア軍の斥候部隊の姿も消えた。夕刻軍団本部へ戻ると机の上に軍参謀次長グリューネルトが残した連絡記録があった。そこにはこう書かれていた。

「軍司令官は閣下がなぜ命令に反して軍団の主力を戦闘にもっていったのか、委細について報告を求めている」…グリューネルト

電話でプリトウィッツ将軍に理由について述べた。まず私に向けられた批判については朝のシュタルペーネンでの戦闘の詳細を知れば意見が変わるだろうと答えた。この時までにロシア2個軍団を国境外に押し戻し、3000人以上を捕虜にしたと。

この電話でまた軍司令部は、私の第1軍団参謀長から戦闘の開始と重砲の使用について知らされていることを知った。その参謀長はまた8月5日私に通知することなく私の鉄道経由での兵站の前進を軍司令部の参謀に知らせていた。

これは軍団参謀長の面従背復の一例である。すなわち私に服従するとみせかけて軍参謀部の命令にも従ったということだ。これは戦時における相互信頼の喪失という点で否定的な結果をもたらしかねない。これ以上問題が悪化するのを避けるため皇帝陛下に革職を要請し、9月1日新参謀長が着任した。

シュタルペーネン戦はニーメン軍(ロシア第1軍;レネンカンプ)が集中を完了したこと及びレネンカンプにロミンテンの森以南を攻撃する意図がなく、もっぱら主力をその北部に展開しようとしていることを示した。

レネンカンプの左翼、第4軍団はウィステニエック経由、スチットケーメン及びフィリッポウに向かっていた。ウィステニエックのロシア軍隊列は西を指しピサ地区に動いていた。朝、その隊列はメルケーメンでシュリム少佐の支隊と出合ったが、わが軍は勇敢に闘い前進を阻止することに成功した。飛行機の偵察によればその隊列は歩兵1個師団と2個騎兵師団に及ぶという。シュリム支隊は損害をほとんど受けず8月18日師団に復帰した。

南に下がるとロシア軍の小規模な部隊がウィザーニーからスチットケーメンに向かいそれより大規模な部隊がミエルンスケンとコバーレンに向かっていた。

ゴルダップにいたメンゲルビエール将軍は第4擲弾兵連隊、第44歩兵連隊、第10騎乗擲弾兵連隊のうちの2個中隊そして第37野砲連隊のうちの1個大隊を率いていたが、国境警備の部隊をコバーレンとグルネンからゴルダップまで下げ、そこで防衛戦を挑もうとした。この決心はプリトウィッツに伝えられた。これにこたえ午後5時25分プリトウィッツは次のように命令した。

「ゴルダップ支隊は敵と交戦してはならない。そして本日中にグンビネンに向かう行動を開始すること。ダルケーメンにいる第17軍団及び第4歩兵旅団と連絡を保つこと。」

日中の移動は発見されやすくメンゲルビエール将軍は夜まで待つことを決めた。その支隊は8月17日まで攻撃をうけることがなく、撤退は夜10時ワルターケーメン経由で行なわれ、妨げられることはなかった。

ー略ー

このようにしてレネンカンプの最初の攻撃は失敗に終わった。この攻撃は第3軍団の全てと第20軍団の一部が使用されたが、コンタ将軍の指揮する第1歩兵師団の頑強な抵抗およびフォーク将軍の巧妙な側面攻撃により阻止された。ロシア軍の損害は自ら記するところによれば重大であり、捕虜はちょうど4000人に達した。

わが軍の損害は名目上の定員から3%にすぎない。傷病者はフォーク支隊により回収された。フォーク将軍は「非常に小さな損害でかつ優秀な秩序を保ち…」と報告した。

プリトウィッツ将軍は私が戦闘停止に消極的だったことを命令不服従ととらえた。あとの出来事は最高司令官(皇帝)がこの件をどのようにとらえたかを示している。すなわち1915年1月、私は西部戦線のシャルルビルに滞在された皇帝に呼ばれた。皇帝は私を家の庭で迎えた。皇帝はグンビネン、タンネンベルグ、マズール湖、及び1914年10月と11月のロシア軍の再度の攻勢を撃退したことを評価する言葉を述べた。10月と11月に私は第8軍の司令官だった。皇帝は西部戦線の状態について説明し、それからにこやかに笑って言った。

「神の加護によりフランソワ、あなたは立派な風采をしている。しかし君は命令には服さねばならない。君の性格は独立不羈にすぎる。」

ついていないことにオーストリア皇太子が我々のほうに向かってきたので、これに返答することができなかった。そして皇帝は私の手を強く握り、さよならの挨拶をした。

もちろん軍隊生活の期間中、私は扱いやすい人物ではないうちの一人だとは認める。だが常に命令には毅然とした注意を払いながら服従してきた積もりだ。私のシュタルペーネンにおける軍司令官命令への消極さは不服従ではなくむしろ重い責任を果たそうとするための必要性にすぎない。

司令官の職にあって戦争で敵と対峙するとき、あらゆる雑念が空中をさまよう。もの事を正しく認識しそして司令官としての直観が正しい結論に導く。そして避けるべき性向からの影響に反し正解とみなされることに辿り着くには強い意志が必要である。失敗を恐れてはならず休みなく脳を働かせることが勝利への道を切り開く。もしプリトウィッツの命令の通り午後1時に戦闘を停止したならば一体何が起きただろうか?

第1師団の両翼は包囲され戦場には負傷者と武器が放置され、精神的に敗北感が残っただろう。勝者は掃討戦を実施しロシア近衛騎兵師団は包囲しながら追跡し、グンビネンに到着した第1師団は鶏がらしか残らないだろう。

ゴリッテンに向かった第2師団の大部、またゴルダップで防衛戦を戦った残余の部隊は後方との連絡が断たれ、各個撃破されることになっただろう。

レネンカンプはおそらく8月17日までにアンゲラップ線に到達し、第17軍団は間に合わない結果となっただろう。

もし私がプリトウィッツの命令に従ったならば第1軍団の戦力は低下しグンビネンで戦うことすらできなかったのは確実である。ところが実際には戦闘序列に従った完全な戦力を維持することに成功し、そして軍団は自らを勝者とみなしまたロシア人に第二撃を与えんと虎視眈々と狙っていたのだ。

盲目の服従心をもって従順となることは簡単である。難しいのは服従心より高い次元にある将帥としての決心である。

8月18日ロシア軍は攻勢発起点に戻った。近衛騎兵軍団は退いた。その日中ウィルーネンで休息しクッセンとキッゲンで野営した。シュタルペーネンとゴルダップはその日の夕刻まで占領されることはなく、守備隊は無事に西方に脱出した。

翌朝、軍団は偵察配置についた。主要道路は難民の車でふさがれていた。このため脇道を通るよう命令せねばならなかった。軍司令部はなんら攻撃の意思を保有していなかった。午後6時40分次のような命令を受け取った。

「第1軍団は次の命令があるまでグンビネンーニーブッセンの線に留まること。守備位置を補強すること。渡河し後方へ退却するための路を確保すること。後備第2旅団がクウプシケンとレンウェーテンの間のインステル川を守備しているが戦力として十分かまた左翼は安全か報告されたい。指揮下に配属されている第1騎兵師団を使用するさいには、有力なる敵軍が第1軍団の左翼を攻撃したときツルキネンの森の後方まで下がる必要があることを考慮されたし。もし第1騎兵師団が第1軍団の前方にいる必要がないとされたならば、後退させ1日の休養をとることを許可する。」

この記述は第一次大戦の戦記のなかでも最も有名なものの一つである。とりわけシュタルペーネン教会の鐘が突然鳴り出したところはユーモラスだ。だがフランソワの独断専行についての言い訳はやや苦しい。

フランソワは8月17日午後1時の撤退命令を問題にしているが、プリトウィッツはそもそもシュタルペーネンでの防衛戦を禁止しアンゲラップ線まで撤退しろと命令していた。実際下僚の独断により戦端が開かれてしまった場合司令官は次に打つ手は限られる。プリトウィッツはフランソワ(どころか他の軍団司令官すべて)の人心掌握に完全に失敗していた。


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