リエージュはドイツ国境から約30kmあり、ドイツのアーヘンからブラッセルに至る鉄道の中継地点であり、同時に南方ナミュールにも鉄道が伸びていた。
町の人口は16万人で金属加工など工業が栄えた。アルベール国王は同じ要塞都市のナミュールと並びムース川に沿った二つの真珠とたとえその繁栄を自慢した。町の南側はアルデンヌ森林が北までのび、通行は難しい。だが北と西には平原が広がり、西に行けばすぐフランス国境に到達できる。

シュリ−フェンプランの実施にとり最初の関門がリエージュであることは火をみるよりあきらかだった。
1876年フランスの工兵中将ブリアルモンは、クリミア戦争におけるセバストポリ要塞の堅固さを引き合いに出し、町の要塞化を勧めた。ブリアルモンは当時もっとも権威のある要塞設計家で、第1次大戦で登場する要塞はドイツ、ロシアのものを除きほとんどブリアルモンの設計によるものである。
ブリアルモンの設計思想は分派保塁式要塞で、町を取り囲み保塁を多数設置し、保塁間は塹壕で歩兵が守備するというもので、かつ1ヶ所が破られても、もし守備する歩兵が十分なら第2・第3の塹壕線を作って守備すればよいというものだった。
リエージュ要塞古地図
この点では塹壕のもつ柔軟性を先取りしたもので、ベルダンでは大きく効力を発揮した。しかし守備兵が十分でなければ、裸の保塁のみとなり、臼砲の照準があえば、無抵抗の棺桶となってしまう。
左が正面で、中央に最大の砲を置いている。
ベルギーのもつ6個師団ではそもそも守備するのに力が欠けていたということになる。リエージュ要塞の保塁12個の平均の間隔は1,9kmで、町の中心からは6.5km離れていた。
保塁は三角形のものと四角形のと両方あり、最大のロンチン砦は三角だった。

ロンチン砦の内部見取り図
保塁の周囲は空掘りに囲まれ、コンクリートの胸壁には機関銃狭間が作られていた。保塁の中央部には隠顕式の砲座が設置された。最大のものは220ミリ臼砲で中央に1基、また150ミリキャノン砲が4基以上取り囲んでいた。
砲座の天井は厚さ28センチの亀の甲羅のような鉄板のキューポラがのっていた。そして砲座がある中央部は天井6.5メートルのコンクリートで覆われていた。当時発明されたポルトランドセメントが使われたと言う。
ルーデンドルフの420ミリ臼砲持ちこみのアイデアがなければ、もうすこし持ちこたえ、フランス陸軍に時間を与えた公算が強い。だがアルベール国王の指示によるアーヘン−リエージュ間の鉄道トンネル爆破は要塞よりも多大の効果をあげたのかもしれない。ドイツ軍右翼はマルヌ会戦まで補給に苦しんだ。
リエージュ要塞に設置された隠顕式の臼砲
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