フィウメ問題

フィウメ問題はイタリーが参戦を決めたロンドン協約に端を発する。この協約は英仏がイタリーの参戦を促がすための条件を設定したもので@南チロルのオーストリアからの割譲Aクーステンランド(フィウメを含む)のオーストリアからの割譲Bダルマシアのアドリア海沿岸の島嶼の割譲からなっていた。

ところが問題は港湾都市のフィウメで、この都市はクーステンランドとクロアチア=スラボニアの境界、ややクロアチア=スラボニア州内にあった。パリ講和会議でイタリー首相オルランドは古証文のうちダルマシア沿岸の島嶼をあきらめ、フィウメに固執する領土要求で臨んだ。ところがアメリカ大統領ウィルソンはサーブ・クロート・スロビーン(SCS:ユーゴスラビアの前身)に味方しあくまでオルランドの要求を拒んだ。

がオーストリア=ハンガリーのクーステンラント州(首都トリエステ)。点線は現在のイタリー・スロベニア・クロアチアの国境。1919年から1947年までイタリーはクーステンラント全域を統治下に置いた。その後ゴリツィア・モンファルコーネ・トリエステ・ムッジャの4都市を除くクーステンラントはユーゴスラビアに割譲された。ウィルソンはSCSの海の出口だとしてフィウメ切り離しを主張した。しかしSCSはダルマシア沿岸に多くの港湾都市をもっていた。ウィルソンの論拠は無いようにみえるが、ユーゴスラビアからスロベニアとクロアチアが分離すると、クーステンラントはスロベニアにとり貴重な海への出口を提供することになった。

フィウメの人口の6割はイタリー人だった。ところが後背地の農村は逆に8割がクロアチア人だった。これは地中海やバルト海でよく見られる、都市・農村の民族乖離の古典的ケースである。つまりSCSから見ればクーステンランドのクロアチア人がイタリー統治に服するのだから、フィウメのイタリー人がSCS統治に入っても当然だと考えた。

ただ第一次大戦でイタリーはクーステンラントをめぐるイソンゾ戦線で50万人に及ぶ戦死者を出した。戦争直後の講和会議で血の犠牲を簡単に忘れろと言われても無理がある。つまり、犠牲と領土の間に関係がないことを理解するには時間がかかる。

ベルサイユ条約調印後8月に入り、フィウメを占領していたイタリー軍とフランス軍の間で衝突が発生した。パリ講和会議後も継続した連合国軍事委員会はイタリー軍の市街からの退去を命令し、交代で米英軍が入った。

しかし1919年9月10日ダヌンツィオに導かれた4000人余りの武装した黒シャツ隊が市内に乱入した。この部隊の中心は第1次大戦末期イタリー陸軍が編成した浸透戦術実行のための突撃隊だった。彼らはベニスから進軍したが、沿道では市民の歓呼で送られたという。英米仏軍との衝突は避けられたが、イタリーの新首相ニッティはこの行動を苦々しく眺めダヌンツィオを「愚か者」と呼んだ。

この事件は当時、国家主義者でなく左翼、無政府主義者・共産主義者に歓迎された。ダヌンツィオのスローガンは「全ての抑圧された人々の解放」であり、ロシア十月革命支持というものだった。ダヌンツィオはアイルランド独立主義者シンフェーン党党首オーケリー、エジプト国家主義者、ボルシェビキ政府と連絡をとった。レーニンはダヌンツィオをイタリー唯一の偉大な革命家と呼んだ。

ダヌンツィオGabriele D'Annunzio (1863-1938)

イタリーの詩人。ペスカラで生まれた。1880年ローマに行き何冊かの愛国詩集を発刊した。1897年、代議士となるが1910年破産、パリに逃れた。第1次大戦勃発とともにイタリーに帰りイリデンティズムから、連合国にたっての参戦を運動した。そして参戦が決まると陸軍に志願、最前線で戦い片目を失った。それでも海軍、その後空軍と戦い続けた。1918年10月単機をかってウィーン上空まで飛行し休戦を促がすビラを散布した。

フィウメで騒動を起こしたあとはダルガ湖のそばの山荘にこもり、麻薬と酒の引退生活をおくった。

ダヌンツィオと付き従う無政府主義者(ダヌンツィオの取り巻きのなかで最多を占めた)は憲法を発布した。その中味は「国家の最高原理は音楽だ」というものだった。そして、裕福なイタリー財界はフィウメに多額の寄付をよせた。イタリーはおろかヨーロッパ各地から芸術家・難民・ボヘミアン・冒険家・無政府主義者・ファシストが、ただのパンとただの宿を求めて群れをなして来た。

ダヌンツィオの軍隊はそれまでの制服、黒シャツに髑髏のマークを縫いつけ加えたものだった。このデザインは後になりドイツのSSにより盗まれることになる。カッターだけの海軍は中世の海賊を意味するウスコッティと呼ばれた。連日連夜コンサート・パーティが開かれ、最後に花火が打ち上げられた。そして朝、ダヌンツィオは市庁舎のバルコニーに現れ、その日の即興の詩を読み上げた。この治世が18ヶ月続いたわけだが、ダヌンツィオにとり金が尽きかけたときむしろ好運な事態が訪れた。

1921年1月イタリー海軍の巡洋艦アンドレアドリアがフィウメに向かい艦砲射撃を開始した。

ダヌンツィオはイタリー軍と戦う意志はないと表明し直ちに降伏を宣言した。

1921年2月2日イタリーとSCSの合意にもとづいて、フィウメは独立自治都市としてスタートした。4月約束された自由選挙が実施され独立党が勝利した。しかしこの独立は長く続かなかった。1922年11月ムッソリーニはイタリー軍を進駐させ事実上占領下においた。

1924年3月ムッソリーニはフィウメの併合を宣言した。


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