ドレッドノートと薩摩

ドレッドノートの性能諸元を知り各国海軍はいずれも戦艦の建造計画を中止し、いっせいに新たなド級戦艦の建造計画に乗り出した。ところが日本だけが例外だった。

理由の一つが薩摩の建造が着工済みだったことである。薩摩は横須賀海軍工廠で1905年5月着工され1911年3月に完成した。完成までに約6年がかりで異例とも思えるほど長い。ドレッドノートは1905年10月から1906年12月とわずか1年あまりである。

性能諸元

ドレッドノート

薩摩
基準排水量トン 17900トン 18425トン
速度 21ノット 18.125ノット(計画)
19.372(公試)
機関 バルソン社蒸気タービン
24700馬力
川崎造船所製の「両面宮原罐」で、直立三段膨脹四筒機械、重
油混焼、強制通風、2基2軸。
17500馬力(設計)
主砲 12インチ10門 12インチ4門・10インチ12門

比較の通りで薩摩は巨艦にもかかわらず、砲力・速度ともに劣り単艦では勝負にならない。薩摩が最後のプリドレッドノート艦と言われる所以でもあった。

薩摩は国産1号戦艦だが不幸な結果となった。更に不思議なのが主砲配置である。

わかるように10インチ砲を左右に並べた結果、半分しか斉射できない。また6インチ中口径砲を捨て10インチ砲を代わりに置いた。これを混合砲配置といい、ドレッドノートの「AllBigGun」構想と対立するコンセプトである。

おそらく、日清戦争や日露戦争において中口径砲重視で勝ったことを急に忘れることができなかったのだろう。ただ、日清戦争と日露戦争では大きな違いがある。すなわち日清戦争では大口径砲は無力だった。すなわち当時の大口径砲は射程が短く発射速度も遅かった。ところが、日露戦争になると、大口径砲は大いに活躍した。

すなわち、大口径砲だけの配置を可能にする技術革新が、ソフトである砲術、それを支える測距儀・ドレイヤーテーブル、発射速度を向上させる揚弾機・ランバーなどに起きた。技術革新を総合すれば結論は明らかだ。大口径砲だけを配置して(AllBigGun)中口径砲は水雷艇対策とした方がよい。

この時期で英雄の時代が終わり、小役人の合議が幅をきかす時代になったことが、何か反映されているのだろう。つまり、折衷主義・総花主義である。また戦艦の歴史では混合砲配置は、この限りのもので、以降はドレッドノートタイプのAllBigGunとなった。

ドレッドノートは次の主砲配置である。

これでも主砲はすべて中心線に位置していないが、薩摩よりはよい。薩摩の失敗は強力エンジンを搭載できなかったこと、及び主砲配置を誤ったことである。ただ初めての国産戦艦でこれ程思い切った大型化を実施したのは、大胆である。

ところが、こういった技術上の問題はともかく、官僚的失敗により後世まで悪影響を及ぼした。すなわち、薩摩とほぼ同型艦を4隻建造したことである。これは致命的失敗で、ドイツ東洋艦隊との対決で速度で劣後するため有効な手が打てなくなってしまった。エムデン取り逃がしもこれによる。また、複雑な問題だが日露戦争により膨大な鹵獲艦を得た。総トン数にすれば23万トンを越え戦艦に置き換えれば、10隻を越える。これは破格の出来事だった。

ところが、これは日本の船台が余ることを意味する。これらプリドレッドノートをいつまでも作り続けたのは鹵獲艦と予算削減のためである。本来であれば売却すべきだった。ただし一部の鹵獲艦は第1次大戦中ロシアに売却している。

帝国陸海軍は体質として武器の性能諸元を隠し、また輸出を禁止する傾向があった。これは現在も引き継がれているが果たして正しい政策だろうか。武器が戦争を引き起こすのではなくて人間が起こすのだが。輸出禁止により性能諸元を外国が知ることができず却って疑心暗鬼を招く。また場合により実戦で使われることにより実際の耐久テストが可能となる。

第1次大戦直前では旧式戦艦18隻、巡洋艦30数隻で全てドイツ東洋艦隊に対抗できない状態に陥っていた。そして超最新鋭の巡洋戦艦、金剛・比叡、それだけが虎の子という体たらくとなった。このためイギリスの金剛、比叡の譲渡要請にも応えられずまた戦後のワシントン会議では、基数としての戦艦が少ないという交渉上のハンディキャプを背負わされた。

また日本海軍の隠された汚点として事故の多発がある。三笠(1905)松島(1908)筑波(1917)河内(1918)と全て大型艦が港湾停泊中、火薬庫の爆発により多数の犠牲者とともに沈没した。これら事故の合計死者は1500名を越え、これはシベリア出兵の戦死者の三分の一でかつ日露戦争の海軍戦死者に匹敵する。艦長以下の責任は追求されたが事故原因は今もってはっきりしない。他国でもこれは類例をみない。1919年から1945年までは陸奥の事故だけ(天候によるものを除く)であり、日露戦争から第1次大戦終了の間なぜ事故が多発したのだろうか。

いずれも乗員の飲酒中の事故説が強いが、果たしてどうだろうか。




代表編集人平沢富蔵 『図説 日本蒸汽工業発達史 』1937

ドレッドノートに戻る