外交官その後


ヨーロッパ5大国は、それぞれ戦争に入った。19世紀のヨーロッパ外交は戦時でも外交官特権を認め、交戦相手国の外交官を抑留したりせず、辞去の挨拶を行った上で中立国に退去することが相互に認められた。

昭和の軍人は「国の存亡に関わる戦争を開始するときに国際法を気にしてどうするか。国際法が残っても国が滅びたら意味がないではないか」と言った。これはとてつもない誤りだ。戦争で敗北し政府は倒れても大国が滅び去ることはない。そして国際法に反した責任は残った国家につきまとう。そしてこの誤りは昭和の軍人だけではない。

第1次大戦が開始された直後の外交官同士の会話記録が残っている。

イギリスの駐ベルリン大使ゴッシェンは、8月4日ドイツ外相ヤゴウに宣戦布告に伴い辞去する許可を求めた。ヤゴウは弁解する調子で告げた。
「我々は最も早く短いルートで、フランスに進行せねばならない。速度こそがドイツの切り札だ。さもなければロシアの巨大な軍事能力がものを言ってしまう。」

その晩、ゴッシェンは首相ベートマンを訪問した。ベートマンは平和維持に向けたすべての外交が失敗したことがあきらめきれない様子だった。ベートマンはめったにないことだが気が動転し怒った調子で語りかけた。
「これは(イギリスの宣戦布告をさす)まるで生死をかけて二人の巨人を相手に戦おうとしているものの背後を攻撃するのと同じではないか。」

ゴッシェンは反論した。
「我々は名誉をかけて生死をかけた戦いに乗り出そうとしているのです。ベルギーの中立は名誉をかけても守らねばなりません。」

ベートマンは反論した。
「だがその代償は。中立、言葉だけではないか。そんな言葉は戦時にはいくらでも無視される。ただの紙切れ1枚だ。イギリスは友情以外なにも求めていない血のつながった国と戦争をすることになる。私の全ての外交政策は紙の家のように崩れ去ってしまった。」

この戦争のきっかけを作ったベルヒトルトは、戦争という現実が信じられなかった。7月31日ロシアの総動員で、独露関係は全て終了したと思われた瞬間ベルヒトルトはロシアとの接触を開始した。それは1週間前イギリス外相のグレイが熱心に勧めたことだった。

ベルヒトルトはロシア駐ウィーン大使に、「実際のところ我々の間に誤解以外なにも対立するものはありません。」と語り、あわせて戦争をそそのかすドイツに好意的な発言はできないと示唆した。そしてウィルヘルム二世に不満げな調子を付け加えフランス大使にも同じことを言った。

ティルピッツは日記に書いた。
「オーストリアにロシアにたいし共に戦うことを要求するのを忘れていた。恐ろしいことに、小モルトケはもしオーストリアがロシアを相手にしないのなら、いかなる代償を払っても講和を依頼するしかない、と言う。」

電報が雨のようにベルリンからウィーンに降り注いだ。オーストリアのロシアにたいする宣戦布告文は非常に複雑な修辞だが暗に戦争がベルリンから強要されたものだという弁解が含まれている。

だがベルヒトルトはイギリスとフランスには更に躊躇した。ベルヒトルトは引き続きイギリスとフランスの外交官と友好的な会話を求めた。困ったのはフランスの外交官だった。フランス駐ウィーン大使デュメーヌは「オーストリアはアルザスに軍人を派遣したりはしないでしょうね。」と尋ねた。ベルヒトルトは体を震わせて否定した。

しかしデュメーヌもいつまでも待つことができず、オーストリア軍が西部戦線に向かったことを確認したと言い、ウィーンを退去した。ベルヒトルトは落胆したという。

一方ロンドンではオーストリア大使メンドルフが止まっていた。メンドルフはグレイに「我々の間だけでも交戦を避ける方法はないでしょうか。」「二つの陣営に分かれているとしても、オーストリアとイギリスが接触を維持することは望ましいと考えるのですが。」と愁波を送った。

ドイツはオーストリアに「我が地中海艦隊はイギリス艦隊に対抗するうえで、オーストリア艦隊の助力を必要としている。8月12日までにイギリスに宣戦することを要求する。」と最後通牒を送った。ベルヒトルトはこの非文明的プロイセン風のやり方に怒りをたぎらせたが、事情をイギリスに伝えざるをえなかった。

イギリスはオーストリアの苦境を理解し8月13日メンドルフを送還することに決めた。同じ日イギリス駐ウィーン大使、バンセンは声をつまらせてベルヒトルトに辞去の挨拶を述べた。
「我々は、いかなる形でも対立の要因を見つけることができません。どうぞ陛下にこの8ヶ月間に受けとった友情と好意に深い感謝の念を抱いていることをお伝えください。わが国王は陛下に深い尊敬の気持ちがあり、イギリスとオーストリアの交戦状態が一刻も早く終了することを望んでいます。」

ベルヒトルトは答えた。
「我々がイギリスと交戦状態にあると考えただけで深い苦悩につつまれます。両国は政治的にも文化的にも近く共通の利害と伝統的な信頼関係が存在します。我々も国王陛下と共通の気持ちでこの残念な交戦状態を早く終了させ通常の関係が回復することを望みます。」

双方とも大戦末期に連合国の戦争目的がオーストリア=ハンガリー二重帝国の撲滅になったことは想像すらできなかったに違いない。

だがこの交歓の背後で、小モルトケがベートマンに外交分析の覚書を送っていた。
「ポーランドで我が軍はポーランド人に熱狂的に歓迎されている。アメリカでの世論は我々に好意的だ。アメリカの大衆は我々が受けた恥ずべきやり方に怒っている。インドとエジプトとコーカサスで反乱を組織することは極めて重要だ。トルコと成立した条約によって外務省はイスラム教徒過激派を扇動できる地位にある。」

軍人は戦争の勝敗が最も重要で、文化も伝統的な信頼関係も念頭にはないようだ。

ベートマンはその後、ベルギーの中立侵犯を擁護して「我々は必要な状態にあった。必要性は法を知ることはない。我々が仮に違法行為を犯しても軍事的勝利が達成されればそれを正すことができる。我々ほど軍事的に厳しい状態に置かれている国はなくまた、高い次元の理想を持っている国もない。…」

ベートマンのメンタリティは昭和の軍人と同一だとわかる。だが軍隊が国民の集合であるとき、その死傷者を最低とするための作戦はすべての法律・条約・信頼関係・文化に優先すると言われたら現在でも反論は難しい。あるいは人道主義そのものに問題があるのかもしれない。


このページTOPに戻る
外交に戻る

にもどる

石井菊次郎の訪米