東プロイセンの防衛網


ドイツはシュリーフェンプランに引きずられ第一次大戦に入った。この計画によればフランスを49日で打倒し後に全軍をあげてロシアとの戦線に向かう計画だった。この計画についてドイツ人の緻密な計画性をいまだに誉める人々は多い。ところがフランス野戦軍を攻略する計画はシュリーフェンプランに含まれていたが、ロシアとの戦いの方法について触れられていなかった。

これは不思議なことだ。なぜならば、ドイツ人はベルギー中立侵犯によりイギリスの参戦を予想していた。するとフランスを打倒したあと英露連合と戦うことになる。ところがナポレオンとヒトラー双方がこの連合に敗北している。東部での戦いがフランスとの短期戦より難しく長期の戦争となることは簡単に想定できる。ただ時空間が大きいゆえに計画をたてないことはむしろドイツ合理性の表れだろうか。

そしてシュリーフェンプランの影の部分、東プロイセンの防衛網はどのようなものだったのだろうか。これについておそらくシュリーフェンプランに批判的だったと考えられるフランソワが戦後メモに留めている。これはその抜粋である。

東プロイセンの防衛網建設はあまり実際的でないと考えられていた。日露戦争以前は政治的なことも加わりロシアの脅威といってもまだ幻影にすぎなかった。そして防衛網の建設はあまり現実的でないいわゆる大計画のみに焦点があたった。例えば、河川を利用しながら国境線の内側に防衛線を想定し見張り塔やトーチカを建設するもの、ケーニヒスベルグ要塞を近代化するなどの計画である。

当時、計画の中心にいたのはゴルツ(Freiherr von der Goltz)で要塞兵と工兵の閲兵長官だった。陸軍省の厳しい予算管理のなかで多くのことを達成したと言ってよかろう。ただ日露戦争がロシアの敗北で終わると大計画は放棄された。つまり東プロイセンはその天然の防衛線のまま放置されたといって過言でない。この天然の防衛線とはアンゲラップ線とダイム川アレ川に沿った線である。


アンゲラップ川を警戒するドイツ歩哨

マズール湖沼群によってアンゲラップ線は理想的な防衛線を構成し、それに人工の防衛施設を加えれば効果的な防御が可能になると思わせた。しかし平時における防衛施設構築は困難が伴う。マズール湖沼群の中心に位置するレッツェン要塞ですら、役に立たぬまま放置された。一方ダイム・アレ防衛線も十分ではなかった。ダイム川は単にケーニヒスベルグの掘割としか理解されなかった。もし確固たる信念をもつ攻撃者が現れたならばダイム川とケーニヒスベルグ市街両方を同時に攻撃し攻略することができただろう。市街をとりまく保塁の建設は進まず、大層旧式化しておりどの観察者も二級の要塞としかみなさなかった。

このようにドイツといえども、平時に防衛網を建設することは容易でなかった。予算面の制約に加え住民による抵抗が加わる。つまり発生していない戦争のため田畑を横切る塹壕線や鉄条網を作ることはやさしくない。自然保護や文化財保護が現在になり発生したと考えるのは誤りである。東プロイセンのようにドイツ人にとり伝統的な土地では人工による防衛施設の設置は当時から反対が強かった。

東プロイセン

それではフランソワは攻撃してくるロシア軍とロシア兵をどのように見ていたのだろうか?

ロシア軍は日露戦争のあと大変革を遂げた。敗戦という結果は、余計な埃をはらう効果があった。経済発展と英仏による借款はより多くの金銭を軍事目的に支出することを可能にさせた。この結果軍隊の装備の大半は西ヨーロッパ諸国に比肩するものとなった。そして装備支出は主に陸軍の重砲と攻城砲に向けられた。

日露戦争後ロシア参謀本部は計画に従って陸軍編制を完全に改めた。そして徴兵制度、上位編制への移行方法、動員方法、要塞兵の組織変更、予備役将校の再教育、各種操典の書き換えが実施された。これはフランスの支持があって出来たことだが、戦術や訓練における完全な変更を意味した。

だがロシア軍の改善はその国民性により制約された。国民性は金銭や組織的な教練などで改善できるものではない。ロシア人の性格的欠陥には次のようなものがある。あらゆる種類の組織的な仕事への嫌悪、安易に走りやすい性向、義務感の欠如、責任感の欠落、イニシアチブの欠落、想像力の欠如と時間の観念の喪失、である。

ロシア人の肉体は良好である。ロシア兵は質素であり勇敢だ。だが精神が緩慢で他人に依存しがちである。ロシア兵は知りもしない将校のもとで働き、慣れてもいない単位に所属する。ロシア人は外界に対しあまり反応しない。それゆえロシア軍は敗軍から回復するのが早く防衛戦に向いている。

ロシアの将校団をみればこの国民性から来る欠陥はより一層明らかである。ロシア人は興奮することなく冷静である。一方個人的才覚は全くない。そしてしばしば義務と責任の感覚が欠如している。個人的安楽に走り肉体と精神双方とも動きが緩慢である。他人に隷属し奇襲をうけると狼狽しがちである。参謀将校は科学的発達に敏感だが実際に軍隊を動かす能力向上には努力しない。輜重部隊の長は軽視され、多くの腐敗が発生している。

ウィルナとワルシャワ地区にいるロシア軍将校はドイツ軍の編制、国境地帯の地理、軍事施設の情況について熟知している。ロシア人がドイツ語を解する割合はドイツ人がロシア語を解するものより高い。とりわけバルト出身のロシア軍将校は全く訛りのないドイツ語を喋る。

ロシア軍の演習や作戦から研究された戦術の特徴は次の通りである。

  • ロシアの各単位の移動は緩慢である。ロシア軍の司令官から作戦の効率的実施と戦果の拡大は期待できない。それは軍隊が命令されたとき素早い実行ができないのと同じことである。命令の発進、連絡、実行いずれの段階でもこれは発生する。
  • より大きな単位では防御から攻勢に移転することが十分な速さでできない。移動を開始したあとの方向転換も同様である。それゆえドイツの司令官はロシア軍と対峙しても動作の自由を享受でき、それは数で劣勢であってもできることを留意すべきだ。
  • 論理的理解力の遅れ、情報や命令を漫然と待つ姿勢、定められたスケジュールに惰性的に従うことが戦場でのリーダーシップを支配する。これのためロシア人は遭遇戦を察知するのに遅れ、素早いそして精力的な敵に会うと簡単に防御に追い込まれる。
  • ロシア人もこの欠陥を知っており、持久戦を強調するのが常である。ロシア人は一般に築城術に才を発揮する。
  • ロシア軍は並行した道を何列かの縦隊で行進することを嫌う。その野戦操典では一つの道に1個師団以上が行進してはならないとされている。もちろんロシアの悪路ではこれ以上のことは困難であるかもしれない。ただロシア人は悪路に慣れていることは留意されるべきだろう。ロシア製の車両は全てこの悪路に適合している。
  • ロシア野戦操典によるとロシア軍の行軍速度は良い道では我々と同じである。しかしながらロシア最良の道といえども非常に貧しい状態にある。ロシア人が我々より歩き方が上手だとは思えず行軍速度は我々を下回るとすべきだ。そしてロシア兵士は我々よりも訓練は劣っている。
  • 戦闘においてロシア人は逆包囲を好む。しかし自らが逆包囲されたとき、打つ手はない。私はこれをシュタルペーネンで確かめた。
  • ロシア歩兵の訓練はサーカスの動物の調教と一緒である。個人訓練とりわけ射撃訓練において、内容の理解や威力把握はなされない。このため予備役に編入されると反復練習によって培われたにすぎないその能力はすぐに失われてしまう。
  • 実戦模擬演習に力が入っている。全ての兵科で年間4ヶ月以上の演習地野営が勧められている。しかしながら、ロシア歩兵は現役期間が短くまた将校の無能のため実力が向上しているとは思えない。

よくぞここまで悪口が言えるかという内容である。またフランソワはこれを1914年以前のことと前置きしているがタンネンベルグの経験が先入観となっていることは否定できない。

そしてフランソワはロシア軍の装備・編制についても言及している。

ロシア軍のもつ武器は優秀である。歩兵銃は7.68ミリの三線施条で我々のものと変わりはない。

野砲は7.62センチ、重砲は12.19センチの口径である。両方とも駐退機と近代的な照準機がついている。射撃操典はフランス軍のもので一部の戦術教範は我々のものと似ている。

ただ重砲は完全に近代化されているとは言えない。旧式の要塞砲10.5センチと15センチのものが未だに使用されている。近代的なシュナイダー15センチ重砲と10.6センチ重砲は導入過程にある。

ロシアの軍団(2個師団)編制は以下の点で我々と異なっている。

ドイツ軍団:24個歩兵大隊、24個中隊144門の野砲隊(8個大隊)、4個中隊16門の重砲隊
ロシア軍団:32個歩兵大隊、12個中隊96門の野砲隊(6個大隊)、2個中隊8門の重砲隊

この他にロシア軍団は8個機関銃大隊で56丁の重機関銃をもつ。

…(注)ここで説明される編制は概ねロシア軍の大戦前期、ドイツ軍の大戦後期を表現しており正確ではない。つまり牽強付会である。

実際のところドイツ参謀本部はロシア軍の編制や装備について十分研究していたとは言いがたく、一般的なドイツ人がもつロシア人に対する謂われのない優越感に浸っていた。フランソワやおそらくドイツ参謀本部がロシア軍について持っていた印象は日露戦争における観戦武官によってもたらされたものであり、この時点で旧弊なものとなっていた。

ロシア軍がフランス軍と共同軍事計画を練っていた事実は殆ど考慮されていない。またタンネンベルグ戦でドイツ軍は勝利したが緒戦で中央同盟のレベルで東部戦線で主力の役割を果たしたオーストリア軍はガリシアで大敗した。東部戦線では差引きで1917年では中央同盟が敗北した事実がある。これらを総合すれば、ロシア軍に不当な優越感をもつことは誤りである。ただドイツ人がこれが安易であると完全に認識したのは1942年のスターリングラード戦だった。

そしてフランソワはドイツ参謀本部がロシア軍の集中の時間と兵力を完全に見誤っていたと批判している。

ドイツ参謀本部はロシア軍の動員集中について僅かな情報しか得ていなかった。

第一にウィルナ軍管区とワルシャワ軍管区のロシア軍は攻勢には出ず、防御姿勢で臨むと予想した。そしてドイツの総動員を妨害するため威力偵察に出る程度だとみなした。

これの理由はロシア軍は主攻をキエフ軍管区からガリシアにいるオーストリア軍に設定するとみなしたためである。そしてルーマニア警戒のためオデッサにも集中せねばならないと考えた。

そしてバイカル以東の軍は基本的に移動させることができないとみなし、巨大なシベリア軍団がヨーロッパの戦いに現れるなど想像できなかった。更にタシケントや中央アジアの軍も現地警戒のため動かさず、コーカサスの軍はトルコの警戒にあたるとみなしていたのだ。

フランソワの指摘によればドイツ参謀本部は日本がすぐさま参戦することは予想できずアジア所在ロシア軍のヨーロッパへの移送は不可能だと考えていたようだ。帝政ロシアは日露戦争後、オムスク以東の常備兵力を漸減させており、この時8.5個軍団しかなかった。これでも東プロイセン守備のドイツ第8軍の1.5倍であり大兵力には違いなく、これを無視して兵力見積もりを行なえばロシア軍が東プロイセンで攻勢に出られないと予測することはあながち無理ともいえない。

ドイツのロシア軍過小評価は普墺戦争や普仏戦争でロシアが不介入の方針をとったことから来ている。一九世紀半ばはロシア軍にとり最悪の時期だった。ロシアはその地理的制約から兵員の移送を艦船に頼ることができず、中世的な兵站「馬」に依存した。ただ鉄道の敷設によりこの弱点は急速に改善されていた。


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