南京城外の死者

極東軍事裁判で南京虐殺事件の最大の証拠とされたのが、南京城内外(ほとんど外)に放置されていた遺体の埋葬作業にあたった、紅卍会(宗教団体)と崇善堂(慈善団体と葬儀社と両説ある。この時は日本軍より要請をうけ半ば営利事業としておこなった。)の作業報告である。

これによると1937年12月から1938年3月までに両者で15万5996体を埋葬した。マボロシ派はこの数字は水増しだとか、崇善堂は実体がないと批判するが、日本軍の依頼にもとづき(当然日本の税金を使用したと思われる)実施したものであり、事実としてあったことから議論を進めるべきだろう。官房機密費ではないから税金の使途について抜き打ちでの検査程度は日本の役人は確実に実施するだろう。
(通常戦場掃除は捕虜が実行する。軍が民間人に委嘱したことは、捕虜が存在しなかったことを暗示している。)

そして軍当局は遺体の埋葬情況を当時新聞にリークしていた。この事実により当時日本側が遺体数を隠滅する意図がないことがわかる。これは大勝利のあとを再度確認させたかったのだろう。そして、これは南京行政区のなかだけであり、周辺や南京沿いを除く揚子江は含まれていない。更に遺体埋葬を行ったのはこの二つの組織だけではなく、紅十字会(赤十字)など複数の機関も別途実施した。

従って南京周辺だけで約20万以上の遺体があったことは確実である。ただ月別の偏りがありむしろ日本側が戦功を誇るため水増ししたことも考えられる。それを認めても5万体をマイナスする程度だ。この数字だけでも圧倒されるが、話はそう単純でもない。まず両者の報告によると遺体は95%が成人と推定しうる男性である。大虐殺派はこれの理由を資金元の日本軍にコビを売ったためとし、実際は女・子供がいたと言う。しかし役所仕事というものはそうコビを単純に売れば契約がとれるというものではない。すなわち、これら遺体は兵士または兵士と誤認されたものと想定することが妥当である。

そして、死者が発生したのは1937年11月中旬から12月中旬までの1ヶ月にほぼ限られる。この間、日本側の戦死者は2000人以下でありキルレシオとして正常の数字ではない。南京に突入した日本軍は5個師団15万人以下だ。塹壕戦や不定期遭遇戦(第1次大戦でワーストの塹壕戦の記録はナロッチ湖の戦いで攻勢に出たロシア軍は守備するドイツ軍の5倍の損害をこうむった。)によるキルレシオは普通3倍に収まる。すなわち南京防衛軍は城外でも戦い数線の塹壕を構えたとされるが、実効的な戦闘にならなかったと思われる。同様に城内でもキルレシオが違いすぎ、市街戦はなかったとみるべきだ。日本軍が城内でみた遺体多数は同士討ちによるかまたは現在地離脱によって即時処断されたものだろう。

遺棄死体の多くは上海攻囲軍の敗残兵である

国府軍の南京防衛軍は10万人に満たない。一方上海攻囲軍の主力は南京へ撤退を目論んだ。日本軍はそのうち遅れて到着した兵士を南京城外で殲滅した。その結果20万以上の遺体が遺棄される結果となった。

また原因別に類推すれば、この大量の遺棄された遺体の原因は次のどれかである。

  • 南京に遅れて到着した上海攻囲軍を捕捉戦死させた。
  • 南京防衛軍が城外に脱出するところを戦死させた。
  • 上海攻囲軍または南京防衛軍に属する、降伏した中国軍兵士を処刑した。
  • 城内外で便衣兵を摘出し処刑した。
  • 城内外で同士討ちや現在地離脱者の射殺体が残存していた。


要するに、この約20万の遺体のうちどの位が捕虜虐殺にあたるかが問題である。ただ近代戦のあり様を誤解してはならない。すなわち近代戦において白兵戦は存在しない。兵士が死体や捕虜でない敵兵をみることはまずない。兵士の戦死とはいきなり遠方から飛んできた弾丸が炸裂したり、弾幕射撃の面に身をさらしたりして事情がわからないままに死亡することだ。つまり攻撃する現場の兵士も戦死させたか捕虜殺害か確認できない。とりわけ個人投降捕虜の確認は困難だ。

近代戦では戦場に存在する全ての人間・家屋などの遮蔽物・動くものが攻撃の対象となる。兵士いわんや前線部隊の参謀将校に目標が民間人または制服を着た兵士かをその都度確認しろなどと要求する軍隊は存在しない。つまり都市を除く戦場に民間人を入れないのは互いの交戦国の義務であり、戦場にいた民間人死亡の責任は攻撃側にない。沖縄戦の米軍に民間人死亡の責任を問えないのもそれである。

つまり近代戦で前面の敵または敵性と考えられる人間、物を攻撃し殲滅するかの判断は前線部隊の参謀将校にある。そして最前線の兵士から、捕虜から、航空写真からなどさまざまな情報原をもち現場の中枢機能を果たし、多くは事前に攻撃対象を設定する。

第6師団長谷寿夫の軍状報告

ただこの近代戦の情況は最前線にのみ関連することで、軍隊全体における前線兵士のパーセンテージは高くない。むしろ多いのは前線部隊を追いかける直協部隊・補充部隊・特殊兵科・輜重兵である。上海決戦の戦記の大半は実はこれら後続部隊に属した人々によって書かれている。前線部隊の兵士は命令されて射撃(通常弾幕射撃で目標の確認など行わない)し命令されて前進するだけで戦果の確認すらしない。つまり書くことはあまりない。むしろ後続の兵士に落伍兵・敗残兵などを実見し射殺・斬殺する経験が生じ、異常な体験に驚愕することになる。これらの戦記で捕虜や民間人を殺害したか否かを判断することはできない。

つまり前線部隊の参謀将校が集団投降捕虜の殲滅などを命令したのだ。そして参謀将校の大半は捕虜虐殺の事実を否認するか沈黙している。このため事実確認のためには完全には残存しない各級司令官の日記や戦闘詳報などに頼るしかない。

この場合数千あるいは数万の単位で処分あるいは処断と記載しているケースがあり驚くだろう。ところが近代戦においてこれは簡単なことである。1万人を機関銃で殺害するには10丁の軽機関銃で弾丸が十分に補充され銃身過熱を防止できれば1時間以上かかることはない。つまり1個歩兵中隊200名程度の兵力があれば無抵抗の人間1万人を30分もあれば全員射殺できる。1個連隊で12個歩兵中隊を保有しているから、無抵抗の1万人を殺害したところで1個連隊からみれば局所の出来事にすぎない。近代戦を担うことができる装備をもった正規軍に武器をもたない民間人などが抵抗することは火力のうえで不可能であり、その圧倒的に差がある力関係を理解する必要がある。

第16師団の佐々木到一支隊長は12月13日の日記にこう記した。

「この日、わが支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は1万数千に上りその外、装甲車が江上に撃滅したものならびに各部隊の俘虜を合算すれば、我が支隊のみにて2万以上の敵は解決されている筈である。…略… 午後2時ごろ、概して掃蕩を終わって背後を安全にし、部隊を纏めつつ前進、和平門にいたる。その後俘虜続々投降し来たり数千に達す、激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ、片はしより殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛酸を顧みれば兵隊ならずとも『皆やってしまえ』と言いたくなる。白米はもはや一粒もなし、城内には有るだろうが、俘虜に食わせるものの持ち合わせなんか我が軍には無い筈だった。」
…佐々木到一少将私記「南京戦史資料集」南京戦史編集委員会編、偕行社、1989年


この記事は「大虐殺派」が必ず引用するもので典型的な虐殺を裏付ける証言とされている。もちろん記事自体当時のままではない。新仮名遣いを用いるはずがなく後世のものとみられる文脈が混じっているからだ。南京関係の史料は最早多かれ少なかれこのような形である。ただ以前のことを振り返り佐々木がなんらかの感慨をもったことは疑いない。これを要約すれば次の点が浮かび上がる。

  • 部隊の「解決数」を誇っている
  • 殺害した対象を「俘虜」と認識している
  • 兵士が上官の命令に従わず殺戮を実行した
  • 食糧の補給が続かず、捕虜の給養が可能でなかった。


そしてこの感慨は司令官や参謀将校のうち捕虜殺害を認める数少ない人々に共通する声でもある。前の二つからは「捕虜であることを承知のうえ殺害し、当時はむしろそれが武功だった」が導かれる。これからみても捕虜殺害を全否定することは難しいのではなかろうか。

問題はあとの二つである。「上官の命令に従わず」は自己も含み、他の将校の免責を計る言辞である。こういった個々の事件が旅団長少将閣下に報告が届くものだろうか。また前の二つでむしろ行為を賞賛しているのだから、それを上官が制止することは道理にあわない。そして最後の食糧の補給問題についてである。

疑いなくこの戦いで日本軍に餓死者は出ていない。また佐々木支隊のように常に最前線を走った部隊に輜重部隊が追いつかなかったことも確実である。この時兵士の携行食糧は二日分だった。当然食事を削るしか方法がない。支隊長としてこれには頭を痛めただろう。(この事実と徴発を大虐殺派は結びつけるが関係がない。佐々木支隊の尖兵部隊には炊事班が随伴されておらず、2・3日で尖兵部隊が入れ替わり、旧尖兵部隊は停止し炊事班を待つのが普通だった。)

ただ、この時の兵士の記録には徴発米(長粒種)と米(短粒種)が区別されており徴発米を食べたとする記事は少数である。これは兵站が尖兵の行軍スピードが速すぎ追いつかなかったことは事実にしても、兵站は切断されなかったことを示している。捕虜を殺害した場合、「捕虜に与える食糧がなかった」は殺害側の常套文句である。第1次大戦でルーマニア軍の捕虜殺害を行ったブルガリア軍、チャコ戦争でボリビア軍の捕虜を殺害したパラグァイ軍も同様の発言をしている。これは偶然ではなく、捕虜殺害の際の自己弁護ではなかろうか。

組織的な市民の大量殺害は存在しない

埋葬記録に戻れば南京事件の本質は量からみれば捕虜の虐殺であって、市民の殺害ではない。この点で多くの日本の教科書が間違えていることになる。ただ市民の虐殺と捕虜の虐殺のどちらがより悪質かは、論争たりうる。南京には安全区が設けられており、そこに女・子供は逃げたと考えられ、埋葬記録とあわせ民間人大量虐殺は根拠が薄い。記録のうち自分の論旨に都合のよいものだけを取り出してはいけない。便衣兵として誤認され殺された市民がいることは事実としても数から行けば本質上の問題ではない。(だからといって、無法が軽減される訳ではない。)

要塞などが陥落する前、司令官が逃亡することはよくあるが、その場合でも代理を残すのが普通である。しかし日本側の記録で降伏の交渉にあたった国府軍将校は確認されていない。すると自発的にも現れなかったわけで陥落直前には未曾有の混乱に陥っていたと思われる。こういった指揮系統が失われ壊乱した場合、逃げ場を争って同士討ちが必ず発生する。第一次世界大戦でルーマニア軍は同様の状態に陥ったが、3割以上の兵士が命令によって射殺された。

ところが当時安全区にいた宣教師などの外国人が日本軍兵士による民間人殺害の記録を残している。一方外国人ジャーナリストはテラーすなわち南京が恐怖の世界となったことは報道しても、強姦を含む民間人への迫害はそれほど報道していない。すなわち専ら安全区にいた外国人がそれを伝えている。これはおそらく日本軍が安全区にいた便衣兵を捜索摘発し処刑したことから来ていると推定される。

安全区委員長ラーベは詳細な記録を残しており大筋で認めることが必要だろう。しかし柱時計やピアノを日本兵が略奪したというのは信じるというよりピンと来ない。日本国内でそういったものを奪う盗賊や空き巣がいただろうか。またラーベは正直な男で日本兵が強姦した現場は1件も見ていないとしており、また日本兵の略奪現場また自宅への押し入りは経験したが不思議なことに一喝したら日本兵はすぐ逃げたと言う。どんな状態でも上官はともあれ外国人に一喝されて逃げる、武器をもった日本兵がいるだろうか。

当時、現地除隊になった兵士は日本に帰国の際、荷物を憲兵に調査されていた。さらに、現在日本に中国の当時略奪されたと想定される文物は市中に存在しない。全部退蔵されることがありうるのだろうか。日本に伝わる中国の優秀な美術品などは江戸期以前に輸入された大名物と言われるものである。ゲーリングらが組織的に実行したナチスによるヨーロッパの略奪品は敗戦後摘発されたではないか。日本兵がヤミ市に横流しできただろうか。

ラーベの本で虐殺行為として列挙されているのがヒトラーの強制収容所でのユダヤ人虐殺、日本兵による南京での強姦・略奪・虐殺だそうである。これはドイツ人の偏見ではないだろうか。ヒトラーの強制収容所ではなく、ドイツの強制収容所ではないのか。もちろんラーベは古いタイプの中部ヨーロッパ人であり、アジア人にたいする偏見は隠さない。

ラーベは虐殺が5・6万人だとする。しかし埋葬記録は20万人以上を示す。この事はラーベが南京城外の戦闘について全く知らなかったことを意味する。

更に、ラーベは近代の市街戦がどのようなものか念頭になく日本の分隊攻撃戦術については知らなかったようだ。すなわち5、6人の日本兵が通りを歩き商店や民家のドアを破壊したと、非難しているが分隊での市内制圧はそれしかやりようがないではないか。第一次世界大戦のドイツ軍は5列縦隊となってアヒル歩きで占領を宣言した市中を堂々と行進したが、時代が違うのだ。

安全区を認め、そこに難民が行くことを認めたのは日本政府であり(用語は複雑)、それに背信してラーベが便衣兵の入区を認めたのだ。もし安全区が非戦闘市街地だと認定されるなら、そこの市長は敗軍兵士の入域を全力で阻止し、かつその旨を掲示し訴えなければならない。国際法自体そこは残忍なのかもしれない。しかし公人としてのラーベは平服に着替えた兵士をいかに殺されるとわかっても、入域させてはならない。もし緊急避難で国府軍兵士を救いたいのであれば、ドイツ公使を説得し世界中の通信社にその旨打電すればよい。日本兵が捕虜を無差別に殺害している旨を叫べばよい。そして事情が許せばドイツ大使館と公邸内に誘導すべきだった。ラーベに安全区を戦闘区域に替え不必要は民間人犠牲者を出す判断を行う権限は与えられていない。ラーベはこの点を全く反省していない。

兵士に責任はあるか

唐生智

兵士が集団で投降した武器をもたない国府軍将兵を自分の意思で簡単に殺害できるはずがない。日本軍は分隊単位でしか統制能力がないとしても、10名内外の兵士が組織として行動していた。組織的であれば50人を越える小隊単位以上で投降した(記録では実際それ以上)敵兵を一存で射殺する、すなわち無益で場合によれば逆襲されかねない私戦を実行できるものではない。当然のことだが日本軍の兵士は市井に長くいた人々であり、殺人嗜好などあるはずがなく普通の市民の倫理を持ち合わせていた。

大虐殺派はこれすらも否定する。これが真実から遠ざけ、また支持を失わせていることに気づかない。当然、捕虜となった敵軍兵士を殺害するよりも、女・子供を殺害することは日本軍兵士にとりより困難だっただろう。女・子供の遺体を見て心が痛んだことを日本軍兵士の日記に多く記載されているではないか。

そして市街戦が展開され日本軍は城外から15榴(といっても2門)で市内に準備射撃を行ったから、民間人に死者がでないはずがない。(但し市民の大半は難民区に避難していた。日本軍は難民区の設定を認め無差別に砲撃を加えなかった。)

中国内の大都市を陥落させた際、全て捕虜の虐殺が起きているわけではない。大虐殺派は、マルクス主義歴史家でかつアジア中心主義者(中国国家主義信奉)が多いがなぜ兵士を問題にするのだろうか。当然、中国側は日本軍兵士が全員鬼畜にみえ、また国民党政府はそういった戦時宣伝を行っただろう。しかしそれと真実の追究は別ではないか。

またマボロシ派もなぜか兵士の動向のみに着目する。兵士は捕虜の殺害を命ぜられたら引き金をひくしかない。捕虜を殺してよいか否かを判断するのは将校である。そこは戦場だったのであり、国内で老いた重臣を惨殺するのと同一ではない。左右両翼の発想は実によく似ており史料を自分の都合のよい部分だけとりあげ、省部軍人を擁護、兵士(一部のならず者は別にしての類)を非難する。そこから真実はみえるのだろうか。戦間期の社会主義と国家主義の論争を引きずって解答は得られるのだろうか。

便衣兵

便衣兵は通常武器を保有しながら逃亡、再起を図ろうとするもので戦闘意思を完全に喪失したわけではない。この場合の戦闘意思とは自力で逃亡する、併せて強盗も辞さないことも含まれる。南京方面以外の方向に逃げ成功した国府軍将校は日本軍より武装した逃亡兵の方が恐ろしかったと書き残している。

日本兵を襲撃し武器を奪う行為は幾多も報告されており、ラーベの申し立て、難民区にはいる際、武装解除した、は言いすぎだろう。ただこれも日本兵の証言が信用できないとなれば証明することはできない。また12月一杯かけて、両軍は南京周辺で交戦中だった。中国兵の士気は高く、手榴弾を抱いて日本兵に飛び込んだケースはいくつも報告されている。逃亡兵の多くは同胞への攻撃より日本兵への攻撃を選んだだろう。もちろんだからといって引っ立てた便衣兵を殺害してはならない。しかし放置もできない。

日本軍はそもそも捕虜の収容について全く準備していなかった。便衣兵についてはなおさらだろう。浸透戦術が研究された佐倉の歩兵学校で捕虜が大量発生した場合のケーススタディが行われたが、捕虜を殺害するか、捕虜をその場で釈放するかしか解答が得られなかったようだ。ハーグ陸戦規定は釈放捕虜について詳細な規定を含んでいる。ただしハーグと地名が示すように中立国としてオランダがあることが暗黙の前提とされていた。第一次世界大戦の交戦国はオランダに「戦争捕虜に関する情報局」や臨時収容所を相互に設置し捕虜の釈放を実施した。このような国は極東に存在しない。結局アメリカに交渉しフィリッピンに設置するのが現実的と思われるが、大量の捕虜をアメリカが受け入れることができるかという点で思考が停止したか、そもそも陸軍に国際的な人物は少なかったのだろう。

国際法における捕虜の取り扱いは多国(マルチナショナル)間の取り決めが前提とされている。陸軍は当事者解決主義が当然だとみなしていた疑いが強い。現在に至るまで日中間の修復できない溝の発生要因はだいたいこの当事者解決主義だ。

非行と不法

日本人の記憶に捕虜虐殺の記憶が残っていないと言えば嘘になる。このような自慢話は確かに存在した。捕虜虐殺はあったと謙虚に認める必要があるだろう。そして現代に生きる人は理解できないとみなすかもしれないが、当時の日本人は非行、すなわち民間人への暴行・略奪と不法すなわち国際法違反の捕虜虐殺を分けて考えていた。すなわち非行は許されるが、不法はケースバイケースだと軍人だけでなく普通の市井の人々も思っていた。しかしこのような考え方を防ぐ努力を軍当局はせねばならず、国益になんら抵触するものではない。そしてそれを黙認した責任者と南京捕虜虐殺の組織的責任者は重なるのではないか。

捕虜虐殺の命令もしくは黙認がどのようになされたのか調査すべきだ。また司令官は事態をよく知らされてなかったようだ。すると現地軍の法務担当参謀と東京にいる指示を出す課長クラスに真の責任者がいる。これら中堅軍官僚には民間人は法令を遵守せねばならないが、法の番人の官僚は不法行為をしても許されるかのような錯覚があった。そして極東軍事裁判においてもその後の著作などでも最もよく喋り、兵士を城内にいれたことが誤りだとか、司令官の布令は不十分だったと責任回避の言動が目立つのも彼らである。これ以上説明の必要はないだろう。

松井石根の口述書

それでは南京で何人の国府軍将兵の捕虜が虐殺されたのだろうか。これへの解答は難しい。一つの材料は国府軍が上海攻囲軍と南京保衛軍の合計の死者を80万人のうち30万人と発表していることだ。一方カポレットー戦でイタリー軍同じく80万人のうち29万人の捕虜と3万人の戦死者を出した。これは国府軍発表を裏付けている。30万人の戦没者のうち、日本軍の捕虜殺害は5万人から15万人の間というばかりで確答は将来も難しいだろう。


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