急 南京・本省(海軍無線経由)3月26日発着
幣原外務大臣 森岡領事
作24日午前7時頃より11時半に亘り党軍第2軍6軍所属支那兵約150名驢馬車等の運搬具を用意し来たり。
入れ替わり立ち替わり制服制帽にて小銃を携え当館に乱入して直ちに武力掠奪に移り一隊は事務所及び館員官舎を一隊は領事館邸を襲い本官以下館員家族上陸中の海軍士官水兵及び避難中の男女在留邦人100余名に向かい間断なく実弾を発射し或いは「ベイヨネット」(英語で銃剣の意味)を擬し甚だしきに至りては足の病気にて臥床中の本官寝具寝着キを剥ぎ取りたるあと枕元より前後二回実弾狙撃をなし或いは婦人連中に対し幾回となく忍ぶべからざる身体検査を行いこれに付随して数百の無頼漢乗り込み当館備品及び館員の私有品及び引揚在留民荷物等を徹底的に掠奪して以って余りなす床板便器空き瓶まで持ち去りたり。
この騒動中に木村署長右腕に貫通銃創と左胸側に刺創を根本少佐は左胸部に刺創、腰部に打撲傷を受けたるところ兵士の暴力停止するところなく自動車庫より「ガソリン」を持ち出し当館に放火し一同を焼殺せんと放言するに至りたるをもって一同(同時引揚げ洩れの男在留邦人3名ありて支那人の家に隠れおり。何れも安全なり)は死なばもろともの決意をもって11時頃領事館裏庭に集合し掠奪兵の最●の脅迫を受けおりたる。
●●会々党軍第2軍党代表兼第2軍第6師(第6軍の誤り)政治部主任の肩書きを有する揚(?←外務省;後出の楊の誤り)という者現場に●せ付け党軍の方針はあくまで外僑を保護し特に日本に対しては好意を有するに拘わらず無知なる軍隊がかかる暴力をなしたることは誠に遺憾とするところなるが今後は最重取締りを加うべくまた不自由の事有らば何れにも申し出有りたしとの丁寧なる挨拶を述べ同時に護衛兵4名当館に来たり。
一同愁眉を開きたるに引き続き第6師長(後出の程潜;軍長の誤り)も現場に来たり。右両名の連名をもって保護の告示を門前に貼付したるため多少安全を得るも目下引き続き殺人掠奪事件頻発しかつ在館官民は何れも着のみ着のままなり。食物も菓子もなく困難鮮やからざるため全部第24駆逐隊に避難せしめつつあり。
本件急変にさいし在留官民、同●●沈着なる態度と周到なる用意とをもって御真影と運命をともにする決心をなし一糸乱さず行動し得たることは本官の特に満足するところなると同時にあらゆる迫害のもとに御真影及び極秘書類入りの金庫の鍵を苦心●督して絶対安全を保ち得たることは実に天皇陛下の実稜威によるものにして一同の恐懼感涙に堪えざる所なり。
尚日本人小学校城内蓬莱館栗林医院及び松崎医院は右と同時に完全に掠奪を受け軍隊の本署となりその他全部目下掠奪中なり当館南隣金陵大学も昨日掠奪を受け米国人副院長他1名掠奪せられ天王党(天主堂か)は焼かれて婦人数名死亡したる趣なるが英国側は総領事が負傷せりと伝えられる外被害程度不明なり(26日)
( )内後で付加
南京、本省(海軍省経由)
3月27日発着
幣原外務大臣 森岡領事
(無号)
その後引き続き共産党員の手引きによる党軍一部の排外暴行未だ止まず。
程潜は昨日蒋介石は本日到着し掠奪兵を発見次第斬殺すると同時に共産党南京支部を解散し極力鎮圧に努めおれるも未だその効果なく英米●共に下関に領事館仮事務所を移し金陵大学に避難中の米国人約百名もいよいよ本日午後より最後の引揚を断行せるを以って本官は本25日午後4時御真影を駆逐艦松(檜の誤り)に移し奉りついで電信暗号以外の書類の全部を焼き棄て午後吉田司令以下海軍士官兵員数名保護の下に在留官民一同完全に駆逐艦に引揚臨時当領事事務所を松(檜の誤り)に設けたり。
右引揚間際には楊杰本官を来訪総指揮を代表して今回の事件に対し遺憾の意を述べかつ掠奪は在南京共産党部員が悪行を扇動●●せるによるものにして即時徹底的に取り締まりをなし外交の設置とともに賠償の交渉に応ずべき旨を述べ程潜も昨日到着と同時に特に私信を本官に送り今回の事件に対しては直ちに取り締まりの手段を講じつつあるに付きこれを口実として武力を用い●端を●からしむる事なき様切望する旨申し出たり。
なを今回の対●に関しては初めより吉田司令及び本官期せずして所見一致して徹頭徹尾無抵抗主義に決し英米海軍側は昨日城内に向かい大砲を発射せるも日本海軍は発砲せず。英国総領事館保護英水兵は掠奪兵に向かい発砲●自動車二台及び護衛兵若干を●し●したり。(25日)
( )内後で付加
現在外務省によって森岡報告として公開されたのはこの2通の電文のみである。ただ2通の間の脈絡が不自然でなんらかの電報が間にもあったのではないかと推定される。
森岡は駆逐艦檜から打電した。そして一旦海軍省で平文にされ本省に持ち込まれたものだが原文は手書きのなぐり書きで当時の電報管理がこのようなものだったのかと驚かされる。
森岡は余りにもナイーブな人物でやや外交官として相応しくないのかもしれない。足に「おでき」が出来て寝ていたとあとで説明したが、怖くて隠れていたのだろう。また御真影を保管した金庫の鍵は単純に隠してあっただけで、絶対安全を確保などと大仰に主張するようなものではない。
この襲撃は軍長より以上、おそらく蒋介石自らの決定により行なわれたものだ。なぜならば南京にあった日米英独、4領事館のうち独領事館のみ襲撃を免れている。その時蒋介石はドイツ人軍事顧問を受け入れ自らの軍をドイツ式に改めることを考えていた。蒋のドイツへの親近感は生涯変わることがなかった。程潜第6軍長らが襲撃が終わった後ノコノコ現れたのは罪を兵士に被せようという策略から出たものだ。それに愁眉など開いてはいけない。
領事館襲撃は白昼国旗(青天白日旗)をもち制服を着用した兵士によって行なわれた。これは途方もない主権侵害・国際法違反である。従って国府軍を名乗る来訪者と面会するのはよいが交渉してはいけないし、私信など受け取ってはいけない。幣原外交のもとで外交官の綱紀が乱れていた一端が垣間見れる。さすがに陸海軍将校や警官はいずれも外交常識を弁え毅然とした態度をとった。これが戦間期日本の縮図であり、国民が次第に文民政府より軍部を信頼していったことは自然と思われる。
根本 博(1891−1966)福島県出身 陸士23期陸大
1931年の三月事件および十月事件に連座、以降省部から遠ざけられた。1945年8月北支派遣軍司令官、中将。1949年米軍の助けをかり台湾に渡り湯恩伯の第5軍管区管理の国府軍の司令官顧問、中将に任命された。1951年福建省金門島に人民解放軍約3万が上陸した。根本はこれを8500の兵で邀撃殲滅した。この戦いで現在に至る台湾の分離が確定した。
また森岡が同じく被害者である英米両国と何かライバル心を燃やしているのはなぜだろうか。このような出先の傾向に対して本省は何もしなかったのだろうか。もし中南米で日本とアメリカの領事館が現地軍に襲撃されたとき、アメリカ外交官と海兵隊が無抵抗主義だとして逃げ回り、日本領事は小銃をもって重傷を負いながらも撃退したならば後日、日本の外務省と国民はどのように考えるだろうか。日本が中国に他国よりも有利な外交上の立場をもつべきだと考えることは誤りである。一方日本が中国と距離だけは近接していることも事実である。
この事件は国会で追及されたこともあり外務省は言い訳作りに窮し最後は森岡に詰め腹を切らせた。その過程で森岡はいくつかの疑問について答えている。強姦の事実はあったとか、武装解除は領事館備え付けの小銃を使うべきだと主張したとか、国府軍某と交渉した覚えはないの類である。外務省は国府軍でなく一部の暴徒がやったことだと整理したい考えだったようだ。その後も対中国外交となるとこの種の議論が必ず起きる。最後重傷を負った陸軍の根本少佐は「蒋介石がどう言い訳しようが国府軍が乱入した事実に変わりはない」と一喝した。それによりこの論争は終止符をうたれた。
『蒋介石秘録』7(中国国民党公式記録に準拠したもの)では蒋介石の行動について、
「25日、総司令としてはじめて軍艦で南京についた。乗艦上に程潜(江右軍総指揮)を呼び、指示を与えた。『中国軍隊あるいは、暴徒の何れによるとを問わず、外国人の生命財産に損害を与えたるものは、いずれも徹底的に調査せよ。責任をもって外国が納得できるように解決せよ』同時に国民革命軍の何応欽・魯滌平・程潜・賀耀組の四将軍を南京の治安維持の責任者とし、外国人居留民の生命、財産を保護させ、これに違反するものは厳罰に処するよう命じた」とする。
綺麗な言葉であるが、戯言である。少なくとも日本人女性を強姦した人物についての調査はされておらず、処罰された犯人もいない。一国の指導者がこれほどの三百代言をいう体質が中国そのものであろう。
ただ、これによると事件発生の翌日に蒋介石は南京に到着している(『秘録』は1960年ごろ国民党とサンケイ新聞によって編纂された)。国民党は現在、この事実を1週間後に修正している。そして、「治安維持の責任者」に第1軍軍長何応欽を任命したとしている。上海に駐留していた第1軍軍長をなぜ、南京の治安維持にあたらせるのだろうか?
事件が第1軍将兵によって犯され、蒋介石の許可ないし命令によったという疑いは消えないのである。第2軍と第6軍は「江右軍」である。江右とは揚子江北岸をさす。前日(23日)、奉天軍の張宗昌の部隊が揚子江を渡り浦口に逃げ、そこから津浦線で北上している。国民党側は、第2軍と第6軍が揚子江を事件の起きた日(24日)に渡河したとするが、江上にいた各国軍艦は2個軍(といっても2個旅団程度)もの渡河を報告してない。
軍事的には、都市(南京)をとるよりも、張宗昌部隊の殲滅が先決と考えるのではないだろうか?
この事件について直接根本から聞いたと推定される記録がある。
根本は、大使館(ママ)の二階にいたが、北伐軍の兵士が銃剣をつきつけ、金庫の鍵を渡せと脅迫したが、かれは頑としてはねつけた。根本は二階のバルコニーから、暴兵に対して「バカヤロー」と叫び、下に飛びおりた。そのとき銃剣で足を刺され、眼鏡も落とされてしまった。かれは自分が今死ねば、軟弱外交の日本政府も、強硬策に出ないわけにはいかないと判断した。
かれは一身を犠牲にして、外交を打開しようと念じたのであった。しかし、強度の近眼であった根本がコンクリートとみえたところは、水槽の上に張ってあったトタン屋根の上で、一命は辛うじて助かったが出血多量で人事不省に陥ったところを、張、黄という若い中国人のボーイが、群がる暴兵をつきのけて、安全な場所へかくしてしまった。
…岡田益吉(毎日新聞記者) 日本陸軍英傑伝 光人社 1972
これと別に軍事顧問として帝国陸軍大尉、佐々木到一がこの時北伐軍に随行していた。佐々木はこの前後の北伐軍の行為について止めようとした形跡がないだけではなく、更に北伐軍が山東省に進み済南でまたもや外国人殺害事件をひき起こしたとき、派兵を止めるよう参謀本部に必死に打電した。佐々木は代表的な支那通とされるが、「任地ボレ」を起こし自国民が惨殺されたにもかかわらずこのような挙に出たものである。
日本の官僚制度ではかくの如き佐々木の行動も処罰の対象とならない。
その後佐々木到一は上海決戦の掃討戦に参加した。佐々木は第16師団に属する第34旅団長となりその名が冠せられた佐々木支隊を率い南京城外下関に国府軍の退路を断つ任務にあたった。佐々木は捕虜をとらない方針を貫き2万以上の国府軍を「解決」したとされる。
南京城外の死者
佐々木は自著に次のような書き込みをし、その後墨で塗りつぶしている。
「吾々同胞はこれを支那民族の残忍性の一面として牢記せねばならぬ。将来と雖も機会だにあらばこれを再び三度繰り返すものであることを銘肝しておかなければならないと思うのである。弱しと見ればつけ上がり威たけだかになるところの心理は、恐らく支那人を知る限りの日本人は承知している筈である。これに油を注げば如何なる非道の行為にも発展するものであることを。」
佐々木は1945年戦犯として逮捕された。その後1955年撫順収容所で病死したとされる。撫順は共産政権が執拗なまでに拷問と洗脳を繰り返した収容所であり、病死とされたのは屈服しなかったためだろう。洗脳され屈服した帰還者は未だに共産政権を賛美し戦間期の日本の行動が全て悪逆なものだったと主張している。
佐々木がもし失敗したとするならば一体何が原因だろうか?
それは人間を全て民族または人種の属性で考えるためである。そして国際法について一顧だにしないことである。
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