張治中の軍命令

張治中 Zhang ZhiZhong (1895-1969)
安徽省巣県出身。1916年保定軍校卒業。さらに黄埔軍官学校に参加、その教導となる。このとき毛沢東や周恩来の知己を得た。1928年、馮玉祥反蒋のさい鎮圧にあたった。また中原大戦では第2師長として参加している。そのあと活動を上海周辺に移した。第1次上海事変では中央軍を率いて参戦した。

1937年10月、第4路軍長から湖南省主席に配転となったが、蒋介石はすでにこのとき、重慶への逃避を考えていたのだろうか。そのあとの長沙戦において、市街焼亡作戦の責任者として中国で論難されることが多いが、これも戦争の中の当然の軍事作戦とみるべきだろう。

1945年以降、対共産党談判の国民党側代表となった。だが、1949年4月からの北平会談の最中に、突然共産側に寝返った。そのあと全国人民代表者会議常任委員会副委員長をつとめている。1969年、北京で死亡した。文革中であり、殺害された可能性を否定できない。

張治中は第4路軍の軍長であり、第4路軍は国府軍の中で最も精鋭とされた88師と87師を基幹としていた。下の手紙は、上海決戦が開始された、1937年8月13日の前日、総司令官蒋介石と参謀総長何応欽にあて、軍命令の写しを送ったものである。

治中は黄埔軍学校教導であり、そのあとも蒋介石の片腕であり続けた。また第一次上海事件で中央軍である臨時第5軍長をつとめ、そのあと蔡廷が福建で反乱を起こしたとき、第4路軍を率いて鎮圧した。

中国側資料は「京滬【けいこ】区(首都南京と上海地域)の軍事責任者に就任し、早くも1936年に『上海包囲攻撃計画』を策案し、上海周辺の日本軍に対する先制攻撃の準備を進めた。張治中は、盧溝橋事件(一九三七年七月七日)勃発後、日本による陸軍の上海派遣、揚子江にある日本戦艦の上海の結集、日本の無理な要求などの事態が発生した場合、日本軍への攻撃を開始すると蒋介石に提案した。

この提案は蒋介石に受け入れられ、八月一三日の上海事変の前に中国側はすでに先制攻撃を仕掛ける決断をしていた」(『第百一師団長日誌』劉傑のあとがき 中央公論新社 2007)
 と語っているようである(劉傑は出所を明らかにしていない)。

国府軍による上海包囲攻撃は南京が策源地となり、いったん戦線が破れれば南京が危機にさらされる。加えて揚子江側からの攻撃にも耐えねばならない。首都を賭け金とするような軍事作戦を中国人張治中が作成するだろうか?パリやベルリンを賭け金として戦ったヨーロッパ人の発想ではなかろうか?

ただ、中央軍の場合、軍へ配属となる師は必ずしも一定せず、師長の軍長への忠誠が強いとはいえない。また、参謀団自体が弱く、軍長とは個人の資格で臨時につく職責である。上海決戦の場合、事実上の参謀部はドイツ軍事顧問団であり、軍レベルでも作戦参謀は必要ないとみなされたのだろう。張治中も10月初め、湖南省主席という文官職に配転され、戦死を免れた。

 

南京:委員長蒋中正、部長何鈞鑑

1120密

本軍は淞滬間の日軍を掃討する目的の貫徹に従った。すなわち、本11日夜に準備しておいた列車と自動車で現有の軍隊を上海に輸送し、重点を江湾(宝山一帯)彭整(閘北北部)付近に置いて、敵に猛攻を加え、敵軍の根拠地に進攻、占領して殲滅する積りである。各部隊にたいする処置は以下の通りである。

  1. 現在の上海の地方部隊は主力が真茹(華陀区北西部)閘北、江湾の中心部と呉淞の各要点を固守し、一部が上海の西部と南部を警戒し、軍隊の前進を掩護する
  2. 87師は、強力な一部が前進して確実に呉淞を占領し、主力が大場―江湾以北の地区に輸送・到着・前進・展開したあと、江湾の中心部に前進して攻撃の準備を整え、別に強力な一部が羅店と劉河を牽制する
  3. 88師は、一個団を割いて、真茹―大場(含まず)の線の後方に輸送・到着・前進・展開したあと、閘北―江湾(含まず)まで前進して反撃を準備する
  4. 砲十団の一個営及び砲八団は真茹―大場まで前進して陣地を占領する
  5. 松江にいる鐘師の一個団は蘇嘉路(蘇州―嘉定)から南翔に転じて命令をまつ
  6. 56師は昆山に輸送したあと太倉―支塘(常熟市南東)に前進して命令をまつ
  7. 88師の一部の527団は南翔に至って総予備隊になる
  8. 職は12日午前に南翔に前進するつもりである。

    職:張治中 叩文丑[12日午前2時]
    印:呉県

この手紙は蒋介石書簡集に所載されたものだが、単純に軍命令の写しである。蒋介石の命令にもとづいて第4路軍が上海への集中と、上陸(しゃんりく)への攻撃の計画を策案し提出したものだ。

更に下記地図は第一次上海事変終息のさいの停戦協定にもとづく、非武装地帯である。ここに国府軍の駐留と、軍事施設の建設は禁止されていた。

張治中が本営を置こうとしている南翔が中立地帯にあることは、明らかだ。もちろん、このような非武装地帯を設定したことは、蒋介石にとり屈辱以外の何者でもなかっただろう。

ただ、注意せねばならないことは、上の地図で呉淞と真茹を結ぶ線の北に、国府軍は無数のトーチカ(上海近辺に国府軍はドイツ国防軍の指導のもと二万個以上のトーチカをつくった)を既につくってあったことである。

これ自体が停戦協定違反である。第一次上海事変で停戦協定(停戦協定を結ぶ権限はハーグ陸戦協定により野戦軍司令官)は陸軍が締結した。ところが上海に駐留していたのは、海軍の陸戦隊である。海軍は再三にわたり、この問題を陸軍に提起したが、陸軍はとりあおうとしなかった。ここの陣地化を許したことが、戦争につながった公算がある。

日中間の条約は常に中国が破り、それを日本が武力または外交で是正を試みようとすると、支那通があらわれ、「もっと大人になれ」と目をつぶることを主張する。このケースはそれが失敗であることの証左である。

昭和天皇は上海のトーチカを心配した

〜『文藝春秋』2007・4月特別号「小倉庫次侍従日記」解説半藤一利

昭和17年12月11日「支那事変で、上海で引かかつたときは心配した。停戦協定地域に「トーチカ」が出来てるのを、陸軍は知らなかつた。引かかつたので、自分は兵力を増強することを云つた。戦争はやる迄は深重に、始めたら徹底してやらねばならぬ、又、行はざるを得ぬと云ふことを確信した。満州事変に於いて、戦いは中々途中ではやめられぬことを知った(この点は度々繰り返し仰せられる。誠に国家将来の為め、有難き御確信を得られたるものと奉答す)。

陸軍が上海周辺の2万個のトーチカの存在を知らぬはずがない。ただ、停戦協定違反の重大さがわからず、天皇を誤魔化し、海軍を宥めれば済むといった、なめきった人物が陸軍に存在していたのだ。それは石原莞爾であろう。

近衛文麿は陸軍の無能をいった。

〜原田熊雄『西園寺公と政局』第6巻 岩波書店 1961

昭和37年9月28日「支那軍は予想以上に非常に強い。ほとんど十七八の青年が決死の勢いでやつて来て、日本の軍隊と組討ちして崖の上から落ちる。さうして落ちた支那兵の着物のポケツトを見ると、その母親からの激励の手紙があつて、『決してお前は生きて帰つて來るな』といふ具合に、祖国に対する非常な愛国心なり、抗日の精神なりが強く教育されてゐる。なほ上海でも北支でも陸軍の調査が極めて不充分であつて、たとへば上海事変後五年を経過してゐる今日、その五年の間に防禦に非常な工作を施してをつたのに、それをまるで知らなかつたといふのは、出先の陸軍軍人も政治とか外交にあまりに没頭して、本職を忘れてゐたかの感がある。これがために海軍殊に海軍の空軍なんかが、世の中で非常に礼賛されるのである。で、海軍省は声明書を出して、『なにも特別に海軍はどうといふことはないけれども、ただ一途に戦技に專念してをつたのだ。所謂挾義國防に専念してゐたのだ』と言つて、反面にあたかも陸軍は廣義の國防に專念したから今日のやうな失敗を見るのだと言はんばかりに言はれたので、陸軍の連中は憤慨してゐた」。

原田熊雄が電話で近衛が喋ったとする内容である。近衛は杉山元陸相と仲が悪かった。ただ、石原莞爾が関東軍参謀副長に転出した新聞報道があった日で、あてつけている公算もある。

国民政府は停戦協定違反を認めている

〜『抗戦簡史』中華民国国防部史政処編

「わが最高当局は一・二八事件[昭和七年の上海事変]以後、敵[日本]の北方における侵略が止まらないので、事をゆるがせにできないと判断し、民国二十四年[昭和十年]冬、張治中にひそかに命じて南京、上海方面の抗戦工事を準備させ、戦争を避けることができなくなったとき、わが方は優勢な兵力をもって敵の不意に出て、上海の敵全部を殲滅してこれを占領し、爾後、敵の増援を不可能にしようと企図した。このため呉淞・上海周辺の各要点にひそかに堅固な工事を築き、わが大軍の集中を掩護させ、更に常熟、呉県において洋澄湖・澱山湖を利用し、堅強の主陣地帯(呉福陣地)を、また江陰-無錫間に後方陣地帯(錫澄陣地)を構築した」。

「民国二十五年幹部参謀旅行演習を実施するとともに、龍華、徐家匯、紅橋、北新、真茹、閘北停車場、江湾、大場江湾、大場の各要点に包囲攻撃陣地を構築し、呉福〔呉江−福山〕陣地の増強、京滬〔南京-上海〕鉄道の改築、後方自動車道路の建設、長江防備及び交通通信の改善、民衆の組織訓練等を実施した」。

『抗戦簡史』は必ずしも信を置けない「公刊戦史」であるが、それでもこの間の事情を伝えている。しかしながら、日本側省部軍人が残した記録はない。


丁秋潔・宋平、『蒋介石書簡集(下)』訳:鈴木博、みすず書房、2001

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