第三革命


第三革命

1915年、中華民国大総統袁世凱は皇帝になることを夢見た。現実にしたのは、袁の顧問であったジョン・ホプキンス大学総長のグッドナウの論文『共和と君主制』であった。それが8月3日、御用新聞『アジア日報』に掲載されると、籌安会という国家の安平の籌【はか】ると称する研究団体が呼応した。

全て袁世凱が背後で糸を引いていた。ただ袁にとって難しかったのは、清朝復辟運動との違いをどう主張するかであった。そのため一種学術的雰囲気を醸し出す必要があったのでろう。この手法は、それからあとも、度々中国政局で現れることになる。

具体的な帝政発議は参政院が行い、国民代表会議によって「国体投票」が実施された。12月1日、参政院は「国民代表大会の総代表」として、袁総統に皇帝推戴を奏達、即位を乞うた。袁は、12月11日、いったん辞退した。参政院は翌12日再度乞い、袁総統もこれを受諾した。

だが、周囲はそれに反対した。南方勢力も第3革命を呼号した。12月22日には唐継尭による雲南独立運動が起きた。さらに翌月にも貴州省が続いた。

袁世凱は日本政府とも隔意を生じた。大隈内閣は閣議で『支那目下の時局に対し帝国の執るべき政策』を決定し、南北両軍を交戦団体として承認し、民間有志の南方援助を黙認する方針に転じた。さらに、1916年1月16日、大正天皇即位式参列のための中国特使訪問延期を要請した。

3月15日、梁啓超を迎えて、陸栄廷が広西省独立を宣言した。3月19日、股肱と頼む馮国璋が帝政取り消しを建議しようとしているのが暴露された。

四面楚歌の袁世凱は、3月22日、帝政承認を取り消した。だが、反帝政派は収まらず、南部5省は袁の引退と臨時約法による黎元洪の大総統就任を求めた。

1916年6月6日、袁世凱は失意のうちに死亡した。

日本陸軍参謀本部付き北京駐在、坂西利八郎が袁世凱の死について語っている(『東京朝日新聞』昭和5年8月23日))

「袁世凱と一番最後に会ったのは、たしか大正五年(1916年)の五月の末ごろだつたと記憶している。それは死ぬ一週間ばかり前でそのころ、ひどい神経衰弱と尿毒症を併発してずっと寝こんでいた。その日、病床を訪ねてみると、顔や手足が水しゅでぶくぶくに青ぶくれしてしまっていたので、大いに驚いた。ひと目見て『もうとてもだめだな』と思った。それが見納めでそれから五、六日たって死んでしまった。

そのころ第三革命が山東にまで飛火していたので、我輩は袁の頼みでその実状視察に出かげ、それを復命しに行ったのだが、第三革命は彼の帝政運動に反抗して起ったものだし、それに革命軍の勢威当るべからざるものがあったので、垂死の床の上で非常に煩悶していたようであった。

力のない声でくどくど我輩に質問したりした。二十四省の独裁官として天下に号令した往年の意気なんか全く消えて、さびしい一個の失意老の姿であった。我輩は死に直面しての痛ましい彼の弱りように接して、見るべからざるものを見たような気がLた。悲劇的な『英雄の末賂』を思って、我にもあらず暗然としたのである。

河南の田舎に生れて、二、三ケ月の問とはいえ支那の帝王にまでなった男であるから、彼も一個の非凡な傑物だったには相違ない。満身に精力のあふれたようた人だった。上背は低くて横肥りに肥った方だったが風さいには自然の威厳が具っていた。支那の大官に似合わずアヘンも酒も全くやらたかったし、日常生活も判でおしたように規則立っていた。いわゆる「大官タイプ」とは全く類型を異にしていた。皇帝になりたがりさえしなければ、あんな失意の中で、六十八(*)くらいで死ぬる男ではなかったろう」(*)じっさいには56歳で死亡であり、坂西がなぜ年齢を引き上げたか不明である。

陸軍の現役士官である坂西が、袁世凱の使い走りをして疑問をもたず、新聞もまた疑問をもたない時代であった。坂西は、

「日本国民は孔孟の教えを支那から輸入して、道徳の根本を同じゅうしており、善良なる多数の支那国民が窮状に陥っているならば、これを救うという考えをもって、すべての対支行動をとってしかるべし・・・」と演説するほどの異常な支那通であった(昭和2年1月18日於大阪毎日新聞講堂)。日本国内でうだつのあがらぬ人間が、中国で大きな権勢をふるい、「日本の国力、会社の資本力、個人の努力を蕩尽すべきだと」と日本人に説くという異常事態はそれからも都度都度発生することになる。

黎元洪 Li YuangHong (1868-1928)
字は宋卿。湖北省黄陂出身。北洋水師学堂卒業ののち、北洋海軍に入り、日清戦争に従軍。そののち日本に留学経験がある。辛亥革命では、湖北新軍の部隊長であったが、寝返り湖北省政府を乗っ取った。いわば辛亥革命のシンボルである。第二革命でも、湖北省で国民党と戦った。袁世凱の死後、直隷派の筆頭となり大総統になった。だが直隷派の軍権は馮国璋に移り、軍隊に力はなかった。段祺瑞と対立、張勲復辟事件のあと失脚を余儀なくされた。

袁世凱のあとの大総統位は黎元洪がつぎ、総理には段祺瑞が任命された。このあとは黎段の争い、または府院の争いと呼ばれる政争劇が中央で繰り返された。

1916年8月1日(民国5年・大正5年)中国国会が開催された。民党(国民党が中心)は全く協力せず、内閣提出の議案はことごとく否決された。

そして国会討論の背後にあるものは、第一次大戦参戦問題だった。この時、西部戦線における戦局はソンムにおけるイギリス軍の攻勢、ベルダンにおけるフランス軍の反攻、東部戦線におけるブルシロフ攻勢と連合国有利かにみえた。

焦点となったのは、外交総長に誰が任命されるかという点で、唐紹儀・陸徴祥・汪大燮・伍廷芳と転々とした。段祺瑞は国民党系の唐紹儀を妥協として推薦したのだが、軍人派(辛亥革命でたちあがり、督軍と呼ばれる地方ごとの軍権を握る人々の派閥で、経歴はさまざまである)の反対にあい、軍人派推薦の人士を推すと、民党が反対、最後に国民党系の伍廷芳が任命された。

そして注目されるのは馮国璋が、10月、副総統に任命されたことである。北洋軍閥の軍権は、袁世凱の死後、段祺瑞と馮国璋に二分され、段祺瑞と対立する一方の雄、馮国璋が初めて表舞台にたったことになる。これ以降、馮国璋が率いる軍隊は直隷派と呼ばれるようになった。

翌年に入ると、連合国参戦派・段祺瑞、反対派・馮国璋と研究派、中立派は黎元洪・地方督軍グループとはっきり分かれるようになった。研究派(進歩党)とは梁啓超・曹汝霖・陸徴祥・汪大燮らで、日本留学組および清国時代の官僚であったことが特徴としてあげられる。梁啓超は戊戌変法のさいのリーダーである。

1917年2月、段祺瑞は参戦にあくまで反対する黎元洪に反旗を翻し、閣僚全員を誘って内閣総辞職を行った。黎元洪は馮国璋や徐世昌・王士珍らに総理就任を依頼したが拒絶された。仕方なく黎元洪は再度、段祺瑞に組閣を依頼した。3月14日、中国はドイツと国交を断絶した。

この後は、ドイツに宣戦布告すべきか否かが問題となった。


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