中国軍の勝機


中国軍の上海攻防戦での失敗は第1次大戦のドイツ軍の敗因とかなり重なっており、逆に日本軍の勝因は、それをよく咀嚼したことにある。直接の勝因はその分隊攻撃法にあるが、これは主として佐倉にあった陸軍歩兵学校で開発されたものである。

歩兵教範などはそこで作られた。誰がまたどのようにと言う点は明らかではない。ただ小畑敏四郎が主導したものと推定される。小畑は皇道派だが第1次大戦のロシアへの観戦武官でブルシロフ攻勢を実見した。

中国軍が勝つためには、この方法への対策が必須である。もちろん逆は真だから中国軍がやればよいのだが、中国軍は第1次大戦を分析したように見えない。

旧軍陸軍参謀本部作戦課というのも不思議なところで、こういった現場での戦術について理解しないものが多かった。そして政治的策略または軍編成に没頭した。つまり作戦は現地軍参謀がたてるから、本部は直接関与しない。この辺はドイツ軍と同一である。ただ旧軍は隊つき参謀と省部軍人とであまり人事交流がない。

大虐殺派の藤原彰(洞に比して実証性にやや劣る。)は、この時の戦いを稲田正純(このあと参謀本部作戦課長)を引用し自説を補強している。

「上海戦は不明確なる作戦目的に因する不用意なる作戦準備と不十分なる兵力の逐次投入とにより、予想外に困難なる戦局を現出し、爾後の戦争指導に重大なる過因を与えたる作戦なり。

徒に将兵を困憊せしめてその心理を悪化し、第一線の対支態度をして感情的に硬化せしめ、国策の遂行上軽く進退を決せしめる要大なる政略的出兵に報復的不純なる意図を介在せしむることとなり、戦闘に実行にもまた聖戦の清純をを混濁せしむるものあり、南京攻略後の混乱の如きその端をここに発するものと認めざるべからず。」

この文章は当時の陸軍役人作文の典型例でくだらぬ事をもっともらしく表現したにすぎない。説は戦後なされたもので当然当時の言説ではなく、南京事件の本部の無責任を主張したものである。なぜマルクス主義歴史学者がこのようなものに理解を示すのか不思議としか言いようがない。

この文章の主題を現代語で言えば、「上海戦は作戦目的が明確でなかったため、すなわち政治家に命じられたため準備や兵力が不足し、逐次投入となった。このため苦戦しのちの作戦に悪影響を及ぼした。また将兵が中国に敵対心理をもった結果、本来政略出兵というものは引くときの判断も的確にせねばならないのに報復的な要素をいれてしまった。南京事件の原因がここにある。」

すなわち自分の決めた作戦による戦争(予防戦争または戦略出兵)であればよいが、政治家や外交官が決めた戦は準備が整わないのでやりたくない、と言っているにすぎない。このような傲慢な軍人の言い分に現代人が耳を傾けるべきなのだろうか。

また敵対心は通州事件などで暦年積み重なっており、苦戦した結果だろうか?太平洋戦争でも苦戦したが対米敵対心が増大したのか?大虐殺派でも藤原はより中国に忠実であり、上海前面での苦戦(=中国軍の精強さ)を訴える。しかし戦闘とは精強さや装備の優劣よりも作戦で支配されることがあるのは事実である。そしてその作戦とは軍事作戦で稲田の思う戦略(ほぼ=政治)とは別個のものだ。

11月8日までの上海派遣軍の損害は戦死9、115人(負傷者31,257人)である。この時までに陸軍は6個師団(15万人)を派遣しており交戦3ヶ月となっていた。激戦には違いないが、第1次大戦的塹壕戦では良好な防衛振りだったと言える。塹壕にこもり敵から射撃をうければこの程度の損害は避けられない。

そして困難だとしてなぜ日本軍は杭州湾上陸前に総攻撃をかけ、大場鎮を陥落させたのか。ラーベ日記でも中国軍首脳は大場鎮の陥落(10月26日)をもって前線が突破されたという認識をしているではないか。

要するに作戦課または参謀本部とは作戦を考えるところではなくて、政治的判断をしているにすぎない。開戦後は現地軍の参謀が作戦を決定していたのであり、それがドイツ流だ。

また南京事件の要素として南京近郊の戦没者が過半上海攻囲軍の敗残兵だった事実は重大である。だが、それと上海での苦戦を結びつけ兵士のせいにするよりは上級将校や本部の国際法無視を指弾すべきではないのか。

日本軍はこの戦術を肉弾攻撃と名づけた。武漢反攻の時、沢田参謀本部次長は中国軍は肉弾攻撃をしてこないから安心だと回想している。この方法を最後まで中国軍は知らず太平洋戦争最末期の拉孟・騰越攻囲戦でも横隊突撃を繰り返した。また朝鮮動乱の中国(共産)義勇軍も同じだった。

中国軍は多くの場合チャルメラやドラを鳴らし、手榴弾を投げた後塹壕からほぼ大隊(850人)を以って塹壕から出撃した。イギリス軍のソンム戦と同一である。ただイギリス軍はビューグル(ホイッスル)を鳴らして突撃する。日本軍は日露戦争のときから突撃のさい一切音はたてない。無言で目配りして、軽機関銃をもつものから5,6人単位総勢12名前後で突撃した。

そしてドイツ的欠陥として敵の交通路を重視しないこともあげられる。まず上海は内陸にあるから、揚子江を遮断すれば補給路を断つことができる。ところが、中国軍は上海に日本軍を誘引する作戦だから上海=揚子江河口の水路は開放した。これは当時国際水面だったためもある。そして南京前面の揚子江には機雷を設置した。ところが、この辺りの情報は日本海軍にすべて筒抜けで掃海どころか敷設艦が待ち伏せに会い撃沈されたりしていた。海軍は陸戦隊を相当前から派遣しており、中国軍の内情をつかんでいた。

そして最大の問題は南京=上海の陸路である。この間は太湖で遮られている。杭州湾に上陸できても、中国側からみれば太湖により分断可能である。すなわちタンネンベルグ戦のマズール湖と同じ働きをする。少なくとも15日間は中国軍は全力を挙げて一方の軍に当たることが可能だ。(タンネンベルグ戦では6日間)

中国側の索敵活動や情報活動の記録は残されていない。しかし日本各地での動員情況は蒋介石書簡をみてもつかんでいたようだ。すると11月6日が杭州湾上陸だから、10月の後半に中国軍は攻勢を上海派遣軍にかければよいことになる。ところが呉淞クリークを挟み両軍は対峙したがついに中国側からの攻勢はなかった。日本軍は上陸直後から日軍100万上陸と大宣伝をかけたから、大場鎮陥落、上陸となってからは総退却を命じるだけになった。


蒋介石書簡によると、日本政府内で講和を巡って論争が生じていたことの情報を入手したことが記されている。

この事実は陸軍参謀本部と政府の間の論争を指す。それでもこの論争は多田参謀本部次長と近衛首相との間の極めて高いレベルで行われたものであり、その周囲にいた人間以外は日本人でも当時知りえないものだった。

蒋介石はこの論争の存在を知り、広田の吊り上げ後の条件を断然拒絶した。この情報はどのように蒋に洩れたのだろうか?

当時、蒋が東京の中枢部に独自のスパイ網をもっていた形跡はない。おそらくゾルゲからドイツ大使ディルクセンに洩れ、それがドイツ駐南京大使トラウトマンに流されたのではないか。そしてトラウトマンが蒋に伝えたのではないか。

また第2回総攻撃の10月10日も東京から蒋に洩れていた形跡がある。

リヒャルト・ゾルゲ

これは塹壕に中国軍が過度に依拠したためである。すなわち上海全周をゼークトラインがとりまいていたからそこにまんべんなく軍を配置した。最強とされた第88師(団)はなんとフランス租界に面して守備していた。日本軍は、共同租界からフランス租界を越えて砲撃をかけた。ところが中国軍は反対に共同租界を砲撃する必要があるが、それは英仏を敵にまわすことでありできなかった。この問題は事前に全く検討されなかった。

そして交戦が開始された相当後もドイツ流に従い部隊配置替えを実施していない。ドイツ国防軍軍人はなにを根拠か日本軍を過小評価していたようだ。一方兵力を逐次投入せざるを得ない日本軍は、後続部隊到着毎に猛烈な配置替えを実施した。

タンネンベルグと同様に、中国軍は全軍を集中し呉淞に上陸した日本の3個師団を分断殲滅できただろうか。これが実はポイントだが呉淞クリークのためおそらく工兵のない中国軍は渡河が困難だったのではないか。呉淞クリークは南北に流れる幅30メートルで深さは人間の背丈を越える用水路だった。日本の工兵はここに半身裸となって浮き橋を夜間一杯かけて完成させた。要所を舟艇で渡河し、対岸からの射撃を陽動をかけかわしながらの作戦だった。10月8日これにより第101師団の加納連隊長が戦死した。

すなわち、戦争とは打撃力を単純に増加させて勝てるものではなく、基礎的な軍事技術を積み重ねるより他にない。常備軍を備える必要がここにある。


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