ジェームソン蜂起が失敗すると、チェンバレンは植民相辞任を申し出たが、ソールベリー首相に慰留された。ソールズベリーは既に老齢であり、後継者を甥のバルフォアに期待した。バルフォアは学究の徒であり、とても熱帯、南ア、中国で陰謀をめぐらすタイプではなかった。チェンバレンは植民相でありながら、イギリス外交の中心に位置することになった。
チェンバレン |
チェンバレン(Joseph Chamberlain,1836-1914)
チェンバレンは靴職人の息子としてロンドンで生まれた。教育は16歳までで、コードウェーナーズという靴会社に丁稚奉公に出された。18歳になるとバーミンガムにあった叔父の経営するネトルフォールズという螺子製造会社に勤めることになった。ここでチェンバレンは事業拡大に成功し、社名もネトルフォールズ・チェンバレンとなり、一時は全英の三分の二の螺子を製造するまでになった。1874年に事業から引退したが、そのころ日本を含む全世界に製品を輸出していたという。
1860年、チェンバレンはハリエット・ケンリックと結婚したが、ハリエットはオースチン(将来の蔵相・外相)に生を与えたと同時に死亡した。1868年、ハリエットの従姉妹にあたるフローレンス・ケンリックと結婚した。フローレンスとの間に最初にできた子供がネビル(将来の首相)である。だが、フローレンスは5番目の子供を産もうとしたところ、母子ともに死亡した。
1860年代、チェンバレンはバーミンガムの自由党の指導する普選運動に参加した。またチェンバレンは熱心なユニタリアン教会(キリストの神性を否定する)信者であり、義務教育を主張し国家のイングランド国教会への補助を排撃した。1867年、チェンバレンはバーミンガム教育連盟を創設、それはすぐさま全国教育連盟に発展した。
1870年、グラドストン内閣は「義務教育法」を議会に提出した。だがこの法案には国教会の学校を優遇する措置が盛り込まれていた。チェンバレンは全国教育連盟代表として、グラドストンと会談をもった。その結果、法案は国教会学校への補助について自治体の監視におかれる制限が設けられた。
1873年11月、チェンバレンは自由党候補としてバーミンガム市長に立候補した。保守党はチェンバレンを「独占業者にして独裁者」と非難した。チェンバレンのスローガンは「坊主の上にたつ人民」というものだった。選挙は一方的勝利で、チェンバレンは市長に当選した。このころバーミンガムの上水施設はひどいもので、半数の家庭にしか上水は届かず、残り半数は汚染された井戸に頼っていた。そのうえ上水は1週間に3日しか届かなかった。
チェンバレンは民営水道会社を市で買い取り市営とした。さらにガス会社の市営化、スラム街浄化、道路拡幅でも成果をあげた。これによって、伝染病死亡率は大幅に改善されたという。そして任期後半になると図書館・水泳プール・学校・美術館・公園が整備された。これらの成功によって、チェンバレンの名前は全国に広がるとともに、バーミンガムにおけるチェンバレン人気は絶大なものになった。
1876年6月の下院総選挙に立候補し、当選、バーミンガム市長を辞職した。チェンバレンは直ちに自由党急進派の糾合を急いだ。そして自由党地方組織内に急進派を育てた。とりわけ、トルコのブルガリア人キリスト教徒弾圧を非難し、親オルコ政策をとるディズレリ保守党内閣を批判した。そしてグラドストンを応援するため、地方に国家自由連合"National
Liberal Federation"を結成した。チェンバレンはその会長となり、来るべき総選挙の運動体となるべく党活動家を養成した。同時代のイギリス人はチェンバレンのやり方をアメリカ大統領選挙運動と比較している。
この当時のチェンバレンはアフガン戦争やズールー戦争を「前進政策」として非難し、スエズ運河会社経営権買取については賛成している。1880年総選挙では、保守党外交政策を批判しながら国家自由連合は大いに活躍した。自由党が勝利を収めるとグラドストンはチェンバレンの功績を大いに認めるしかなかった。チェンバレンは当選2回、44歳にして商務相に抜擢された。この職務でも大きな業績をあげた。電力法・穀物船法・海員法・破産法・特許法などである。これらは全て現在にも残る優れた立法である。だが、イギリス国内問題の中心はアイルランド自治法であった。
チェンバレンの方策はアイルランド土地法によって、イングランド不在地主の権利を制限し、自治については大英帝国の崩壊に導きかねず反対するというものだった。これによって書記官長フォスターと対立を招いた。グラドストンはアイルランド土地法案を上程することにした。だが、アイルランド独立主義者パーネルは小作人の小作料不払いの運動を開始した。パーネルは投獄された。チェンバレンはパーネルに釈放と引き換えにアイルランド土地法案に賛成に回ることを画策した。フォスターは辞職し、後任のキャベンディッシュは、1882年5月、アイルランド人テロリストに殺害された。
後任にはチェンバレンが予想されたが、グラドストンはあえてトレベリヤンを後任とした。チェンバレンの影響力向上を恐れたためだという。
これとは別にチェンバレンは有権者の範囲を拡大と上院の権限縮小を主張した。1884年、議会は有権者拡大法を通過させた。チェンバレンは新たに有権者となった労働者のための政策立案をはかり、急進主義を主張した。雑誌フォートナイトリイ・レビューに盛んに改革案を寄稿した。1884年の自治体有権者拡大法について保守党が反対するや、「ソールズベリーは特定の階級の代弁者だ。その階級は骨を折って働くこともなく、糸を紡ぐこともない」と演説した。ソールズベリーはチェンバレンを「シシリーの山賊」、保守党の論客イデスレイは「ジャック・ケード」(15世紀の農民一揆指導者でロンドンを略奪した)と言い返した。
1885年7月、「急進主義綱領」が発表された。中味は「農地改革」「直接税増大」「無償義務教育」「男子普通選挙」「労働組合保護」であった。
それに先立つ5月、チェンバレンは保守党閣僚への反発から辞表を提出していた。だがその最中にアイルランド議会党が保守党支持に回り、グラドストン内閣は総辞職を余儀なくされ、ソールズベリーが組閣することになった。1885年8月、ソールベリーは下院を解散し、総選挙が実施されることになった。
チェンバレンは早速選挙活動に移ったが、ハルにおける演説のさいには、聴衆の間に、「チェンバレンを次期首相へ」というプラカードがあったという。地方では「急進主義綱領」は著しく人気があり、チェンバレンも農業労働者の声に合わせて「3エーカーの土地と一匹の雌牛を」と叫んだ。
将来首相となることになるロイド=ジョージとラムゼイ・マクドナルドは共に、チェンバレンの演説に魅せられた。一方、自由党主流は党決議を経ていない「急進主義綱領」を嫌った。保守党員はチェンバレンを無政府主義者と呼び、またある者は「ディック・ターピン」(追いはぎのこと)と比較した。
グラドストンはハワーデンにある私邸でチェンバレンと候補者調整を行い公約を決めた。しかしこのとき、進行中であったアイルランド自治法案についてのパーネルとの会談については知らせなかった。
チェンバレンはアイルランド自治法案について、「500万住民のアイルランドは同じく500万人が住む首都ロンドンと権利において何も異なることはない」と反対した。
選挙結果は自由党の勝利であったが、保守党とアイルランド独立党の合計に及ばなかった。12月17日、グラドストンの倅、ハーバートは新聞記者に「父はアイルランド自治を前提として組閣する意志があるようだ」と観測気球をあげた。この事件はハワーデン・カイト(凧)と呼ばれる報道合戦を招いた。自由党政権を磐石にするため、アイルランド独立主義者に譲歩したとの観測が生まれた。
1886年1月、アイルランド独立党の支持をうけ、グラドストンは首班指名をうけたが、自由党からハーティントンを始めとする18人の造反者を出した。第3次グラドストン内閣では、チェンバレンは自治相に就任した。だが翌年3月、グラドストンのアイルランド自治法案が明るみに出された。内容はアイルランド議会を創設し、アイルランド国内問題について全権を与えるというものだった。チェンバレンは保守党との連立についてバルフォアと相談しつつ、1886年3月27日、自治相辞任を申し出た。
チェンバレンは自由党内の多数派工作を展開したが、国家自由連合はグラドストン支持にまわり失敗した。4月9日、チェンバレンはハーティントンが主導する自由ユニオニストの会合に出席した。6月8日、アイルランド自治法案は下院にかけられ、30票差で通過しなかった。91人の自由党員が反対にまわった。
直ちに議会は解散され、総選挙が施行された。結果は保守党と自由ユニオニストの完勝で、下院で393議席を占めた。グラドストンの政治的読みは完全に失敗であって、アイルランド自治法案提出は過早にすぎた。
保守党=自由ユニオニスト連立政権が成立したが、チェンバレンは入閣しなかった。その主張する「急進主義」と保守党主流派との間の距離が広すぎたためである。保守党内改革主義者ランドルフ・チャーチル(チャーチルの父)との協調を模索した。ところが11月、そのチャーチルが突然、軍事費拡大を批判して辞職した。保守党主流はチェンバレンが裏で糸を引いていると疑い、チャーチルに従うものは少なかった。これによってチェンバレンも孤立することになった。
1887年8月、ソールズベリーは低姿勢を続けていたチェンバレンをアメリカとニューファウンドランド間の漁業交渉にため、渡米することを誘った。政治情勢に幻滅していたチェンバレンは早速これに応じた。ところが11月、英国大使館で開催されたパーティで、チェンバレンはアメリカ陸軍長官エンディコットの23歳の娘メアリーに一目惚れしてしまった。翌年3月帰国する前にプロポーズし、その11月、ワシントンDCで結婚式を挙げた。この結婚は成功で、メアリーは夫の野心をその死まで見届けた。
1889年以降、チェンバレンはバーミンガムに戻り、支持母体の確立に努めねばならなかった。グランドストンは最早チェンバレンを許さず、自由党に戻ることはできなかった。だが小選挙区制の下では小政党が生き残るのはたやすくない。1892年の総選挙では自由ユニオニストは47議席と惨敗し自由党が勝利した。そして、ハーティントンがデボンシャー伯となり上院に移ると、党首はチェンバレンがつとめることになった。まず保守党との関係強化が必要で、保守党下院指導者のバルフォアと良好な関係を築いた。
1893年2月、アイルランド独立党の支持を得るため、グラドストンは第二次アルランド自治法案を提出した。チェンバレンが委員会場で「グラドストン自由党」と賛成派を名づけると、殴り合いが起きた。法案は下院を通過したものの上院で否決された。1894年3月、グラドストンは上院権限削減法案を提出しようとしたが、流石に党内で賛成を得られず、辞職を余儀なくされた。ローズベリーが後任首相になった。ローズマリーはアイルランド自治法を凍結したが、政権は少数派内閣にすぎなかった。1895年6月、キャンベル=バナーマン陸相の問責決議案で自由党が敗れると、保守党・自由ユニオニスト連立のソールズベリー内閣に代わった。
ソールズベリーは外相を兼務(この当時イギリス首相は蔵相または外相を兼務した)したため、チェンバレンに外相以外のいかなる閣僚職もつくことができると申し出た。この内閣は自由ユニオニストの支持が必須であった。 大方の予想は蔵相または内相をとるとされたが、チェンバレンは植民相を選んだ。
この直後からジェームソン蜂起計画が練られた。そしてここから1903年の植民相辞職までがチェンバレンの最盛期である。途中、1902年7月のソールズベリー辞任のさいには首相に擬せられたが、保守党多数の支持が得られないとみたか、バルフォアに譲っている。
また1903年の植民相辞職も、関税改革=帝国特恵関税導入の国内キャンパーンのためであり、チェンバレンの帝国維持が地方生活者に有意義であるという信念からのものだった。だが、改革を叫び続けたチェンバレンであったが、この帝国特恵関税は的外れであった。つまり、労働者は帝国維持よりも「安いパン」を望んだのである。1906年の総選挙で自由貿易を主張する自由党が大勝すると、保守党は大幅に議席を減らした。自由ユニオニストは議席を護ったが自然崩壊し保守党と合同した。
1906年7月、チェンバレンは突然脳梗塞で倒れた。右手が不自由となり喋る速度が遅くなった。それでも関税改革とアイルランド自治法反対を続けた。1914年、1876年以来保持してきたバーミンガム西選挙区に立候補しないことを発表、事実上引退した。1914年7月2日、妻メアリーがサラエボにおけるフェルディナンド大公暗殺の詳報を伝えるタイムズ紙を読んでいる途中、大変を予想したのか突然遮り、瞑想し始めた。だが、その晩心臓発作に襲われ、永眠した。
ジョージ五世とアスキス首相はウェストミンスター寺院を埋葬地とすることを申し出たが、遺族はそれを断り、バーミンガムのユニタリアン教会墓地に埋葬されることになった。 |
グラドストン
(1809-1898)
阿片の適正な消費はあるか? |
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ソールズベリー |
1890年代末期はイギリス植民地をめぐり「敵」が出現した時代でもあった。すなわち、ベネズエラ国境紛争、スーダンにおけるマフディの反乱、ファショダ事件が相次いで発生した。そしてもっとも解決が難しいと思われたのが中国である。元来、イギリスは中国への興味は主として輸入である。すなわち、茶と絹はイギリスにとって大きな輸入商品であり、このため多くのイギリス冒険商人が上海と香港に居住し、またイギリス人役人が海関税務のため派遣されていた。
イギリスにとり中国は貿易相手として重要であり、ライバルとみられたロシアとフランスに対抗できる支那艦隊を派遣していた。
1897年、ドイツによる膠州湾租借、それに続くロシアの関東州の租借は、ヨーロッパ諸国による中国の分割が迫ったものと予感させた。ここでチェンバレンは保守党政治家には思いもよらぬ方策〜軍事同盟を考えた。
1898年1月、チェンバレンは中国問題における日本との同盟もしくは日米との同盟を閣議に提案した。この同盟はロシアによる華北全面占領に備えることを目的とした。閣議では威海衛の租借だけが当面の対策として認められた。2月に入ると、ソールベリーの病状が悪化した。チェンバレンは中国における対策は十分ではなく、さらに大胆な軍事同盟を求める必要があると考えた。
1898年3月の第一次英独会談
1898年3月29日、エッカードシュタインの斡旋により、チェンバレンと駐英ドイツ大使ハツフェルト"Paul
von Hatzfeldt"との会談がもたれた。会話の内容は極秘とされたが、植民地全般と中国に関してであった。ハツフェルトは、チェンバレンから、ジェームソン蜂起とクルーガー電報事件は些少なことで、両国は中国に留意して「防衛的性格の」同盟を結ぶべきとの提案をうけ驚いた。
だがこのときティルピッツによる第一次海軍増強法が議会に上程されている時期であった。ハツフェルトは外務省に照会したが、ビューロウ外相とホルシュタイン政務局長は賛意を示さなかった。イギリスとの同盟よりもロシアとの了解の方が好ましいと思ったのである。ドイツの策略はロシア陸海軍を極東に向わせ、露仏同盟を弱体化させることであった。三国干渉の旨み、山東省利権の獲得を忘れることができなかった。
ハツフェルトは外務省内の抵抗を抑えるため、4月25日、チェンバレンに植民地の譲歩を求めた。チェンバレンがそれに対する対価を明確にするよう求めると、ハツフェルトは何も答えることができなかった。こうして会談は何も生み出さなかった。
5月13日、チェンバレンはバーミンガムで「我々は同盟者をもたない。友人のないことを怖れる。我々は一人ぼっちである」と演説した。
その直後、トランスバールは1881年の平和条約で定められた「保護国条項」を明確化することを拒絶した。イギリスは戦争に発展することを予感し、ポルトガルとモザンビークのデラゴア湾を経由しての交通を遮断する交渉を開始した。するとドイツは早速干渉し、ポルトガルが破産したさいは英独でポルトガル植民地を分割することを認めさせた。この交渉を通して、チェンバレンは英独同盟の可能性を再度見出した。
チェンバレンの加藤高明への提案
1899年11月の第二次英独会談
南太平洋でも問題が起きた。1888年のサモア保護条約で英独米は共同でサモアにたいする外交権を得ていた。1898年、マリエトア・ラウペパ国王が薨去すると後継者問題がもちあがった。ドイツはマタアファを推した。だが英米はこれに反対した。内戦が勃発し、ドイツはイギリスにアメリカから離れ、味方になることを頼んだ。
だがチェンバレンは、エッカードシュタインに「去年、あれほどいろいろ申し出たではないか?もう遅い」といって拒絶した。ドイツ世論は反発を強めたが、一方、チェンバレンは1899年7月、ウィルヘルム二世を招請することにより、英独関係を一挙打開することを狙った。ソールズベリーは、妻が重篤に陥ったため看病せざるを得ず、ここからのイギリス外交はチェンバレン一手に任されることになった。
11月、サモア問題はイギリスがトンガとソロモン諸島を見返りにサモアから手を引くことで決着した。
11月21日、チェンバレンはウィンザー城セントジョージ・チャペルでウィルヘルム二世に英独了解をささやいた。すぐさまウィルヘルム二世は、ロシアとの関係を悪化させたくないこと、ソールズベリーの平時における孤立政策が英独関係を妨げたのではないか、と反駁した。
このような留保はあったものの、ウィルヘルム二世は良好な英独関係について肯定的であった。
さらにソールズベリーの代理として、ビューロウとも会談した。チェンバレンは露仏を牽制するためには、英独米の協調は有効ではないかと強調したが、ビューロウは英陸軍はロシアへの牽制としては役に立たないと論じた。
そのあとビューロウは、助け舟を出すようにチェンバレンに「公開の席でドイツに好意的な演説をしてくれないか」と頼んだ。同様にチェンバレンはビューロウに同様なことを議会で演説して欲しいといった。
ウィルヘルム二世とビューロウがイギリスを発った翌日、11月30日、チェンバレンはレスターで「チュートン人と大西洋両岸のアングロサクソン人による強力な三国同盟は、世界の未来に大きな影響を与えることになるだろう」と雄弁に演説した。
ウィルヘルム二世は謝辞をおくったものの、ドイツ外務省のホルシュタイン政務局長は「失敗だ」と酷評した。『タイムズ』はチュンバレンを「抑制もなく同盟という言葉を使用した」と攻撃した。
12月11日、ビューロウは議会で海軍増強法案を支持する演説を行なった。だが、チェンバレン演説には論及せず、代わりにイギリスは斜陽国家でありドイツを妬んでいると描写した。チェンバレンは驚愕したが、ハツフェルトは「ビューロウはたんに議会反対派への対策として発言した」と弁解した。
こうして、英独交渉は挫折したが、チェンバレンは完全に希望を失ったわけではなかった。
1901年3月の第三次英独会談
バルフォアとビクトリア女王に諭され、病弱のソールズベリーは外相兼任を解き、1900年10月、ランズダウンを外相に任命した。だが暫くは、チェンバレンがイギリス外交を担った。1901年1月16日、チャトワースハウスでチェンバレンとデボンシャーはエッカードシュタインに「いまだ英独米三国同盟に興味がある」と伝えた。ベルリンはこれについて好意的に受け止められた。だがドイツ外務省では、焦らず慎重にという意見が大勢を占めた。
1月に入るとビクトリア女王の容態が急速に悪化した。1月20日、ウィルヘルム二世が祖母の看病にとイギリスに渡った。その2日後、女王は薨去した。
ウィルヘルム二世はチャトワースにおけるチェンバレンの提案に好意的であり、喪中のことでもあり、異例の調子でドイツ外務省に同盟について検討するよう指示した。だが、ビューロウは急ぐ必要はなく、ボーア戦争におけるイギリスの戦況が悪化していることに留意すべきだと主張した。
ウィルヘム二世は随行員に止められて、チェンバレンと面会することはできなかった。だが出発の前日、マールボロハウスで英独同盟の可能性について演説した。
3月18日(エッカードシュタインが林董に日英同盟の構想を打ち明けた日でもある)、エッカードシュタインはチェンバレンを訪問し、同盟交渉の再開を申し入れた。だが、チェンバレンは1899年12月のビューロウ議会演説で不快な目にあったというだけだった。
これからあとチェンバレンはエッカードシュタインに提案をランズダウンに持っていくようにいい、自ら交渉の窓口から下りた。
ハツフェルトは改めて英独同盟の内容を伝えた。それはイギリスに独墺伊三国同盟への参加を呼びかけるものであった。これは少なくともチェンバレンにとり受け入れられる内容ではなかった。チェンバレンの興味は極東におけるイギリス貿易の維持であり、前年の北清事変を発生をみて、中国内治安維持は至上命令であった。イギリスが艦隊を出し、ドイツ兵が陸上で戦うことが同盟の内容であった。
北清事変
これにたいしハツフェルトはヨーロッパにおける攻守同盟を提案しているのである。
ソールズベリーも断乎として反対した。そして、首相の反対は閣議でなされたものの、じっさいの方針説明はチェンバレンによってなされた。
10月25日、チェンバレンは南アフリカにおけるイギリス軍の勝利を讃え、さらに「イギリス兵の行動は普仏戦争における兵士のものより賞賛に値する」と述べた。ドイツの新聞は怒りの叫びをあげ、ビューロウは謝罪を要求した、だが、ドイツの新聞が騒げば騒ぐほどチェンバレンの人気はあがった。タイムズは「チェンバレンは今現在、イギリスでもっとも人気があり信頼されている男だ」と評した。
このころからチェンバレンは駐英フランス大使カンボンと植民地・影響圏策定の話し合いに入っている。これが英独同盟案の最終的放棄となった。そして、日露戦争の最中の1904年、英仏協商として結実した。
英仏協商
ドイツはなぜ英独同盟を拒み続けたのか?
イギリスにとって、英独会談の主題は中国内治安維持であった。小陸軍のイギリスにとって、居留民保護のため、艦隊を提供し、ドイツは兵士を提供するという方法は非常に魅力があった。だがドイツからみれば、イギリスの中国投資や商売の保護のためドイツ兵を提供するというのは、狂気の沙汰にしかみえなかった。
この当時、ドイツ外交方針には「世界政策」(列強と植民地を争う)重視か、本国の「安全保障」重視かという目にみえない対立があった。というのは、外交官を除いてドイツ人誰しもがこの二つが両立すると思っていたのだ。
そして当然のことであるが、世界政策はいつでも放棄できるが、本国の「安全保障」は国家・国民の生死にかかわる問題である。ドイツ外務省はこの二つを両立させるため、英露の間で等距離にたち、英露の間に紛争が生じることを望んだのである。そうすれば露土戦争のときのように、仲介役として登場し、両方から報酬がもらえるものと考えたのだ。
だが、世界政策を求めるならば、英露いずれかと対立することは避けられない。バクダット鉄道をつくろうとすればロシアと対立し、艦隊をつくればイギリスと対立する。そして、イギリスがロシアと了解できる可能性を減らすためには、日英同盟は都合がよい。
そうみていけば、1901年3月18日、なぜエッカードシュタインが日本に日英同盟を持ち込み、同時にイギリスに三国同盟参加を持ち込んだのか、よく理解できる。日本が日英同盟成立により強気になり、ロシアにたいし強い外交姿勢で臨めば、ロシア陸軍は東に向うだろう。そうすれば、本国の「安全保障」に役立つ。そして、イギリスが三国同盟に参加すれば、ドイツは新しい四国同盟の盟主となることができる。
世界がすでにヨーロッパ諸国によって分割済である今、ドイツが「世界政策」を成功させるには、どうしたらいいか?それにはドイツが、ヨーロッパ五大国の一つではなくて、ヨーロッパのリーダーにならねばならない。新しい四国同盟はそれを可能にする。
だがイギリスは、下風にたってまでのドイツとの関係改善を望まず、四国同盟はなくなった。ドイツ外務省はこれについては読んでいた。読んでいなかったのは、ロシア陸軍が本当に東にいきフランスが不安を抱えるようになり、イギリスに譲歩を決意することだった。フランスにとり露仏同盟はドイツに東西両面作戦を強いるためのものであった。
フランスは植民地における懸案を犠牲にしてイギリスと了解に達した。これは、1066年のノルマン公ウィリアムのイギリス侵攻以来、838年ぶりの外交革命であった。この間、両国は百年戦争・イスパニア継承戦争・七年戦争・アメリカ独立戦争・ナポレオン戦争とほぼ絶え間なく争っていたのである。
3月18日のエッカードシュタインによる二重提案はじつは、英仏了解は不可能という前提にたっていた。だが、日英同盟が英仏了解を導き出すことに気づかなかった。
さらに予想を超えたのは、日露戦争の勃発と日本の勝利であろう。ロシア軍は極東に遠のき、また敗戦により弱体化し、ドイツ人は1871年の建国以来、もっとも確実な「安全保障」が得られたと感じた。外交政策は大胆になり、アガディール事件、ボスニア危機、タンジール事件を引き起こした。だがドイツの脅威が英露の眼前に現れると、両国は互いに了解し合う方向に進んだ。英露協商の成立がドイツの悪夢、「ドイツ包囲」の完成である。
チェンバレン外交の評価
じっさいには英仏会談はチェンバレンが担当している間には実らなかった。フランス駐英大使であるカンボンはチェンバレンを信頼できる交渉相手とみなさなかった。
「チェンバレン氏がなんら政治的原則をもっていないことを忘れてはならない。彼はその一瞬だけに生きており、信じられない気安さで意見を変えてしまう。彼は自分の過去の意見表明を変えることに何ら恥ずかしさを感じない。そして自己撞着を引き起こしても気にしない。彼は世論が何を欲しているか敏感に感じ取る。そして、世論を誘導しながら、その起伏に従う。人気がでるのもまた当然だろう」とカンボンは評した。
チェンバレンは内政においては、福祉政策、政府介入による物価政策、また普通選挙推進など社会主義的な政策を主張した。ところが外交政策においては、一貫して「帝国主義」(当時は、植民地拡大や居留民保護を重視する政策をいった)の旗を降ろさなかった。植民地拡大は労働者や農民に人気があった。
内政では、党派の離合集散、同僚議員の説得によって新規政策や新規立法が可能である。ところが外政では、これは不可能であって、相手国の敵意は簡単に消えるものではなく、簡単に同盟国を得られるものでも、古くからの同盟国を切れるものではない。国家が離合集散したりすることはなく、外交官や君主が互いにテーブルについたところで敵意が消えるものではない。
ところがチェンバレンは国内政局にたいするかのように、外交に当たった。そして、ジェファーソン蜂起が国際法違反であることを承知しながらあえて承認を与えた。チェンバレンはこの事件を自らの経歴の中でもっとも恥ずべきものと思ったのは疑いない。1898年以降の英独会談はこれの代償行為であろう。
だが、チェンバレン外交がボーア戦争を招き、ドイツを増長させ、第一次大戦の背景をつくったこともまた事実であろう。
日露戦争に戻る
ジェームソン蜂起に戻る