チャコ戦争は、第1次大戦の明らかな後遺症と思われる戦争を別にして、国家対国家の戦争としては以降初めての戦争だった。
ただ、この戦争は太平洋の戦争に破れ海への出口を失ったボリビアの大西洋へ出る運動であり、その意味で太平洋の戦争の後遺症と言える。ボリビアは南米の1820年までに宗主国スペイン・ポルトガルの意向を無視して独立した五つの国、ブラジル・パラグァイ・アルゼンチン・ペルー・チリと異なりスペインのラパス副王府の系譜を引いている。経緯からアンデス山中に孤立しインカ末裔のインディオが多数を占める国だった。
太平洋の戦争
国内はスペイン人征服者コンキスタドールの子孫が支配層にいたが、混血が進んでおり混血者と純粋インディオの国と言えるかもしれない。ただ純粋インディオは未だ人口の75%を占めた。一方ボリビアが狙ったパラグァイはロペツ戦争で成人男子の80%が戦死した打撃を蒙ったあと、ブラジルとアルゼンチンの保護下に置かれ、軍備の水準は絶望的に低かった。国民の大半は17世紀以降入植したヨーロッパ系の農民で原住民のインディオ、グァラニ族と混血していた。
直接のボリビアとパラグァイの係争地はグラン・チャコと呼ばれる不毛の地だった。
ボリビア・パラグァイ国境
係争地
係争地グランチャコは殆ど人間が住むことがなかった。ここで採れる有用作物はタンニンの木だけであり、それを採集する人々がかすかに点在した。起伏はほとんどなく潅木が生い茂っていた。
ここを初めに開拓しようとしたのはパラグァイの土着民(グァラニと呼ばれスペイン語とグァラニ語の混じった言語を喋った。)だった。グァラニはここに家畜を持ち込み放牧事業を営もうとした。しかしチャコには雨が降らず、植物はアンデスからの伏流水または河川によって生き延びており、ここに牧草を茂らすためには井戸を掘削せねばならず、高価でありまたリスクも高かった。
19世紀末からパラグァイ政府は米国で迫害にあったメノ教徒を誘いこの地に入植させていた。その人々は勤勉さの賜物で大体の所成功していた。
メノ教会は宗教改革の直後、オランダのサイモン・メノンによって開始された。主張は洗礼は物心がついた大人になって行うべきだというもので、別に個人の内面による信仰、迫害に対する無抵抗、反近代文明などが他のキリスト教と異なる点である。カトリック・プロテスタント双方から迫害を受けた。ペンシルバニア州のアーミッシュと呼ばれる、非洗礼派の人々も同じ系統に属する。
|
一方ボリビアは、パラグァイが1810年独立した時グランチャコはスペインが決めたボリビアの行政区画に属しており、当然ボリビアに帰属すると主張した。これはこれで筋が通っており、グランチャコにはいわば土地の名義人と耕作人が違うという関係が存在した。
太平洋の戦争の後遺症と油田の発見
ボリビアは太平洋の戦争(1879−84)に敗北し太平洋岸を失った。これについてボリビアでは長い議論が続いた。そして最近になって権力を握った政治家、新聞記者、大学の若手教授は、その反対大西洋岸を目指すべきだと主張し始めた。そして敗軍の参謀将校グループもこれに唱和し、軍備拡張を実行に移した。
1928年突然、油田がアンデス山脈の麓で発見された。南米では比較的規模が大きいものだった。アメリカの銀行は石油開発資金を融通した。しかし資金の大半は軍備拡張に振り向けられた。
そしてある途方もない考えがボリビアの人々に浮かんだ。油田は地下の鉱脈を伝って、グランチャコまで伸びているに違いないと…。そしてより現実の問題、輸出港を発見しなければならない。それにはラプラタ川の流域にあるパラグァイを攻めるにしくはない。
1928年末、ボリビアはパラグァイ川に石油積み出しのための港湾施設をグランチャコに設けた。すぐにパラグァイ軍は周囲に監視哨を設けた。散発的な銃撃戦が開始された。ボリビアはパラグァイ軍の攻撃だとして国際連盟に提訴した。
国際連盟は直ちに反応し調停委員会を設けて、両国に自重を促した。だがボリビアにとりこれは時間稼ぎに過ぎなかった。軍備拡張は着実に進みまた第1次大戦の東部戦線で戦ったドイツの退役将軍クンツを雇い入れた。
更にイギリスのビッカース社と契約を結び戦車を購入また60機に及ぶ軍用機を購入した。

ビッカース・マーク6型戦車
ボリビアはクンツの主張に沿いあくまでも近代戦を実行しようとした。
一方パラグァイはボリビアのように豊富な資金の持ち合わせがなかった。参謀本部の若手は第1次大戦の後半にフランスに観戦武官として出張しそれなりの体験を得ていた。しかし作戦を立案する能力まではない。そこで人件費の安い所で帝政ロシアの将軍を呼ぶことにした。
フロンティアの戦いの敗者、ドラングル将軍の幕下にあったベレイエフ(Belaieff)とポルフェネンコ(Porfenennko)を雇い入れた。しかし武器を調達せねばならない。1932年春、パラグァイ政府はヨーロッパに武器の買い付けのため文民を派遣した。この文民は完全なアマチュアだった。ヨーロッパには第1次大戦に使用された大量の武器が余っていた。だがアマチュアは武器の値段と仕様について全く無知だった。
イギリスの武器商人も足元を見た。18ポンド野砲の3分の1でストークス迫撃砲が買えるというので飛びついた。ストークス迫撃砲3丁が野砲に匹敵すると思われないし、外観を見ても鉄量は10倍はありそうだ。しかしアマチュアは砲の数が増えると喜び高価な弾丸のことは忘れ大量に買い付けた。
両国の政治
両国とも普通選挙による大統領制をとっていた。しかしボリビアではインディオの識字率は低く、軍政ともコンキスタドールの子孫が掌握していた。そしてボリビア軍の参謀将校グループは政治家に従わず、上官の命令にも従わず政治権力を掌握するためのクーデターを狙う集団だった。サマランチャ・ボリビア大統領はこの軍中堅層の不穏な動きを見てむしろ、軍備充実と開戦のイニシアチブを取りに行った。
スタンダード石油にサマランチャ(Samalanca)が動かされていたと、その後社会主義革命を標榜しクーデターを引き起こした左翼佐官グループが主張したが、ためにする逆宣伝にすぎない。戦争を扇動して油田地帯を保有する国がデフォルトしたならば石油会社の支配人は首が飛ぶだろう。
エスティガリビア
一方パラグァイのアヤラ(Ayala)大統領は軍事センスは別として、大不況後の経済回復のため努力していた。また軍事については、この戦争で最も優れた司令官としての才能を見せた将軍エスティガリビア(開戦時大佐その後元帥
: Estigarribia)に任せるという賢明さを持ちあわせていた。
エスティガリビアは南米に多く見られる、文民の命令を無視するタイプでなく、軍の統帥に関して両国にはかなりの隔たりがあった。エスティガリビアはまた築城・歩兵操典・作戦立案の多くを白系露人のベレイエフに頼ったが、「いつ」「どこで」の基本は掌握しており司令官として一流の人物であったことは疑いない。
エスティガリビアはまたこの時期の将軍には珍しく、馬上の司令官だった。すなわち幾度も前線に足を運び兵士と苦楽をともにした。
チャコ戦争(2)に進む
D計画に戻る