チャコ戦争(3)

結末

1934年アリフワタ・ピチアンプタ線をパラグァイ軍は突破した。しかし、ロペツ戦争当時のように馬の戦いでなく、この戦争は歩兵の戦いであり軍隊は徒歩の速度でしか進めない。これではボリビアの要地サンタクルツまで進撃するのに何年かかるのか?そのうえ敵の首都は更に離れまた3000メートルの標高にあるラパスだ。

1934年末パラグァイ軍は飛行場があり、また油田を後背地とするビラモンテスの前面に殺到した。ここではボリビア兵も最後の一兵まで戦う覚悟があり戦線は、ビラモンテス・インガビ線で膠着した。

パラグァイの政治家は戦果に興奮した。サンタクルツ周辺の沃野を奪い、油田を奪取するのだと息巻いた。同様にボリビアの参謀将校は、自分達の失敗を棚にあげて第3の軍で決戦に臨むと主張した。第1と第2の軍は失われたと言う意味だろうか。そして1934年大統領サマランチャが前線視察に出た際、クーデターを引き起こしサマランチャを逮捕、代わりに副大統領のテハダ・ソルザノ(Tejada Sorzano)を据えた。この参謀将校グループは戦争期間中、ついにラパスを離れることがなかった連中である。

しかし実際の所両国とも最早戦いを続ける力は残っていなかった。パラグァイの文民は戦闘機で成功したことに味を占め、今度はイタリー製のCV33突撃タンクを決戦兵器として購入した。


CV33

これは失敗だった。暑さ対策がなかった。窓を開けて走っては最早戦車ではない。パラグァイ兵士に必要なのは高価な兵器ではなく、ライフル・水・そして傷病兵を後送し、補充兵を得るトラックだった。そして人口がボリビアの3分の1に過ぎないパラグァイは最早人的な余力が尽きていた。パラグァイは農業国だった。3年に亘る戦役で田畑は荒れ、家畜は疲弊していた。

パラグァイの国際連盟脱退

1936年中立6ヶ国委員会(アルゼンチン・ブラジル・チリ・コロンビア・ペルー・米国)は両国の休戦を宣言した。そして両国とも内心では歓迎しながら、大国の横暴に逆らえない素振りを見せて応じた。平和条約の交渉は長くまた300年間の歴史を怒鳴りあうものだったが、1938年ブエノスアイレス条約として発効した。パラグァイは係争地グランチャコの大部分を確保した。ボリビアはパラグァイ川に自由通航権と港湾利用権およびパラグァイ川へ到着するための狭い回廊を得た。

エピローグ

その後、時代は国家主義と社会主義の対立に入っていった。勝者も敗者もその流れに逆らうことはできなかった。1936年、パラグァイでは南米最後の自由党政権を率い、戦争指導にも大きな失敗がなかったアヤラおよび、その片腕でもあった救国の英雄エスティガリビアが、右翼国軍幹部によってクーデターにより追放された。和平の条件が甘すぎたと言うのだ。

そしてこの右翼政権は国家社会主義を標榜し、ドイツ系移民の軍官僚シュトレーゼナー(Stroessner)に引き継がれた。シュトレーゼナーの警察国家はなんと1954年から1988年まで続いた。その間パラグァイは南米2番目の最貧国に転落した。

ボリビアでも事情は大差がなかった。同じく1936年既に軍の傀儡となっていた、テハダ・ソルダノ政権も突然の軍のクーデターに見舞われた。一度も作戦を成功させたことがなく、また戦争中も首都を離れることがなかった作戦部長トロ(Toro)大佐が、社会主義を標榜し政権を握った。スローガンは「インディオに土地を、鉱山を国家に」と言うものだった。

右翼隊付き将校であり、トロのクーデターに抗して戦ったリオハ大佐は言う。「チャコ戦争敗軍の統帥で最も責任のある参謀が受け取った報酬、それは政権だった。」

その後は左翼同士が大学教授を交えて政権をクーデターの手段により交代させた。そしてその経済政策は全て失敗であり、錫鉱山の国有化もさんざんな失敗に終わった。その間、ボリビアは南米最貧国の地位を不動のものにした。ボリビア軍部は従属経済打破を唱えたが、政権にいた間に農産物輸入国家に転落した。そして代替すべき工業は振るわず、現在もそれは海への出口がないためだとしてチリと海岸線復活の交渉を行っている。

石油は?グランチャコに石油は結局出なかった。ボリビアの石油は現在少量ではあるがブラジル経由のパイプラインで輸出されている。グランチャコは元の静けさに戻った。あの勤勉なメノ教徒は現在もグランチャコで黙々と耕作と酪農を営んでいる。最近では日本の青年海外協力隊がここまで来て、活発な農業指導を行っているようだ。




Thompsom, R.W. An Echo of Trumpets, London, 1964
Zook, David H. The Conduct of the Chaco War, New Haven, 1960

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