イソンゾ川を挟むオーストリア=ハンガリーとイタリーの戦いは、1917年10月までに11次にわたって戦われたが決着をみる事がなかった。オーストリア=ハンガリー皇帝フランツ・ヨゼフは1916年11月薨去し、甥のカールが即位した。カールはこのまま戦争を続行することは最早国力の耐えるところでないと判断し、ドイツとは一線を画しフランスとの交渉による和平を追求した。そして攻勢一点張りのコンラートを革職、参謀総長にストラウセンベルグを据えた。
イタリーの参謀総長カドルナはこのオーストリアの動揺を好機ととらえ、1917年前半2度にわたりイソンゾとトレンチーノで攻勢に出た。それまで大きな前進を果たせなかったイタリー軍は失地回復に成功し、更に、イソンゾ川の渡河に成功した。
カポレットー戦直前のイタリー軍
イソンゾ川に陣取るイタリー軍
横1線に陣取り、普通ジグザグをなす塹壕とは異なっている。兵士も横1線に並んでいる。おそらく対岸まで距離があるため、突破されることはないと言う判断があったのだろう。士官も立ち上がり演習の雰囲気である。しかし独墺軍は未明、小舟艇で突破に成功することになる。
ドイツはこの戦線の崩壊を座視することはできない。ルーデンドルフは、ベロウと山岳戦のエキスパート部隊であるデルメンジンゲンのアルパイン猟兵師団を派遣した。独14軍(ベロウ)が猟兵師団とオーストリアの師団を加え12個師団をもって編成された。ベロウは新戦術である浸透戦術(フーチェル戦術)による突破作戦を立案した。
10月24日深更、突然3500門による砲撃がイソンゾ川沿い全戦線に亘って開始された。砲弾の大半はガス弾で、ホスゲンを中心とする窒息性のものだった。独14軍前面のイタリー第2軍(カッペロ)はイタリー3軍のなかでは最も弱体であるうえ、右翼が前進した結果できた突起部のなかで比較的長い戦線を守備していていた。
イタリー兵にとりホスゲンは新型ガスであったため、ガスマスクの有効性に疑い(実際は効果があった)をもった。しかも比重が重い特性があり比較的長く戦場に止まり、また地下壕に滞留し逃げ込んだ兵士に被害を与えた。
砲撃はわずか5時間に過ぎなかった。午前7時、15名前後で分隊を形成したドイツ猟兵が、イタリー軍陣地を急襲した。午前中に独墺軍はイタリー軍の前進壕・予備壕の全縦深を突破、正午からは早くもイソンゾ川の渡河を開始した。午後2時対岸のカポレットーを占領した。突起部にいたイタリー第2軍はこの時点で消滅していた。
翌日最早イソンゾ戦線の守備が不可能と判断したカドルナは、第2軍・第3軍(アオスタ公)・第4軍のタグリアメント川までの撤退を命令した。
ドイツ軍にはしかし時間がなかった。ルーデンドルフはイソンゾ川前面の敵を消滅させたことで満足し、ただちにベロウに4個師団を西部戦線に戻すことを要求して来た。ドイツ軍は猛追撃を開始し10月30日タグリアメント川の線に到達した。
この時フォシュは危機を察知しフランス軍4個師団の派遣を提案した。ロイドジョージも突然のイタリー戦線の崩壊に驚愕しロバートソンを特使として派遣することを決定した。しかしこの時点でイタリー軍はすでに25万人の損失を蒙っていた。
11月1日、イタリー第3軍と第4軍とによりタグリアメント川に即興の防衛線を構築した。ベロウは墺10軍のコルチナダンベツォ方面からの突進を命令しこの軍を川の後方に回り込まさせ、包囲殲滅を企画した。しかしカドルナは既に戦闘意欲を喪失していた。タグリアメント防衛線を自発的に放棄しピアブ川までの全面撤退を11月3日指令した。この時からイタリー軍は完全に敗残の軍となった。
ロイドジョージとフランス首相パンレーベは急遽イタリーに向かった。11月7日、ジェノバ近郊ラッパロで統一指揮を話し合った翌日、二人はローマに向かい、カドルナの革職を建言した。翌日カドルナは、参謀長職をディアツに譲った。英仏軍の西部戦線からの移動が開始された。
11月12日、独墺軍はピアブ川に到達した。残ったイタリー軍も西岸に布陣を終えた。13日イギリス軍司令官プルーマーが到着直ちに、ピアブ川沿いに展開を始めた。11月16日、ベロウはピアブ川渡河を命令した。しかし英仏軍を加えたイタリー軍の抵抗は激しく、ベロウは被害の拡大を恐れ、23日までに攻勢の中止、守備線の構築を命令した。こうしてカポレットー突破戦は独墺軍大勝利のうちに終了した。
イタリー軍は戦死1万人、戦傷者3万人、捕虜29万3000人、脱走者30万人、計略60万人の大損失を蒙った。これにたいし、独墺軍の損害は戦死・戦傷2万3000人に過ぎなかった。イタリー人は現在でもカポレットーの地名を最大の恥辱をうけた場所として記憶している。
カポレットー戦とイタリーの教科書
この戦いの教えるものは浸透戦術(フーチェル戦術)の圧倒的破壊性である。これは防ぐためには縦深陣地の構築と戦略予備の機動的投入、攻勢移転が必要である。イタリー軍は知識(戦訓)・訓練・有能な指揮官いずれも欠いていた。
またベロウの指揮が徹底性を欠き、追撃戦(平行追撃)の迫力を欠いたと言う評がある。独墺軍の兵員数は戦闘前で3分の2に過ぎず、ピアブ川で同量となったことを考えれば、そもそも中央同盟諸国の戦争資源がロシアの脱落があるにもかかわらず相対的に枯渇し始めていたとも言える。
ただ150Kmの前進を3週間でやり遂げたことは、独墺軍の迫力を示してあまりある。
クレマンソーのカポレットー戦についての評
歴史はなお、この戦いのあと20年後の同じ季節、突破後250Kmの前進を1ヶ月でやり遂げた軍を極東で見ることになる。

Falls, C., Caporetto 1917, London,1966
Seth,R., Caporetto: the Scapegoat Battle,
London, 1965
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