ブルガリアは1878年の露土戦争のあと独立を果たした。この戦争はブルガリア独立運動をトルコが弾圧し、1万5000人に死者を出したことが発端となった。ロシアは、この戦争の前段階のトルコとセルビア・モンテネグロの戦争にも義勇軍を派遣した。ロシアはキリスト教徒をトルコから守ろうという宣伝を展開しており、それにこたえるヨーロッパの若者また軍人がいた。
ベルリン会議により独立が決められたあと、ブルガリア議会は1879年、バッテンバーグ家のアレクサンダーを、ブルガリア公として選出した。アレクサンダーは露土戦争に義勇将校として参軍していており、またロシアのアレクサンダー二世のいとこでもあった。
アレクサンダー公
しかしアレクサンダーは君主権の強化を求め、議会と対立した。そしてドイツのフリードリッヒV世の公主ビクトリアと結婚し、ドイツとの結びつきを深めた。これに、縁戚関係のあるイギリスのビクトリア女王が支持を与えた。
ロシアも当初、アレクサンダーを支持したが両者は次第に対立する関係となった。1884年、アレクサンダーはロシア軍事顧問団を国外追放した。1885年東ルメリアにいたブルガリア人が蜂起し、アレクサンダーはそれを支持し統合を宣言した。
突然、国境を接することになったセルビアは、これに驚き、1885年11月ブルガリアに宣戦布告した。スリプニッチャで両国軍は衝突したが、ブルガリアは大勝し、周辺諸国を驚かせた。オーストリアが仲介に動き、休戦協定を結ばせるとともに、翌年コンスタンチノープル会議を開催し、東ルメリアとブルガリア公国の統合が確認され、ブルガリア自治公国として成長することが約束された。(ただしオスマン帝国の宗主権が改めて確認された)
しかし、ロシアはアレクサンダーの勢威が向上することを望まず、ドイツの後押しも得た。
ウィルヘルム皇太子(のちのウィルヘルム二世)はアレキサンダーが公位につくことに反対し、またビスマルクも同意しなかった。ビスマルクは三帝同盟の解消後、「再保障条約」としての復活を狙っており、ロシアとの関係を崩したくなかった。
再保障同盟
ところが、オーストリアはセルビアを警戒し、その対抗相手としてブルガリアに期待する面があった。1886年8月に親ロシア派の軍将校によるクーデターが発生しアレキサンダーは逮捕され、ロシアに送られようとした。そこにまたクーデター反対派が武装蜂起し、アレキサンダーは再度ソフィアに戻された。
いずれにせよ、ロシアのアレクサンダーV世はアレクサンダーに退位を勧告した。
フェルディナンド国王(在位1887−1918)
代わりに公として推薦されたのが、サックス=コバーグ=ゴータ家のフェルディナンドだった。だが、ロシアはフェルディナンドにも反対した。1886年12月の選挙で大勝したスタンボロフ首相がようやく親ロシアの陸軍を説得した。
Ferdinand Sax-Coburg-Gotha,
Tsar of All Bulgars(1861-1948)
フェルディナンドは公位につく前はオーストリア=ハンガリー軍の将校であり、これを歓迎したのはオーストリアだけだったと言ってよい。
ところが、フェルディナンドは即位するとすぐに、スタンボロフとも対立し、1894年5月首相を辞職させた。(翌年暗殺されたが、フェルディナンドが関与したとするのが有力である)
1908年、青年トルコ党による革命が起きると、フェルディナンドは好機とみて、オスマン帝国の宗主権を否定し、古都トルノボで「ブルガル人のツアー」という称号のもとで、王国として独立することを宣言した。
当然、トルコはこれを承認せず、1913年の第一次バルカン戦争につながることになった。フェルディナンドはこの時、反トルコ戦争だとして、セルビアとギリシャの同盟に成功したわけだが、戦勝とともに立場は逆転し、第二次バルカン戦争が発生、セルビア、ルーマニア、トルコに攻められ、戦争の成果はほとんどなかった。
第一次大戦ではブルガリアは中央同盟諸国にたち参戦した。ブルガリアはそのうち最も早く1918年9月連合国に休戦を求めた。フェルディナンドは10月に自発的に退位し、長男のボリスV世に王位を譲った。
ボリスV世
ボリスV世が王位についたのは24歳だった。戦間期は目だった業績のない立憲君主だった。試練は第二次大戦とともやってきた。周囲が、すべて親独国に囲まれる中、ブルガリアに選択はなく1942年米英に宣戦を布告した。
BorisV,King of
Bulgaria
しかしボリスV世はロシアに宣戦することは拒絶した。
更に、ユダヤ人のポーランド移送に抵抗し、ブルガリア在住のユダヤ人6万6000人のうち5万5000人が救われたと、ブルガリア・ユダヤ人教会が発表している。
イスラエル政府はこれを理由に「勇気ある人」としてボリスV世を顕彰したが、2000年にこの決定を取り消した。事情はブルガリア議会の要請によるものとしているが、詳細は不明である。
ボリスV世は1943年心臓発作により、突然死した。この事件はヒトラー面会の数日後発生し、毒殺ではないかという疑いをもたれた。現在にいたるまで、その死の真相は謎である。
シメオン二世
ボリスV世の長男である、シメオン二世が王位についたのは6歳のときだった。その翌年に、ソフィアはソ連軍により占領された。ソ連は1946年、形だけの住民投票を実施し、王制を廃止し「社会主義共和国」の成立を宣言した。
シメオンは9歳だったが、エジプトに逃れた。そこでイギリスの学校に通ったのち、スペインのリセ・フランソワ、アメリカのバレー・フォージ(ペンシルバニア)士官学校で教育をうけた。
シメオンは2001年4月ブルガリアに帰国し、シメオン二世国家主義運動という政治団体を組織した。この政党は2001年6月の選挙に大勝した。ただ、この政党は王制に復帰するという主張を掲げていない。
シメオンは共産党を含む挙国一致内閣の首相となった。
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