外務省の記者発表

外務省の記者発表

外務省の記者発表

外務省の記者発表

外務省の記者発表

3月26日外務省は第3次南京事件について次のような記者発表を行なった。

山東軍が南京を守るを得ず敗退の兆しあるや南京日本領事は下関にある第二四駆逐隊司令と協調の上まづ予め領事館に武装せざる水兵20名を士官引率の下に派遣し、城内に在留する我が居留民を領事館に収容してこれが保護に努力した。然るに3月24日午前4時半いよいよ南軍が城内にいり始めるや最初は格別異常がなかったが間もなく南軍の将校は約30名の兵士を引率しわが領事館に来たり事なく退去した。

次いで午前7時半帯剣の兵士多数侵入し来たり暴行を始め我が水兵および領事館員等これを防止したに拘わらずこれを継続しその間我が駐在武官根本少佐、木村警察署長負傷するに至ったが正午国民党の代表来館して兵士の暴行を制止して領事館より去らしめ次いで南軍第6軍長も来館して警備兵を領事館に派遣するに至ったので始めて事なきを得た。

然るにこれに先立ち下関における我が第二四駆逐隊司令は前日山東軍の敗兵は渡江の際下関で略奪あるいは盗巣をなし危険の恐れあったから万一を慮って下関在住の日本人中まず婦女子を駆逐檜および日清汽船のハルクに城内の在留日本人は領事館にそれぞれ収容しおきたるも24日は英米の軍艦と南軍との間に砲戦開始されたるため更に危険を感じたるゆえ暫く下関在留日本人全部を艦内に収容した。

その際日清汽船ハルクに対しそこともなく射撃が起こり後藤機関兵流弾に当たりなお射撃はますます盛んであったので駆逐檜は居留民を収容して安全の水面に転じ形勢を注意することとした。

おりから城内危急の報に接したるをもって25日早朝駆逐隊司令は自ら特別陸戦隊を引率して城内の領事館救護に向かったが途中南軍側から城内は既に静まり危険なきをもって列強側の砲撃を中止させてくれとの報道に接したるもなお城内の混乱を慮り南軍側に交渉の上城内にはいり午前10時半領事館に到着午後6時半領事以下残留居民全部を駆逐檜に収容するを得た。

この間英米側では24日城内の居留民を英米領事館に避難させようとすると城壁から狙撃起こりかつ停泊の軍艦を目標にして乱射、これを始め甚だ危険となったによって英米の軍艦はこれに応じて射撃を始め一つは避難民保護のため一つは支那軍隊威嚇のため射撃は1時間続いた。英米司令の情報によると米国人男子90名余婦人45名英国人約30名行方不明の状態であったが25日になって米領事館も襲撃された模様で現に英国領事館員英国水兵3名負傷英国人港務員1名死亡し一時英米在留民は進退きわまったるも前記の砲撃のため支那軍隊四散し英米の陸戦隊は直ちに避難民を城外に助け出して軍艦に収容した。

これはわが国の平時の政府発表のなかで最も恥ずべき虚偽でかためられたものの一つである。

外務省が虚偽または隠蔽した点は次の通りである。

  • 領事が水兵の武装解除を指示したことを隠蔽している。
  • 婦女子は多数が領事館内にも収容され、国民党兵士により強姦されたことをあたかも水上に収容され難を逃れたように説明している。
  • 後藤機関士は24日午前中国府軍兵士がハルクへ乱射したことにより射殺されたのにもかかわらず、英米軍と国民党の銃撃戦の流れ弾が命中したようにされた。

外務省はなぜこのような虚偽の発表をしたのだろうか?

一つには英米との共同軍事行動を拒絶した幣原外交を合理化したいためである。二つ目には日本人居留民の被害を隠蔽し、蒋介石との外交を円滑に進めたかったためである。このような方針をとり相手国の歓心を買っても決して国益の擁護につながらない。

またどこか正常でない国と国交を正常化することにより、外交官の、また政治家の得点としてはならない。まず刻下の問題が解決せねば国交が正常化してもなにかプラスになる事はない。国民も八方美人外交で、どことも仲良くなれ嬉しいなどという少女感覚を棄てなければならない。

この国府軍の野蛮な行為に米国世論は沸騰した。上海に本部を置いた米極東海軍司令官ウィリアムズ提督は蒋介石に最後通牒をおくり警告した。そしてハワイより巡洋艦3隻と駆逐艦8隻を急派した。事件が起きるまで大統領クーリッジは反英運動や反日運動がこれまで大規模に発生したことを考え今回もそちらに向かい米国民に危害が及ぶことはあるまいと考えたようだ。

また国務長官ケロッグは「中国に起きたことはボルシェビズムでも国民再生でも軍国主義でもない。況や革命でもない。昔と変わらない中国があるだけだ」と議会に報告した。

極東軍事裁判ではこの事件は全く無視され。米国人検事は日本がこの時期から中国を支配下に置くことを考え実行したなどと全く史的事実と反する論告を行なった。そしてアメリカの歴史学会では日本の膨脹主義をなぜ早い時期に摘まなかったなどと見当違いの論争が現在でも行なわれている。この事件を検証すればアメリカは1941年12月8日まで蒋介石を全く信用しなかったことは簡単に理解できるはずだ。

そして幣原外交の失敗が、決して膨脹主義からもたらされたものでなく、全方位外交という名の無法者をも許容する痴呆的外交だったことは今日的意義を失わない。

第3次南京事件の真実