ブラジルの独立

ブラジルの独立

ブラジルの独立

ブラジルの独立

ブラジルの独立

ブラジルの独立

ブラジルの独立

ブラジルの独立は他の中南米諸国とは全く異なる形で進んだ。独立の契機はポルトガル王家から与えられた。

摂政(のちドン・ホアンY世)のとった自由主義

ドン・ホアンY世(Dom Joao VI ; 1872-1826,King of the United Kingdom of Portugal, Brazil and the Algarves)

1807年ナポレオンのポルトガルへの来寇を恐れたポルトガル王家の摂政・皇太子は家族、廷臣とともに本国をイギリス船によって離れブラジルの地に亡命した。リオデジャネイロに到着すると摂政は直ちにそこに宮廷を開設した。この事態はブラジルとポルトガルの地位を逆転させたかのようだった。そして摂政はイギリスと友好関係を維持し全ての国と通商関係を結び開港場を設置した。そして商業や工業の新規事業に便宜を計り、新聞の発行などを奨めた。一方摂政はフランス流共和制の根拠を作ったとみなした学校教育を嫌った。

以降のポルトガル王室の政治は経済上の自由主義支持と学問や文化における民主主義または共和制への嫌悪という奇妙な二面性を示すものとなった。もちろんスペイン植民地各地の急速な独立、共和制の成立はブラジル人にその可能性がブラジルにもあると思わせた。摂政は1815年これに対し、不思議な回答を与えた。すなわちポルトガル・ブラジル・アルハルベス連合王国と国名を変更したのだ。これはブラジルが本国と同様の地位にあることを知らせたものだった。翌年摂政はドン・ホアンY世として連合王国の国王となった。

もちろんこれで独立や共和制の火の手が消えたわけではない。しかし幾分、勢いが削がれたのも事実だった。

ポルトガル本国の国王帰還運動

1820年本国に住むリベラルなポルトガル人はこの年王権の制限と国王の帰還を求めて暴動を起こした。この事件はむしろブラジルの独立を加速させる方向で働いた。そしてリベラル派が起草した憲法では、ブラジルは本国議会に代表を送れることとされた。それ以上はなんらブラジルの特権を認めることはなかった。この憲法の意図は国王をリスボンに引き戻し、立憲君主制度を樹立、ブラジルは現行のままの属領とすることにあった。

国王は避けることのできない判断を求められた。1821年、ドン・ホアンY世は長男の皇太子ペドロをブラジルに残し帰国することにした。帰国のさい皇太子に言った。「いいか、もしブラジルがポルトガルから分かれることになれば、自分の力でブラジルの王位に就け。」

ドン・ペドロT世(Dom Pedro T; Constitutional Emperor and Perpetual Defender of Brazil, 1798-1834)

ペドロもまた生来リベラルな人物でブラジルの独立と自由によく理解を示した。1822年3月リオデジャネイロ市から、「ブラジル憲法の永遠の守護者」のタイトルを受け入れた。それまでブラジルの各州は独立してポルトガルに帰属する形式をとっており、このブラジルを冠せられたタイトルが公式に認められたことは国家意識の形成にとり大きな前進だった。

1822年9月、ペドロはサンパウロ近くのイピランガという小川を旅した。そこでメッセンジャーがポルトガルからの連絡を伝えた。そこにはペドロの布告の取り消しと廷臣の反逆罪の嫌疑による起訴の可能性について書かれていた。

ブラジル帝国の成立

ペドロはブラジルの独立を決心した。リオデジャネイロに戻ると「独立か死か」と縫い付けられたリボンを腕にまとい劇場に登場した。大歓呼のなかでペドロは独立を宣言した。12月1日、ペドロは皇帝を名乗りブラジル帝国の成立を宣言した。こうしてブラジル皇帝ドン・ペドロT世が誕生した。

1826年、成文憲法も制定されブラジルは立憲君主国となった。そして他のスペイン諸国が戦乱に明け暮れ11の共和国が成立するなか超然と平和を維持することができた。とりわけ、ペドロは海軍の設立に注力しその艦隊は他の中南米諸国を圧倒した。一方ブラジルの内陸部は未開の世界であり、人間が中に入ることすら拒絶していた。そして地域対立として、南北、バヒア=ペルナンブッサとサンパウロ、リオデジャネイロの対立があった。ホアンは頻々と発生する地方における暴動または匪賊の跳梁を鎮圧するため、コチュラーネ将軍を重要しそれなりの成果をあげた。

しかし皇帝の人気もそこまでだった。退潮の原因は個人生活の乱れと恣意による人事発令によるものだった。そしてシスプラチン戦争の敗北、本国ポルトガルにおける弟と娘の対立、そして内戦は国内の不満をかきたてた。ホアンは1831年、リオデジャネイロでの暴動を横目に見て、弟との内戦のため父と同じように本国に帰った。なおポルトガルは1825年ブラジルの独立を承認している。

エピローグ…ブラジル・ブラガンザ王朝の倒壊

ドン・ペドロT世が本国に帰還したあと長男のドン・ペドロ二世が帝位を継いだ。ペドロ二世は先代と異なり、やや専制的な人物で人気があったとはいえない。それでも大きく立憲君主の枠を越えることはなく、また二つの戦争、ロサス戦争とロペツ戦争を乗り切った。

ドン・ペドロ二世(Dom Pedro二;1825-1891)
公式の名前は著しく長い。Pedro de Alcantara Joao Carlos Salvador Bebaino Xavier de Paula Leocadio Miguel Gabriel Gonzagaで他に肩書きは書くに及ばない。名前と同様にペドロの治世は49年の長きに及ぶ。鉄道の敷設、電信電話郵便事業の確立は功績にあげてよい。ただ最大の功績はクーデターに遭遇し武力による抵抗をしなかったことだろう。国土を離れるとき「ブラジルに光栄と繁栄あれ」と共和国の指導者に電報を送った。1991年君主制復帰に関するすべての法令が撤廃され遺骸の一部はリオデジャネイロペトロポリス寺院に再埋葬された。このケースは君主制の廃止が進歩や自由となんの関係もないことの証明だろう。

ところがブラガンザ王朝の倒壊は何の前触れもなく突然やってきた。1889年11月、ドン・ペドロ二世が退位し、長女を皇位につける案が検討されているという噂が広まった。新聞はそれに伴い、軍の大幅な人事異動が行われると伝えた。11月15日、軍の一部と急進派がリオデジャネイロでクーデターを起こした。一握りの軍人が街頭に出て「ブラジル合衆国の設立」を宣言してまわった。ビラにはデオドロ・ダ・フォンセッサという無名の軍人が責任者だと書かれていた。そして反乱軍人は王宮に行き、皇帝とその家族も24時間以内のブラジルからの退去を要求した。

要求は何の条件もなく受け入れられた。11月17日、ドン・ペドロ二世とその家族は誰からも見送られることなくヨーロッパへ旅立った。

これは他の国でもまた時代を変えても起きそうにない不思議な事態にみえる。いろいろな説明がなされている。ある人は中南米ではクーデターが常態で、みな変化を求めているのだという。しかしブラジルではこれが初めてのクーデターである。またブラジル人は成功したアメリカの顰にならい、とにかく共和制にすれば成功は確実だと確信したにすぎないともいわれる。名前に合衆国を入れたのもその現われだと…。しかしなぜこの時期にかは説明できない。またこの年に奴隷制度が廃止された。これまで君主制を支持してきた大規模地主層がそれにより態度を変えたともいう。これもくたびれたマルクス主義的階級闘争論のようなもので、具体的な裏づけは何もない。

あらゆる歴史的事象と同じく偶然の出来事なのだろう。そしてブラジルの人々が国を去る元皇帝を見送らないのも何か忘恩の徒の気もするかもしれない。ただ見送れば流血の惨事も予想された。なにも興奮するようなことがないのが平和のあかしなのだ。現在のブラジルの人々は君主制について批判的でない。リオデジャネイロにはドンペドロT世大学があるし帝国博物館や皇帝が定めたブラジル薔薇勲章は現在でも生き延びている。

とにかくブラジルは独立と共和制への政体変更という二回の大変化をほぼ血を流すことなくやり遂げた。



J. C. Fletcher and D. P. Kidder, Brazil and the Brazilians, Boston, 1879
Frank Bennett, Forty Years in Brazil, London, 1914

シスプラチン戦争に戻る
ロサス戦争に戻る
ロペツ戦争に戻る