日清戦争黄海海戦


日清戦争の黄海海戦(1894・9・17)は、伊墺間のリサ海戦(1866)以降、初めての主力艦を含む艦隊同士の海戦である。

清国は、この海戦に12隻を集中した。(ただし平遠・広丙は水雷艇を伴い、延着)

排水量トン

砲力

速力

定遠

7335

30×4

14・5

鎮遠

7335

30×4

14・5

来遠

2900

21×2

15・5

経遠

2900

21×2

15・5

靖遠

2300

21×3

18

致遠

2300

21×3

18

平遠

2100

26×1

11

済遠

2300

21×2

15

超勇

1350

10×2

15

揚威

1350

10×2

15

広甲(鉄骨木皮)

1296

15×2

15

広丙(鉄骨木皮)

1000

12×3

17

対する日本も(赤城と西京丸は通報艦としての参加だが、途中、実戦に加わった)12隻である。

排水量トン

砲力

速度
松島

4278

32×1

16
厳島

4278

32×1

16
橋立

4278

32×1

16
扶桑(鉄)

3777

24×4

13
千代田

2440

12×10

19
吉野

4216

15×4

23
浪速

3709

26×2

18
高千穂

3709

26×2

18
秋津洲

3709

26×2

18
比叡(鉄骨木皮)

2284

17×2

13
赤城

623

12×4

10
西京丸(木)

4100

12×1

15

表の上からは、清国有利にみえるが、実態はそうではない。速度についていえば、日本は4時間半の戦闘期間中、10ノットを維持したが、清は7ノットでしかない。また砲力は主砲のみであり、4・7インチ(120ミリ)から6インチ(150ミリ)の中口径砲では、日本が圧倒的に有利だった。

また、日本は伊東佑享の率いる本隊と坪井航三の率いる遊撃隊(吉野・高千穂・秋津洲・浪速)とに分けた。遊撃隊は14ノットの高速で運動した。これは当時としては異例の速さである。

遊撃隊先頭の吉野は主砲6インチ4門をもつ、第二次大戦までまで維持された軽巡の原型をなしており、この戦いで大いに活躍した。

吉野
吉野はイギリスで建造された。主砲6インチの他、4・7インチ8門を装備した。
ブラッセー海軍年鑑には22ノットと記載されたが公試で24ノットを出した。
アームストロング社ペレット技師の畢生の成功作という。世界最高速艦と新聞に書かれた。
日露戦争の時、旅順港外で春日の衝角を当てられ沈没した。

単縦陣と横陣

坪井航三のあだ名は単縦陣(LineAhead)であり、この陣形を10年来主張してきたという。リサ海戦において、テゲトフが横陣(LineAbreast)を用いて勝利した実戦例があるのだから、相当に勇気のある主張である。

ただ、テゲトフの横陣は衝角戦術を前提としたものであるが、砲戦を前提とすると、単縦陣となるのは、当時の各国海軍では理念的には正しいとされていた。実際のところ艦隊演習を、いろいろな陣形で試してみても単縦陣は有利だった。ただ、これはシュミレーションにすぎず、国運がかかった実戦でやることは別の話である。

一方、清国北洋艦隊司令丁汝昌は横陣を当然のこととして用いた。主力艦である定遠級、来遠級、平遠はいずれも主砲が前方発射できるように設計されており、敵の舷側に主力砲を向けながら突進し、衝角で体当たりするという戦術は北洋艦隊にとり前提だった。

戦闘は午後0時50分、定遠が吉野に第一弾を放つことにより開始された。この時の距離は5800メートルといわれる。ただし、砲戦がたけなわとなったのは3000メートルに入ってからである。

海戦

日本の連合艦隊は遊撃隊と本隊をわけたが、これは本隊の遅速のためである。ところがこのやり方、高速部隊を本隊から独立させて別個の指揮のもと運用するという考え方は、極めて斬新である。第一次大戦ではイギリス、ドイツがそれぞれ巡洋戦艦を独立させ運用し遊撃隊とした。だが、多くの海戦はその互いの遊撃隊同士の砲戦で終了することになった。これはなぜかといえば、双方が遊撃隊をもったためである。

この戦いでは清国北洋艦隊が高速艦部隊をもたないため、日本の連合艦隊が十字砲火を浴びせるという事態が出来した。

すなわち本隊が高速を利して、敵の背後に回り、遊撃隊は更なる高速により取り舵回頭により、逆方向から再度、砲撃を実施した。

遊撃隊と本隊は、北洋艦隊右翼の2隻、揚威と忠勇に射撃を集中した。この2隻は砲戦開始後、30分にして沈没した。切り離された比叡(艦長、桜井規矩之左右)は本隊に合流せんと、定遠と来遠の間を近道した。この行為が独断専行か否か、はっきりしないが、あとで豪胆な行為として賞賛された。

この段階、すなわち日本側が第一合戦と呼ぶ砲戦の前に北洋艦隊の戦列は乱れてしまった。そして椿事が起きた。済遠と広甲が戦場から遁走し、旅順に戻ってしまったのだ。合戦に臆したというしかないが、一九世紀と二〇世紀の海戦において唯一の軍艦敵前逃亡事件である。済遠の艦長、方伯謙は、この翌日、銃殺に処された。

この時、北洋艦隊の定遠にはドイツ人、(陸軍砲兵少佐)ハネッケン、鎮遠にはアメリカ人、(海軍退役少佐)マッギフィンが乗り込んでいた。両人ともこの海戦について詳細なレポートを残した。

ここからはマッギフィン(Philo Norton McGiffin)の報告に従うことにする。("Century", August, 1895)

「ここからは残念なことに、中国艦隊はバラバラの形となってしまった。日本本隊は単縦陣による完全な操艦をみせつけた。そして反対側には遊撃隊があり、我々は十字砲火を浴びることになった。本隊がコース変更すると、定遠・鎮遠も方向を変え、常に艦首を敵艦に向けるように操艦した。鎮遠は、定遠との距離を維持したが、これは全戦闘期間守られた。
 日本人もこの動作は確認できたと思う。鎮遠は定遠の危機を何度か掩護射撃で救った。ただ、それに伴って被害も増大した。
 日本本隊は残り4隻の小艦艇は無視し、定遠・鎮遠に砲火を集中した。本隊の5隻は執拗に周囲を回り、砲弾の嵐を落した。
 時折、火災が発生したが、炎はあまり困難がなく消火された。いくつかの敵艦はメリナイト弾を使っているようだった。有毒ガスの発生により識別できる。
 日本のある艦は、統一指揮による舷側射撃(Broadside Firing by Director)を実行した。これは、舷側の全門を同一の目標にたいし、一つのキーを押すことにより同時に発射することである。
 このシステムは艦の構造を変更することを要するが、非常に効果的だった。同時に命中弾を浴び、5〜6ヶ所に火災が発生した。

 混乱した隊形を修正するため靖遠は鎮遠の後方を通り、来遠に加わり、そして残りの艦は右翼につくように命令された。その時、広甲は赤城と西京丸に向かい攻撃を開始した。
 この時である。致遠は大胆にも、戦列から離れ、広甲に加わることを決めた。すると日本の遊撃隊は突如向きを変え、赤城と西京丸の救助に向かった。
 だが不運なことに、喫水線下に10インチか12インチ砲弾が命中したらしく、艦が傾き始めた。それでも致遠は屈せず、赤城に衝角突撃をかけんとした。
 遊撃隊4隻から、雨とおぼしきような猛烈な射撃が浴びせられた。致遠はその衝角が赤城に届く前に船首から海面に沈み、横転した。あまりにも、突然なため、海面にあがってきた乗組員はほとんどいなかった。致遠の機関長だった同僚のパービスも運命をともにした。
 日本本隊は戻りながら、我々の陣を包囲するように距離を縮めてきた。松島までの距離が1700メートルとなったとき、鎮遠の12・2インチ砲が轟然と火を吐いた。巨弾は松島に見事に命中した。砲術長とみられる将校が海に投げ出され、帽子と双眼鏡が波間に浮いていた。後で聞いた報告によると49名が即死し、55名以上が重傷を負ったとのことである。
 日本本隊はひるんだように一旦、南西に引いたが、再度戻ってきた。この時、鎮遠では全部で148発あった6インチ砲弾を全部使い果たしていた。12インチ砲は一つの砲台は破壊され、また残弾は主砲用の鋼鉄榴弾25発しかなかった。事情は定遠も同じだった。
 それから後一時間半、我々は一方的に撃たれた。

5時になり、30分ほど砲撃したあと、敵は撤退を開始した。これは不思議なことで、敵はどうやら我々が残弾なしだとわからなったらしい。敵はまだ弾丸が豊富にあったようにみえた。ともあれ、これは歓迎すべきことだ。
 一方、遊撃隊は赤城と西京丸を救援したあと、先頭にあった経遠に砲撃を集中した。とりわけ吉野が猛烈に射撃を浴びせた結果、経遠は炎上、沈没した。
 そして、ようやく日没となり、我々は旅順に向かうことができた。
 しばしば、なぜ我々は日本人に敗北させられたのだ?と問われる。答えは簡単だ。日本人は我々より良い船をもち、豊富に弾丸をもち、より良い将校と水兵をもっていたからだ。だが、日本人も認める通り、弾丸の命中率は我々の方が良かった。日本人の命中率は10%だが我々のは20%に達していただろう。
 我々は広甲に50ポンド速射砲を3門もっていただけだ。敵は無数に速射砲をもっていたようだ。日本水兵の勇敢さと、将校の敢闘精神は認める。だが、非難を浴びている中国水兵のためにも一言いわせて欲しい。彼らは、雨のように注ぐ速射砲弾の中で戦った。上甲板は血の海だ。それでも彼らは戦い続けた。
 また日本側の公表には偽りがある。日本人は損害を隠すために、船体には鉄板を張り、上部にはキャンバス布を張り、その上にペンキを塗った。そして賢くも外人の目から損害を隠したのだ。
 日本人が鴨緑江海戦で勝利したのは事実だ。だが日没をよいことに遁走したのも事実だ。夜間には全く再戦を起こす気力がなかった。四隻の水雷艇は河口にいただけで出ようともしなかった。彼らは威海衛に向かうものと思った、と言っているようだが、彼らのコースからいってそのようなことはない。だいたい、彼らは威海衛に修理施設がないことは十分承知していたはずだ。
 日本艦隊は我々と同様の状態にあったに違いない。」

エピローグ

このあと、旅順港に逃げた北洋艦隊は、陸側から旅順を攻囲される形勢となり、更に、そこを撤退し、威海衛に逃げ込み、水雷艇攻撃と地上からの攻撃とにより全軍降伏した。

また、連合艦隊が清の敗残艦を追わなかったことには理由がある。旗艦松島の速射砲の大半が破壊されたことにより、伊東佑享は旗艦機能を失った(不管旗"Unable to Control"をあげた)と、僚艦に知らせた。が、この結果、かえって僚艦は心配となり続々と松島周辺に集まり、追撃の機を逸したのである。これを現在に至るも批判するむきがあるが、軍人とは友軍の危機にさいしては、あくまで救援するものであって、批判するときには後知恵でない観点からいう必要がある。

この戦いはまた、重要な事実を世界に教えた。すなわち巡洋艦が戦艦に勝利したのである。三景艦(松島・厳島・橋立)は1門にすぎない巨砲をバルベッテに置いたが実戦には、全く役立たなかった。そしてマッギフィンの証言通り、12・2インチ榴弾が松島に命中し多数の死傷者を出したが、船体が沈没するような損害を与えたわけではない。


厳島

北洋艦隊の四隻が、6インチまたは4・7インチ速射砲によって撃沈されたのも、また事実である。すると疑問が生じる。日本の各艦が速射砲をもっていたから勝利できたのか?それとも速度が優っていたため勝利できたのか?あるいは両方か?

速度の点からいえば、マッギフィンは速度の速い敵にたいし、衝角戦法は無効だとしている。これは誤りでリサ海戦では単縦陣で攻め込んできた速度で上回る敵に、テゲトフは横から衝角であてている。これと同じ局面は北洋艦隊にあったはずである。それでも、日本の艦隊運動が優れていた結果、リサ海戦より、常に僅かに距離があき、衝角をあてるに至らなかった。

北洋艦隊の主砲や三景艦の主砲の発射速度は1時間に2発もない。ところが4・7インチ速射砲は1分間に2発発射できる。つまり、速射砲で装甲をもつ戦艦を沈めることはできないが、上部構造を破壊できる。そして艦隊運動を活発にすれば衝角戦術をとることは難しい。

坪井航三(1843-1898) 周防三田尻の出身。医師原顕道の次男。長州藩庚申丸で実戦経験をもつ。その後コロンビア大学に留学した。日清戦争後、常備艦隊司令長官

こういったことを坪井航三は事前に予想しており、戦いの前に次のように述べている。(伊藤正徳、『大海軍を想う』文芸春秋新社、1956)

「定遠沈まずとすれば、これを沈める必要はない。艦上の敵兵を射掃して皆殺しにすれば即ち定遠無きに等しい。うまく行けば分捕れるのではないか。自分の軍艦も沈む覚悟で衝撃するのは邪道である。戦闘員を殺傷して戦闘力を奪うのが最善であり、それには艦隊操作と速射砲の活用とが肝要である」

坪井は実に適確に黄海海戦の推移を見通している。更に、威海衛において臆した水兵の反乱により、北洋艦隊は降伏し、定遠・鎮遠ともに拿捕したこと事件をみれば、薄気味悪いくらいの千里眼的予言といえる。

これにたいし、第二次対戦の重巡利根艦長にして砲術の大家、黛治夫は黄海海戦について次のように述べている。(黛治夫『艦砲射撃の歴史』原書房、1977)

「今から考えると、日本海軍には定遠級大型装甲砲塔戦艦を洋上で砲撃撃沈する自信はなかった筈である。もしそうだとすれば、洋上で確実に定遠型を沈めるには、衝角を用いる衝突戦術があるだけである。このためには多少の改造を要したであろうが、扶桑、金剛、比叡、高雄などには、有効に老躯を活用できたであろう」

黛は海戦に勝利することは、敵艦を沈めることだと曲解しているわけである。また扶桑などには衝角があり、それを下手に改造すれば重心が狂ってしまう。喫水線下の改造は簡単ではない。昭和の軍人の発想がこの程度であるとすれば、戦争に敗北したのも無理のないことである。


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