巡洋戦艦以前、6インチ砲ハリネズミ巡洋艦
巡洋戦艦は第一次大戦の海戦で主要な役割を果たし、またその美しい艦形で現在も記憶に残る。ところが、大きい巡洋艦なのか、それとも早い戦艦なのか、となると定義が難しい。また日本を除いて巡洋艦の主目的は通商破壊(=防衛)であり、艦隊決戦の補助とはされておらずまたそれが名前の由来である。
まずフィシャーは巡洋戦艦を発明したと自称したが、新発明か、それほど画期的なのか、という点では疑問が残る。すなわち1890年代には、すでに新しいタイプの巡洋艦の建造が開始されていた。ハーベイ鋼(表面を炭素化工し、強化したもの。ほぼ同時にニッケル合金鉄が利用され始め、それの表面をガス燒結させたものはクルップ装甲と呼ばれた)の発明により薄い鋼板で従来の厚い防御鉄板に匹敵する防御能力をもつことができた。これによって重量が軽減された分を他の用途に回すことができるようになる。
そしてエンジンやボイラーの改善により、装甲巡洋艦はかなり速度の向上(18ノット→21ノット)も果たせるようになった。これは1900年代後半に建造された巡洋艦(ポスト対馬)を念頭におけば当然のことと思われるかもしれないが、1880年代に建造された巡洋艦の多くは実は18ノットが精一杯だったのだ。つまり、その当時巡洋艦は戦艦に対しても速度が大きく上回っていたわけではない。
装甲巡洋艦
これらに加えもう一つの要因が加わる。6インチ砲の速射性の向上である。これに比較して12インチ砲の速射性は改善がみられなかった。この事実は大口径砲数門しかもたない戦艦に対して多数の6インチ砲をもつ巡洋艦はそのスピードとあいまって対抗しうるのではないかと考えさせた。とりわけどこの国の海軍軍政当局も大口径砲は長距離であれば命中させることが難しいと信じていた。当時射撃を管制するという考え方がなかった。
当然、斉射(サルボ)をしても、第1の弾着を確認したあと敵艦は動いてしまい実効性がないとされていた。ところが速射砲であれば弾丸を歩かせ(移動射撃を行なう)ながらその目標を容易に固定し、ホースで水をかけるように仕留めることができるとされた。
そして装甲巡洋艦はある射程範囲に飛び込めば、戦艦より砲戦が有利に運ぶことができるのではないかと結論づけられた。とりわけイタリー人とロシア人は戦艦の装甲を貫通できる8インチ速射砲を装備すれば速射砲と徹甲弾の理想的な組み合わせだと考えた。
だがこれらは例外で、他の国に波及しなかった。6インチ砲はりねずみ装甲巡洋艦は、前または前後に2門または4門の8インチまたは10インチの砲を置き、それは接近戦になったときの仕留め役として期待されるだけだった。
そしてこのような巡洋艦が1890年中盤まで主流だった。フランスのフォルニエ提督(Fournier)はこの艦種を万能艦だと主張した。つまり戦艦を仕留める役目を果たすと同時に通商破壊の役目(当然護衛も)も果たすと論じた。そして、日清戦争の黄海海戦はそれを実証するかのようにみえた。
そして対馬海戦である。この時東郷提督は装甲巡洋艦を戦艦の戦列に並べ成功した。また上村提督は巡洋艦隊を率いて単なる主力艦隊の補助ではなく、いわば主力と準独立して行動する高速艦隊として機能させた。いわば、巡洋艦隊の主目的、通商破壊=遠洋への単独航海という使用法とは離れ、いわば主力艦補助として使ったことになる。
この段階で通商破壊、戦艦狩り、主力艦補助と三つの相矛盾する用途が装甲巡洋艦の用途として生じたことになる。
フィシャー型巡洋戦艦
そこでフィシャーに戻ろう。フィシャーが日露戦争の海戦とフォルニエの著作に影響を受けたのは確実である。フィシャーの基本的考え方はこの万能艦に更に圧倒的な高速という要素を付加したことである。
ここにフィシャーの有名な格言、「速度は装甲である」が生まれた。だがその背後にあるのはポーレン(A.H. Pollen)
射撃管制計算機の発明、それによる砲術の中央管制だった。この計算機は大口径砲による遠距離射撃を可能とさせた。そして中央管制を実施することにより各砲、各砲塔でなく、一艦の主砲すべてが同一目標に対し斉射が実行できるようなった。中距離(5000〜1万メートル)の公算射撃の開始である。これによって大口径砲をもつ巡洋艦は戦艦をアウトレインジできる可能性を生じた。つまり高速を利して任意の距離まで接近し射撃を加え離脱するという作戦がとれるのではないかと。アウトレインジできれば自らの装甲を厚くする必要はない。その重量は機関または砲に投入することができる。
フィシャーは自らの考案になる戦艦ドレッドノートの建造がスタートしたあと直ちにこの概念による巡洋戦艦3隻の建造計画を提出した。フィシャーにとりドレッドノートは単に改良された戦艦だったが、超装甲巡洋艦または巡洋戦艦は真の万能艦であり海戦の行方を決定的に変化させるものだった。このようにして建造されたのがインビンシブル級であり、薄い装甲・高速・大口径砲を特色とした。
インビンシブル
ただここで当然の疑問が生じる。もし戦艦がポーレン射撃管制計算機を備え付けたらどうなるのか?すると巡洋戦艦は戦艦の主砲範囲に入れないことになる。すると艦隊決戦のような場面では強行偵察のようにしか使えない。しかしもし敵もそのように巡洋戦艦を使用したらどうなるのか?
答えは明らかで巡洋戦艦の間だけで海戦が展開され、不利な側は戦艦を引き上げてしまうことになる。重要なのは巡洋戦艦同士の叩きあいに勝利することである。するとまた前の問題装甲に戻ってしまう。つまり重量を大きくして装甲を厚くすればよいことになる。装甲が薄いことが特色のフィシャー型巡洋戦艦は、時代が経過するにつれその特色が無くなることになった。
それではフィシャーの支配していない他国の海軍はどう考えただろうか。
ロシア・日本・ドイツ海軍の巡洋戦艦
まずロシア海軍は戦艦と巡洋艦は協同して戦うことしか念頭になかった。また対馬の敗戦に影響され海戦に勝利するためには、やにはに敵の先頭艦(=旗艦)を仕留めることだと考えた。このような考えにたち主力艦グループよりわずかに高速の装甲巡洋艦を構想した。こうして造られたのがイズマイル型(1915年完工)である。そして、イズマイルの装甲はロシアのドレッドノート第1号ガングートより厚かった。この結果、ロシア人が与えた名前は戦列巡洋艦だった。
次に日本海軍だが、初めから最後まで通商破壊目的の艦船を建造する意志がない。つまり万能艦という発想がそもそもない。このため旧式戦艦を多少上回る速度で、戦艦とならんで戦える大口径砲をもつ巡洋艦を考えた。つまり発想はロシアと類似した。装甲を厚くし速度を犠牲にした準ドレッドノート級巡洋戦艦筑波・伊吹がその具体化だろう。ただその後戦艦よりも(大型)フィシャー型巡洋戦艦を主力艦とする政策をとった。この方針に従ったのが金剛クラスでフィシャー型よりも2インチ厚い装甲、高速、8門の強力な14インチ砲を特色とした。これが4隻まとまれば、同数の戦艦との海戦になっても対抗できるとした。つまりフィシャー型巡洋戦艦の大型化であり、砲戦でも戦艦に勝利でき速度も凌駕できる。つまり太平洋のような広い水面であれば実質無敵の戦いを挑むことができる。
そしてドイツである。ドイツの建艦政策は何か一貫していない。つまり仮想敵はイギリスだとしても数で劣勢であることは明らかで、単艦で僅かでも、イギリス艦を上回ればよいという発想にたっていた。巡洋戦艦建造も基本的にはその考え方である。つまり結果としてフィシャー型に引きずられ類似型のものを造ることになった。ドイツの巡洋戦艦はフィシャー型よりも装甲が厚い反面、主砲の口径が小さい。だが明らかに艦のサイズ、そして装甲一般はフィシャー型である。つまり建艦競争を繰り広げている(からこそ)両国のみがフィシャー型巡洋戦艦を多数建造するという奇妙な結果となった。
ユトランド海戦
そしてユトランド海戦である。この戦いの中心はイギリス、ビーティの率いる巡洋戦艦隊とドイツ、ヒッパーの率いる巡洋戦艦隊の激突だった。結果はイギリスは3隻の巡洋戦艦を失いドイツは1隻失った。この結果をみてフィシャー型巡洋戦艦の敗北と捉えるむきがある。これは誤りである。というのはドイツ巡洋戦艦も実はフィシャー型の亜流にすぎない。また多くの論者はドイツ艦の装甲が厚いもしくはカバーする面積が広かったため有利だと結論づける。これも首を傾げる。というのはイギリス艦沈没の原因は砲塔に命中した弾丸が下の火薬庫まで達し、誘爆したことにある。つまり装甲の有り様によってではない。ドイツの誘爆防止扉が優れていたのだろう。
そしてドイツ艦は上部構造が大被害を受け修理のため6ヶ月間就航が不可能になった。これもドイツのダメッジコントロールが優れていた結果などと評されることがあるが、そう単純でもない。イギリス艦はよく沈んだにせよ上部構造の完全破壊からは免れている。この戦いは北海で行なわれた。つまりドイツは基地のあったヘリゴランド・バイトからそう遠くない地点で合戦を予定した。このため上部構造を破壊されても帰投は容易だった。しかし、もし基地から離れた外洋で戦われたならばどうか?上部構造を破壊された艦はおそらく基地への帰投は容易ではないだろう。
つまり、フィシャー型巡洋戦艦の世界で装甲が厚く口径の小さい砲を積むドイツ型(少数)と装甲が薄く大口径の砲を積むイギリス型(多数)では、やはり命中する弾丸が多く強力なイギリス型がやはり有利ではないか。そして6ヶ月艦隊に復帰できなければ制海権の奪い合いという観点からみても、単純に沈まずよかったとはならない。
そしてフィシャー型巡洋戦艦は万能艦として考案されたもので、その意味において広範囲な水域で通商破壊を行なう目的は副次的でなく主たる目的である。もし自国の基地から数百マイルしか離れることができないとすれば、自国の商船を護衛することはできない。ドイツの巡洋戦艦がもし通商破壊の目的をもつ必要がなければ(すなわちバルト海の海運とドナウの水運によって自国の軍需物資は確保できると考えるならば)日露のように戦列に並ぶ高速艦と位置付ければよい。つまりドイツの場合、建造した艦船と戦略が合致していない。
一方、イギリスはフォークランド海戦でドイツの6インチ巡洋艦部隊(シュペー艦隊)を巡洋戦艦2隻で撃滅しており、また大戦期間中大西洋の制海権を維持しえたわけで、結果だけとるとドイツと同日には論じられない。
ユトランド海戦後の巡洋戦艦
ではユトランド海戦以前で巡洋戦艦または万能艦として最も優秀な艦はどれだろうか?速度・装甲・砲のいずれをとっても日本の金剛級だろう。日本海軍は通商破壊の目的でなく主力艦のつもりでこれを設計した。だが実際にはイギリスのライオン級をベースに設計されており万能艦としての性格は残していた。
ただその時の金剛が巡洋戦艦なのか、それとも高速戦艦なのか議論は分かれるだろう。その後名前だけだが新規設計の巡洋戦艦を造り続けたのはイギリスとアメリカ(レキシントン級、概ねフッドと同等)だけである。イギリスは金剛級をベースにレナウン級、そしてフッドを建造した。そして歴史上巡洋戦艦を名乗る艦としてフッドが最後となった。
フッドはフィシャー型巡洋戦艦とは離れより厚い装甲をもっていた。そして途中で計画は放棄されたG3級巡洋戦艦は装甲がより厚く、イギリス艦政当局もここではフィシャーの呪縛から離れたとみるべきだろう。また同時に計画されたN3級戦艦は大和級と同じ18インチの主砲で計画されており、この放棄されたイギリスの計画は日本のものと奇妙な一致をみせる。
そして日英当局はそろって未来の主力艦のイメージは18インチ、より高速、より厚い装甲で一致した。これこそがフォルニエの主張する万能艦だと認識された。ところがワシントン条約により35000トン・16インチ以下のキャップが主力艦に課せられると、これの実現は不可能となった。
巡洋戦艦の歴史はここで終了である。金剛級、フッドなど、レキシントン級はいずれも大改装を実施しフィシャー型巡洋戦艦の骨子からはずれている。これらは最早巡洋戦艦と呼ぶべきでない。
普通各国海軍は仮想敵を打倒するため敵の艦船を一回り上回ろうとして軍艦をデザインする。ところが第一次大戦前のイギリス海軍はこういった一般的な建艦政策をとらなかった。つまり想定しうる海軍が全部連合してもイギリス海軍はそれを凌駕せねばならないと考えた。フィシャーはその思想の落とし子で、架空の敵と架空の地域で戦う巡洋戦艦を構想した。そして第一次大戦の主だった海戦は全て巡洋戦艦が関係し、背後の主力戦艦隊の存在はあるにせよ、巡洋戦艦よって制海権の帰趨は決定された。
巡洋戦艦同士で勝てる艦を追求すれば更なる大型化を招き、戦艦との区別を難しくさせてしまう。ところが時代がくだりオランダ海軍だけは、フィシャー型巡洋戦艦の構想を練った。
デロイテルの謎
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