アルメニア人の虐殺


アルメニア人の虐殺は期間は1915年4月15日に開始され、終了したのは明確でなく、1922年頃と言われる。そして、その時までにキリスト教徒のアルメニア人はトルコ領内に存在しなくなった。

現在のトルコ政府はこの事実の存在を否定しており、治安維持および敵軍(ロシア軍)のスパイ殲滅および戦闘員を戦死させたことがある、としているだけだ。

処刑など積極的な殺戮は成年男子にしか加えておらず、女・子供は一応シリア方面などへの追放に止めた。ただ食料などは十分ではなく、また虐待されたため、途中で相当数が死亡した。この経過についてはシリアに駐在していたドイツ人によりある程度記録が残されており、多数の女性・子供が死に追いやられたことは確実である。

第1次大戦後アルメニア人の一部は報復として、トルコ内外に居住する外交官や政府要人に無差別に近いテロを近時においても加えている。ただ現在独立したアルメニア共和国とは無関係である。また、同国政府は現在の対トルコ国境線について不承認としており、緊張状態が発生してもおかしくない。またアメリカ政府はセーブル条約について、大統領府は承認したものの議会は批准しなかった。(アメリカはオスマン帝国またはトルコに宣戦しなかった。)これはローザンヌ条約によって新しい条約関係に入った英仏とは異なっていた。

実際問題として、トルコ東方国境についてアメリカがトルコの主張を否認する方向で考えたことはなく、現実的には、1945年のポツダム会議でスターリンによるトルコ領土割譲要求(第2次大戦でトルコは中立)をトルーマンが否認したことにより、承認したと考えざるを得ない。しかしこれを以って、トルコがアルメニア人を虐殺した事実は消えない。

現在のトルコ政府はこの事件を青年トルコ党がやったことだとして切り捨てるようなことをしていない。もちろん一切の謝罪も拒否している。

青年トルコ党のアルメニア人迫害の理由

オスマン帝国はアナトリアに居住するトルコ人が主流を占めており、世俗におけるイスラム教徒の指導者カリフの称号を得ていた。イスラム法においては帝国内の非イスラム教徒は一定の条件、納税などを果たせば一定の自治が許され、かつ自由民(二等市民ではあるが)としての活動が許された。

第1次大戦まで多少の軋轢はあったが、トルコ人とアルメニア人の間で大きな武力衝突はなかった。これはバルカン半島に居住したキリスト教徒とは大きな違いで、それだけトルコ人またはイスラム教徒が、この地域では圧倒的だったためだろう。

1908年の青年トルコ党による政権奪取はオスマン帝国の骨格を大きく変えた。まずオスマン帝国の軍事力は18世紀までイエニチェリと呼ばれるバルカンのキリスト教徒改宗者、またはその孤児などにより構成された部隊に頼っていた。しかし、ナポレオンのエジプト遠征以降、独立運動がイスラム教徒のなかにも発生し、宗教の枠を越えた民族運動となった。

オスマン帝国は新たにイスラム教徒かつトルコ人からなる軍事力を創設せざるを得なくなり、その過程でむしろトルコ民族運動として青年トルコ党革命が成功したと言える。この過渡期のさなか第1次バルカン戦争で敗北、いよいよトルコ人国民国家となる宿命を負った。ところが青年トルコ党とくにエンベルは、汎トルコ運動の夢をもっていた。トルコ語を喋るトルコ人は遊牧民として中央アジアでも圧倒的であり、サマルカンドからイスタンブールに至る大トルコ帝国は、ヨーロッパとアナトリアに両足を置いたオスマン帝国より更に魅力的に写った。

障害となるのは帝政ロシアと大英帝国であることは明らかで、トルコが中央同盟に組したことは戦略上無理がない選択だった。ところが両地域を結合させた大トルコ帝国の中央に占める非イスラム・非トルコ民族はアルメニア人となる。

虐殺の発端・方法

1915年4月8日、三頭政治(エンベル・ジェマル・タラート)のうち内政を担当するタラートは内密裡にアルメニア人の追放乃至殺害を決定し、おそらく追放を指示した。

1915年頃撮影されたとされるが確証はない。

4月24日イスタンブールでアルメニア人政治リーダーが集められ多数殺害された。これを現在アルメニア人は虐殺開始日として記念日にしている。

アレッポで1915年に撮影された。これも確証はない。

この種の虐殺の常として正確さを期することは難しい。ただ残された写真や数少ない行政報告により組織的に行われたことは疑いない。

またアルメニア人は、この虐殺が開始された当時トルコ政府の意図を疑っておらず大半は従順に官憲の指示に従ったと言う。戦争は開始されていたが戦闘は主として山間部で行われたため危機意識が薄かったのだろう。コーカサス戦線の戦況不利、英軍のガリポリに上陸があった時期で、エンベルやタラートが心理的に追い詰められていたことは否定できない。

方法は、徴兵を実施すると言う名目で成年男子を集合させ、多くは村落毎の集会所近辺で処刑する方法がとられた。残された女性・子供は集められ僅かな手荷物だけで、騎乗の憲兵のもと、シリアのアレッポ周辺まで徒歩で行進させられた。

この間、都市を除いてアルメニア人からの抵抗はほとんどなかった。これは不思議かもしれないが、通常民間人が猟銃程度で抵抗しても、組織された軍隊に勝つことは不可能である。20世紀の現象、わずか数百人の組織された小火器をもつ集団に数万人が対抗できないという現象が早くも生じていた。

第1次大戦の終了

この地域の戦争終了は1922年のローザンヌ条約の成立を待たねばならなかった。ケマルの政府は戦時中の三人の青年トルコ党のリーダーに死刑を宣告し、数年をまたずして三人とも病気などによらない非業の死を遂げた。

アルメニア人はセーブル条約の成立をみて再度組織的に帰還を試みたが、ケマルの武力に抗することはできず、またボルシェビキもトルコとの争闘を歓迎しなかった。実際は、カスピ海西岸は、バクーなどの拠点を除けば、トルコ兵の駐留が続いていた。功罪はあるにしても、北岸は最悪の飢饉に見舞われており、治安を維持するために駐留が必要な情勢だった。

この時期にボルシェビキやイスラム教徒に殺されたアルメニア人は、トルコ国内での虐殺に匹敵すると言われる。

この問題は残念なことに解決済みである。すなわち現在アルメニア公教会信者のアルメニア人はトルコ領内に存在しない。アルメニア人は依然、トルコ領内の旧アルメニア人居住区および、トルコ領アレッポ周辺(小アルメニアという)を領土として要求しているものの、現実的なものとはならないだろう。その意味で成功した民族浄化と言えなくもない(成功した民族浄化の例はこれだけではない)。

しかしアルメニア人が故郷の山アララト山を忘れることも決してないだろう。アララト山


Kirakossian J.S., The Armenian Genocide ; The Young Turks before the Judgement of History, Madison, 1992

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