アンザック軍団


アンザック軍団(Australian NewZealand Army Corps)はオーストラリア人とニュージーランド人とで構成された、イギリス軍のなかの軍団、師団、旅団でガリポリ半島、フランス、中東で戦った。

限定された自治が1901年オーストリア・ニュージーランドに認められた。ただ両国で常備軍は民兵を除いて1個歩兵師団と1個騎兵旅団しかなく、またその訓練・装備は十分ではなく、統帥上はイギリス帝国参謀本部の指揮下にはいると了解されていた。

当時はカナダ(ニューファウンドランドを含む)・オーストラリアと南アフリカ以外の自治領は、本国の参戦とともに自動的に交戦国となった。この3国は、ロンドンに高等弁務官とその行政組織を設けており、本国とは外交関係ではなく内政に関与するのと同等の活動を行っていた。現在でもロンドンに残るカナディアンハウスなどはその時の名残である。開戦時は3国とも一応相談は受けたようである。

白豪主義

オーストラリアは本国より先行して労働党が政権をとった。オーストラリアの労働党はアンドルー・フィシャーによって設立された。フィシャーは23歳のときクイーンズランドに渡った元炭坑夫で教養はなかったといわれる。フィシャーは短い期間を除き1901年から1915年まで政権を掌握した。

だがこの政権は、南アフリカのスムート政権と同様に悪質で、国内に厳格な人種差別政策を実施した。すなわち先住民(アボリジニ)を矯正すると称して、子供に英語教育を強制しまた親と隔離、イングランド・国教会またはスコットランド・長老派教会、ウェールズ・自由教会などの牧師が先導しその信者の家で家事労働に従事させた。この取り扱いはニュージーランドのマオリ族との協定と比較しても過酷なもので、この過程のなかでアボリジニの約半数が死亡したと言われる。多くは強制収容所で、医療がうけられず病死した。また注意すべきなのは、この行為がアメリカの開拓時代と異なり国家の意思で行われ、かつヒトラーと異なり事実を隠していないことだ。そのうえイギリス本国または自治領からの移民受け入れをも制限した。

白人でもユダヤ人やスラブ系は受け入れていない。また日本人以外の有色人種は入国そのものを拒否した。結果としてこの時、オーストラリア人口の96%はイギリスのプロテスタントだった。政治上争ったのは、カトリックのアイルランド系の人々だけだった。この政策は半独立後、労働者の現行賃金維持の観点から実施されたといわれる。

この自治領(ドミニオン)というのは国際法上は植民地と同様と思われるが、オーストラリア政府は日英通商航海条約を批准せず、日本人の入国について軍人を含む公務員以外認めなかった。以前ボタンなどに使用された蝶ちょ貝の漁でトラブルが生じたのはこのためだ。ただ実際は、日英同盟の関係で政府間の関係は良好でとくに外交官などはむしろ好印象をもった人々も多い。もともとこの白豪主義はボーア戦争時の中国人労働者の南アフリカ入国に伴う本国を巻き込む政争で出てきた面もあり、始めは日本人というより中国人を狙ったものである。この点では加州の紛争と似ている。

1960年代に至り、日本への輸出増大により一時日本人が名誉白人と分類されたことがあるが、その種の宥和策に溺れてはいけない。1965年頃からアメリカからの圧力の耐えられずついに移民上および国内法上の差別は撤廃したと自称しているが、現在も日本人にたいするものを除き実態上改善されているかは疑わしい。

募兵

オーストラリア政府はその国是からして、入隊はイギリス系白人、すなわちノンコンフォーミスト(国教会に入らない人々)を含むプロテスタントに限定された。イギリス本国でも当時、カトリック教徒は将校を含む高級国家公務員になれないという規則(反スチュワート家運動からだという。)があり、それと類似しているが、スチュワート家がオーストラリアに興味があるはずもなく、イギリスからの出身者を優先させたに違いない。元来オーストラリアは本国の開戦原因のベルギー中立侵犯とは直接関係を有しない。

またベルギー中立侵犯に対抗するという大義も抽象的なものだから、オーストラリア人の意識のなかの宗主国また出身地への愛情がこの戦争にかりたてたとみて良いだろう。また政治家の一部にドイツの山東半島を除く太平洋の利権、とりわけニューギニア(イリアンまたはパプアとも)島への領土的野心があった。これは、日本の参戦問題に複雑な影というより、愚かしくも単純な影を投げかけた。

また労働党政権はついに徴兵制度を実施せず(このような差別があっては国民皆兵はできない。)すべて傭兵制度に頼った。

そして注意せねばならないのは、アンザック軍団はシベリアに派兵された日本軍やフランスに派兵されたアメリカ軍(AEF)とは根本的に違うことである。すなわち、オーストラリアには1個歩兵師団と若干の騎兵を除いて全く常備軍がなくそもそもまともな将校団が存在しなかった。このためアンザック軍団の将校はイギリス本国人である。また制服を除く全ての装備はイギリス本国負担だった。それどころか軍隊の維持に必要な諸後方部隊(兵站・鉄道・医療・主計・訓練・情報・宣伝など)を全く保有せず、言わば打撃兵力のためのみイギリス本国に雇われる形だった。

このことから第1次大戦では打撃兵力(前線部隊)が最も訓練を必要としないことがわかる。またカナダ軍団は、後方部隊で本国軍と重複し必要のないもの以外は保有しており、当初から師団のなかで師団長以外は全てカナダ人だった。この差は常備軍の日常における訓練の差で、カナダ軍は常備軍こそ少ないが将校団と予備兵は良好な状態を維持していた。カナダ軍団で最も有名な部隊のプリンセスパトリシア軽歩兵連隊は第1次イープルの戦いですでにイギリス常備軍(レギュラー・アーミー)と並んで戦っていた。

給与はところがイギリス軍兵士より高かった。オーストラリア兵士はイギリス軍の徴兵制度移行前の給与より50%増しの最低月額3ポンドを受け取っていた。ドイツ軍は中央同盟国で最も高く月額10マルク最低保証でこれは、換算すれば1.2ポンド程度と思われる。この水準は当時のオーストラリアの平均賃金よりやや低いと言われるが、衣食住を考慮すれば破格と思われる。ちなみに日本軍は3.2円で、0.8ポンド程度である。従ってオーストラリア兵士の賃金は全世界最高水準で、このことが募兵を成功に導いたことは疑いない。

派兵

派兵自体は決定されたが、常備軍の1個師団すら予備兵を含めて充員体制ができていなかった。オーストラリア政府はこの派遣すべき軍をオーストラリア帝国軍(AIF Australian Imperial Force)と呼んだ。しかしオーストラリア軍は異質な部分を含まないから、純粋の国民軍にすぎない。ニュージ−ランド軍を含むアンザック軍団という呼称はイギリス軍が開始したものである。

オーストラリア人は現在では帝国軍という呼称をこの軍にたいして使用していない。第2次大戦でオーストラリア軍の本国部隊(主力は北アフリカにありロンメルと戦っていた。)はシンガポールで全滅した。その後残念なことに、日本軍による捕虜にたいする虐待行為が発生した。日本領土プロパーで死亡したイギリス系軍人については現在でも横浜・狩場にあるコモンウェルス共同墓地に埋葬されている。エリザベス女王は来日のおり訪問された。従って第2次大戦では全体としてブリティシュ・コモンウェルス軍と呼ぶようである。帝国軍という呼称は時代がくだるにつれ、抵抗が増したのだろう。

そして訓練の状態は劣悪でほとんど戦闘用のライフル(ボルトアクション式歩兵銃)を手にしたことがなかった。また教育係り将校自体の訓練も不十分でイギリス本国人によりエジプトで全員を訓練させることが決まった。実際はこの時、本国でキッチナー陸軍が募集、訓練期間中で本国にも兵営の余裕すらなかった。

キッチナー陸軍

また、ドイツ東洋艦隊が活発で、ニュージーランド政府はエムデンによるペナン襲撃の報に驚愕し派兵の無期限延期を本国に要請した。これにたいし本国政府は日本に派遣艦隊の護衛を依頼し、日本も快諾した。日本は南遣艦隊(加藤寛治)を編成したが、アンザック部隊の補充は絶えることがなく、休戦日まで豪州、スエズ(アデン)間の護衛に従事した。

始めにエジプトに到着したのは1914年12月で、以降同地で訓練に明け暮れることになる。

戦闘

実際の戦闘に加わったのは1915年4月ガリポリ上陸作戦からだ。キッチナーはトルコ軍が弱体で腐敗した軍だとの先入観から脱しきれず、未訓練の軍でも十分だとしてアンザック軍団の派遣を決定した。しかしこの戦いは希に見る惨戦となった。トルコ軍はケマルに指揮されており、またケマルは第1次大戦で陣地戦の要諦を最も早くつかんだ人物だった。ケマルの指揮に翻弄されることになるのはオーストラリア人が始めてだが最後ではない。

ガリポリ戦は上陸戦だが第2次大戦にみられる敵前上陸戦ではない。むしろ片方が海岸を背にした塹壕戦である。塹壕戦の基本は予備隊の使用とその交通線の確保にある。イギリス軍の全体の作戦はイアン・ハミルトンだが決して凡将ではなく、むしろ全体作戦は当時の知識を前提にすれば優れていたと言える。

アンザック軍団兵士。

特徴のある帽子をかぶっている。ガリポリ半島。負傷兵をかついでいるのはオーストラリア騎乗狙撃兵第13大隊伍長ギルバートである。負傷兵は、トルコ軍の狙撃兵による銃弾が頭部に命中した。

またトルコ軍は長距離重砲が十分でなく海路からの補給を断つ作戦はたてることができなかった。このため著しく前線の戦闘は苛烈なものだったが、補給の点で両軍とも悩むことは無かった。ところが戦闘はイギリス軍が海岸線を離れて前線を突破することができず、海岸線沿いに膠着した。これはケマルがトルコ軍の塹壕を縦深性をもって接近させかつ常に一段高い線に設定したためである。ケマルのこの塹壕線の設置方法は独特のもので、以前に例はなく独創とみられる。これ以降もケマルは防御戦かつ塹壕戦では不敗の英雄であり続けた。

この戦いでアンザック軍団は26000人の損害を受けた。

次ぎに派遣されたのは中東戦線を除き、フランスだった。ガリポリを撤退したのは1915年12月で、その後6ヶ月間エジプトで訓練に明け暮れた。1917年7月のソンム戦初日には間に合わず、その後半に北部で戦った。

ポジエール

受けた損害は9月と10月のみであるが、23000人に達した。

1917年は第3次イープル戦に前哨戦も含めて参加した。メシヌリッジ爆破作戦とポリゴンの森争奪戦が主なもので、プルーマーの指揮下にあることが多かった。この戦いは泥の戦いと呼ばれた通り、攻撃側が一方的に損害を受けた。

損害は48000人と言われる。

1918年のカイザー戦では直接ドイツ軍の攻撃に曝されることはなく、その直後の攻勢移転に参加した。また最終攻勢ではローリンソンビンの指揮下にはいりイギリス軍前進の最先頭となる栄誉を担った。アンザック部隊活躍の攻撃力としての名声はこの時得たものである。そして11月11日の休戦日まで常に最前線にいた。

ニュージーランド兵

1918年頃撮影されたもの。袖章の3本山形は軍曹を示す。帽子は、ガリポリの後オーストラリア兵と区別する意味で採用された、レモン絞り型といわれるもの。襟のバッジは、下りシダで、ニュージーランドの軍服、戦闘服には必ず縫い付けられた。ちなみに現在でも着用されている。ニュージーランンドはオーストラリアと比較すれば、常備軍は整っていた。これは先住民のマオリ族との抗争に備えるためだった。写真の兵士は北オタゴ狙撃兵第10連隊で歴戦の部隊である。

復員

オーストラリア帝国軍にはのべ42万人が参加しそのうち33万人が実際エジプト以遠に派遣された。この数字は当時のオーストラリアの人口650万人と比較すれば破格なものである。

1919年度中に復員は全て完了した。58365人の戦死者、4098人の捕虜、166811人の傷病者を出した。これは交戦国中、ルーマニアに次ぐ被害率である。

これは動員された兵士が全て前線部隊に所属したためだ。

またニュージーランドの人口は当時109万人だったが、このうち12万4000人がアンザック軍団に参加した。これは比率にしてフランスの半分であり、フランスが根こそぎ動員をかけたことを考えれば驚異的な数字だ。そのうち1万7000人が戦死した。チャーチルはニュージーランド兵士にたいしてdauntless、「おそれを知らない」との形容をおくった。


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