(シムラ宣言)

アフガン戦争は通常3次にわたりイギリスとアフガニスタンとの間で戦ったとされる。3回ともイギリス軍は戦争目的を達成できなかったばかりか、第1次アフガン戦争ではイギリス植民地戦争の歴史でアメリカ独立戦争に匹敵する敗北を蒙った。

アフガニスタンは現在では領域国家であるが、当時は部族集合国家の色彩が濃く、また18世紀にはその影響下にある地域は、、サマルカンドからアラビア海に達する広大なものだった。そこで活躍する最大の民族はパシュトゥーン人(およそ総人口の65%)で、言語はインドヨーロッパ語の1種のパシュト語である。ただ北部には、トルコ諸族、タジク人、西部にはペルシャ人、南部にはシーク教徒、またインド諸族がいた。膚の色は気候により北部は白、南にさがり黒くなる。ただ皮膚の色による分類が何を意味するか、アフガニスタンにいる人々には理解できないだろう。また属する緯度は日本とほとんど同じである。

デュラニ王朝

アフガニスタンの言語

アフガニスタンの言語はその地理的環境から複雑である。ただ、想像するより複雑ではない。言語として中心をなすのはパシュト語とペルシャ語である。この二つの言葉を喋る人々で人口の90%に達する。ただしこの二つの言葉は兄弟的性格があり、相互の意思疎通は不可能ではない。また、両方とも方言が多い。パシュト語はアラビア文字とローマ字両方で表記可能である。そして文学は別々に発展したが、双方とも豊かである。

ペルシャ語はハザラ語・ダリ語・タジク語・タブール語とも呼ばれる。ただイラン語と呼ばれることはない。現在の国号イランはパーレビー朝の初代レザ汗がヒトラーのアーリア民族優越説に感動し名づけたものにすぎず、歴史背景のあるものではない。

MAP:アフガニスタンの民族分布

パシュトゥーン人は現在アフガニスタンとパキスタン西部に居住するが、このように分かれて住むようになったのは、イギリスがインド帝国の拡大を計ったことが最大原因だが、自然国境により近づいた結果とも言える。すなわち最短距離でインドに出るにはアレクサンダー大王東征以来有名なカイバル峠を通る。そしてそこを南北に険しい山脈が通る。その山脈を国境とするのは国を作るとすれば自然なことだった。

国民国家の形成には国境が必須である。古代の国境のない社会などに郷愁をもつのは自由だ。しかし領域がなければ治安を維持することなど不可能だ。近代アフガニスタンの歴史は、デュラニ王朝の国王がいかに国境を多数言語の国民に納得させるかが大きな部分を占めた。そしてアフガニスタンにもその国語を確立させるための文学者は多数存在した。

アフガニスタン近代史は戦いの歴史で、これは現在まで続く。そして内陸国(かつてアラビア海に出口を持っていた。そしてパシュトゥーン人統一国家創設運動は現在でも有力である。)にもかかわらず、人口は19世紀に於いてもイラクより多い。そして誤解もあるが、居住する殆どの人々は農耕民で遊牧民ではない。そして山岳などで農地が区切られるため、一団の部族を形成し孤立しがちとなった。そして人々は、自衛のため武装し、時に近隣へ略奪戦を行った。このため、男子はことごとく武装するのが普通だった。これは、中央アジアの山岳・オアシスに広く見られる現象である。ただパシュトゥーン人はこの周辺の地域で人口ブロックとしてペルシャ人に続き第2位である。

1920年まで使用されたアフガニスタン国旗

そして、戦争指導者となったのは農民ではなく非定住の武装キャラバン商人である。キャラバン商人は都市に定住するバザール商人とは異なり都市間で移動する方法を身に付けていた。そして多くは数ヶ国語をあやつり、また中核となる数百人の武装勢力を保有していた。

これはパシュトゥーン人の独特の風習とイスラム教の教義が結合したものだった。パシュトゥーン人は客人を非常に大切にした。これは都市のリーダーが客人を扶養する代わりに、客人は武力を提供するシステムである。これはイスラムの喜捨の精神に適合した。そして村にはピルと呼ばれるイスラム教の導師がおり、教育と広報の役割を担った。

そしてパシュトゥーン人の慣習では農耕地の相続で兄弟間に差がない。ところが農地の分割は困難で「勝者総どり」の原則があった。このため従兄弟の代になると同族の争いが絶え間なかった。パシュト語の従兄弟は競争者と両義をもつ。多くの場合、導師が通婚を通して、これを調停した。

そして同族間の争いに敗れ村を去る若者の多くが都市の武装集団リーダーの客人となりまた都市で教育を受けイスラム教の導師となった。必然的にこの両者は結合し、パシュトゥーン人の武装力を形成することになる。

第1次アフガン戦争当時の銃はマスケットで先込めのものだった。アフガニスタンでこの程度の火器は、誰もが保有でき、かつ製造能力もあった。戦争指導者は、武器商人・外交官・租税徴収請負人・ジャーナリストなどを兼ねていた。そして興味の中心は都市と動産にあった。

イギリスとロシアの対立

第1次アフガン戦争は1839年開始された。すなわち、ワーテルローの戦いとアヘン戦争の間に発生した。その時、イギリスはその艦隊によって世界中の制海権を制覇していた。だが、この事は陸戦を有利にするが、決定的にするとは言えない。むしろ、量と言う点で世界最大の地上兵力を保有するのはロシアであり、この頃その力は中央アジアからイラン・アフガニスタンに達し、太平洋では、ベーリング海をわたりカリフォルニアに到達していた。

イギリスは地上兵力を本国から大量に送ることはできない。ただこれはロシアも同じである。まだ鉄道時代になっておらず、兵力を送ることは船でそして徒歩を意味した。モスクワからサマルカンドは気の遠くなる距離である。

これまでにイギリスはインド全域現在のインドとパキスタン・バングラディシュを大英帝国の版図に収めていた。インドは地理上、大英帝国の要を占めるばかりでなく人口でも他の国の植民地を圧倒していた。本国からインドまではその連絡線を確保するだけが目的と思われる都市・島嶼植民地が連なっていた。

イギリスはこのインド植民地の維持の最大の障害をロシアとみなしていた。すなわち不凍港を求めるロシアの南下策を脅威と考えた。これ以降のクリミア戦争、露土戦争、日露戦争の3回の戦いで、イギリスは常にロシアと敵対した。ただ、いずれの場合でも目的が抽象的なものだったのか、それとも実際にロシアがイギリスの権益を阻害する意図を持っていたのかはわからない。

アフガニスタンはロシアとインドの接点に当る。ロシアも軍人を派遣した。だが実際のところ中央アジアに駐在を命じられたロシア軍人はイギリス人に好意的だった。理由は簡単でロシア軍人にとり最大の問題は自国の冒険商人であり、2番目が向背常ならぬ原住民だった。出先でヨーロッパ人と出合ったことはロシア軍人にとり救いだったに違いない。

第1次アフガン戦争前の情勢(シムラ宣言)

ドスト・モハメド汗は1826年カブールに首都を置き、デュラニ王朝直系断絶後の混乱を収拾し全土を統一した。ドストは王位についたあと、南のシーク教徒、西のペルシャ人と果てしない戦いを続けた。戦局は一進一退でドストにとり実りのあるものでなかった。西でヘラートの防衛に成功したが東、ペシャワールはシーク教徒に奪われた。

ドスト・モハメド汗

1937年のヘラートの防衛戦では、ペルシャ側にはロシア人顧問団がいたとも言われるが、ロシア側記録にはない。ドスト側にはイギリス人将校のポッティンガーがおり、実質の指揮をとった。ただこれも軍の命令によったものではない。

MAP

イギリスはインド植民地維持の方策として分離統治を行っていた。すなわちイスラム教徒とヒンズー教徒の対立を温存し、両者を被支配民族の地位に置き、一方シーク教徒やネパール人の半独立を許し、傭兵として軍事力に使った。

この時、イギリス統治の中心はカルカッタにあった。そしてベンガル直轄植民地を除いて統治はあまたの藩王国を間接的に支配するやり方だった。この方法は内乱が絶え間ないインド亜大陸でむしろ歓迎された。そして版図は未だ確定せずまた亜大陸にヨーロッパの国境観念があったとも言えない。そしてイギリス人はロシアと対抗するうえでアフガニスタンが地勢的に重要なことにすぐ気づいた。

ただ当時は、イギリス人もまだアフガニスタンの地理について、探検と言う方法以外知るところがなかった。そして、この事態は第2次大戦後自動車が広範囲に利用されるまで続く。イギリス人はドストの宮廷に探検家であり軍人のバーンズを派遣した。

ドストは有能な君主だった。しかしついに滅亡させることができない敵が二人いた。一人はヘラート太守のカムラン・シャー、二人目は退位させられたデュラニ王朝直系の元国王、シャー・シュジャーだった。しかもシャー・シュジャーはペシャワールを統治するランジット・シンに身を寄せていた。ランジット・シンはシーク教徒でパンジャブ州を中心とする藩王国を築いていた。ドストはペシャワールをアフガニスタンにとり不可分の領土だとみなしていた。

バーンズはドストのカブールの宮廷に滞在し、深い信頼を得たとされる。1937年にロシアはウィトケビッチを首領とするコザック騎兵団を使節として派遣した。ドストはロシア人を受け入れず、ロシア人にとりウィトケビッチとバーンズが夕食を伴にしたしたのが最大の収穫だったと言われる。

しかしバーンズの社交も、イギリスがシーク教徒との同盟を維持する限り実りのないものだった。ドストは、ペシャワールを諦めることができない。

1938年1月、カルカッタ総督オークランドはドストにロシアとの外交を停止すること、及びペシャワールを諦めることを要求する文書を送った。これはバーンズの努力を無にするもので、ドストは拒絶した。一方、イギリス本国のパーマストン外相はこのアフガニスタンをめぐる英露の潜在的対立に終止符を打つことを決意した。まずペルシャに圧力をかけ、ヘラートに対する軍事圧力を停止するよう要求した。ペルシャのシャーはペルシャ湾方面にイギリス艦船が出没するに及び、ついにヘラートからの全面撤退を決定した。更に、ロシア本国でも外交交渉を開始し、ウィトケビッチの召還を要求し受け入れられた。ウィトケビッチはペテルブルグへの帰途自殺した。

この本国の外交をみてオークランド総督は強気となった。

ここで、マクナーテンが登場する。マクナーテンはペルシャ語とパシュト語をよくする軍政畑の陸軍将校だった。マクナーテンはオークランド総督に、大胆な案を吹き込んだ。ランジット・シンを説いてシーク教徒軍をアフガニスタンに侵攻させ占領、ドストを退位させ代わりにシャー・シュジャーを復辟させると言うのである。そうすればアフガニスタンが藩王国となるだろう。

しかしシーク教徒の長でもあったランジット・シンは一筋縄では行かない男だった。そしてアフガニスタンに侵攻することは簡単な話でないと理解していた。ランジット・シンは、侵攻軍の指揮をイギリスに譲ると言いかつシャー・シュジャーの復辟には賛成した。マクナーテンはひるまなかった。南ア戦争以降のイギリス人には見られない好戦的な男だった。オークランド総督はマクナーテンに説得された。イギリスとランジット・シン、シャー・シュジャーの間に秘密の協約が結ばれた。シャー・シュジャーはペシャワールを諦める代わりに、復辟が認められるというものだ。そしてイギリス軍が中心となってアフガニスタン侵攻軍を結成することになった。

バーンズはシャー・シュジャーよりドストの方がイギリスにとりましだと主張したが、最早聞き入れる者はいなかった。そしてランジット・シンはほくそえんだ。何もせずにペシャワールが保障されたと…。

オークランド総督は1838年10月1日、シムラ宣言を発表した。

「ドスト・モハメドはイギリス以外の国と悪だくみを企ており、友好的とはみなせない。従ってドストを王位から追放し、シャー・シュジャーに代える。」

この主権国家に対する恥ずべき干渉を当時のイギリスは意に介しなかった。後年、自由党のグラドストンはこの無法な宣言を、その国際法編纂に当り否定すべきものとして参考にした。

ドスト・モハメドが建立した、カブールにあるモスク。左はカブール博物館であるが、両方ともタリバン政権下で破壊されたと伝えられる。

この写真は1983年ごろ撮影されたとして、旧ソ連軍が発表した。このようにカブールは少なくとも1979年の反国王クーデターが発生するまでは美しいイギリス風家屋が並ぶ高原都市だった。

デュラニ王朝は1979年で滅亡したことになる。この時の軍事クーデターの指導者は国王ザヒル・シャーの従兄弟であり、ドスト・モハメドとシャーシュジャーの争いの因縁だろうか。またイスラム教の一夫多妻制により国王の兄弟の数が50人以上になるなどの問題が背景にある。

そしてブレジネフのソ連軍はスターリンのものとは異なり、文化財などに手を触れることはなかった。



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