(退却)

イギリス軍は、カンダハル、ジャララバード、カブールで駐兵を継続した。シャー・シュジャーの統治は全く人気のないものだった。豪華な宮廷生活を維持するために新税を課することまでした。イギリス兵とインド兵は果樹園を兵営とし、カブールに時折通う生活だった。しかしその無思慮な行動はカブール市民の反感を徐々に募らせた。イスラム教徒は自分の家屋を男子ゾーンと女子ゾーンとに分けており、異教徒が女子に声をかけることは許されないことだった。

それでも1年間が無事に過ぎた。この間インダス軍の司令官がエルフィンストーンに代わった。エルフィンストーンはナポレオンとワーテルローで戦ったあと軍政畑を歩み、60歳の申し分のない紳士ではあるが、決断力に欠けていた。

1841年11月2日突発的に事件が起きた。

この頃、カブール市内に住居を持っていたのはバーンズだけだった。バーンズはシャー・シュジャーの顧問官として、王宮に事務所をもっていたためだ。その晩、群集がバーンズの屋敷を取り囲んだ。原因はバーンズの女性関係をめぐってのものらしいがはっきりしない。

とにかく群集はバーンズとの面会を要求した。屋敷は三人のセポイ兵に護衛されていただけだった。バーンズは同時にインダス軍の主計係りだったため金を所有していた。群集を解散させるため、代表に金を渡そうとした。しかしそれは逆効果だった。群集は金が屋敷の中にもっとあると睨み一挙に乱入した。その混乱の中で、バーンズとセポイ兵は殺害された。

アフガニスタンを一番よく知る男が最初の犠牲者となった。

混乱のなかでの銃声は容易に果樹園の兵営に聞こえた。兵士は隊列を組み市内に向かった。ところが、すぐさま逃亡を開始したシャー・シュジャーの兵士と鉢合わせとなった。暴徒はすでに数万人に達していると言う。エルフィンストーンは素早い判断を下せない司令官だった。兵営を出ず、立て篭もることにした。この時手許にはまだ4500人の兵士がいた。

11月23日、ドスト・モハメドの息子モハメド・アクバルが6000人の兵士を率いてカブールに現れた。この時武装している市民は2万人を数えた。兵営の全周から一斉攻撃がかけられた。インダス軍はこの攻撃をよく撥ね退けたが、被害は増加する一方だった。

アフガン人はジェザイルと呼ばれる長銃身の小銃を装備していた。これは大物狩のための猟銃だが、威力はイギリス兵のもつマスケット銃と大差ない。(両方とも先込めで、弾丸・火薬は別。ライフル、後込め式のミニエ銃は、この15年後、フランス人により発明された。)

攻めあぐねたアクバルは休戦交渉を申し込んだ。マクナーテン他三人のイギリス将校が交渉委員となった。会議はカブール河畔の雪原で行われた。しかしアクバルは、ヨーロッパ流の休戦交渉など眼中になかった。4人を会議の途中で捕らえ殺害した。これは決意を他の族長に示すためだった。それでも、エルフィンストーンは動こうとしなかった。アクバルは砲を残して直ちにカブールを立ち去ることを要求した。

この要求をめぐり、イギリス軍内部で対立が起きた。兵営を出てシャー・シュジャーの敗残兵が篭るバラヒサール要塞に止まって抵抗すべきだとある者は説いた。しかしエルフィンストーンはアクバルがジャララバードまでの退路の護衛兵をつけると言う約束を信じ、全面撤退することに決めた。

MAP(カブール=ジャララバード)

ジャララバードは最も近くにイギリス兵が駐留していた都市だった。ただアグガニスタンの高原地帯は夏は昼40度、夜0度冬は昼0度、夜零下40度と言われる気候である。カブールージャララバードは80マイル、1週間の行程だった。

エルフィンストーンは、シャー・シュジャーとその軍3000人をバラヒサール要塞に残し、当時兵営にいた17000人とともに、1942年1月6日カブールを出発した。そのうち700人がヨーロッパ人だったと言われ、また女性・子供を含む12000人の民間人がいた。

バラヒサール要塞

全軍は縦隊で、後衛を配置する行軍隊形をとった。アクバルの約束はすぐさま偽りと判明した。最後尾が兵営を離れた途端、縦隊と並行する高地から狙撃を受けた。街道は川沿いで低地を走っていたから稜線に隠れる敵を見通すことはできない。初日から隊列は崩れ、われがちに逃げ出す烏合の衆となった。そしてカブールから5マイルすぎたところで夜営となった。それまでに大行李は殆ど失われていた。テントはわずか1つしか残されなかった。アフガニスタンで冬、屋外で寝ることは凍死を意味する。この夜すでに相当の死亡者と凍傷患者が出た。

翌日もまた1日中狙撃をうけ、最早組織立った軍隊とは言えない状態となった。本来ここでカブールまたはバラヒサール要塞に引き返す方法もあったが、エルフィンストーンは頑固な男だった。そして夕刻、アクバルが現れた。出発が早すぎ、護衛兵が間に合わなかったと言う。そして先のコード・カボール峠は危険なので、1日待つことを要求、その間に峠を支配する族長と話をつけるというのである。エルフィンストーンはその保証として人質三人を引き渡した。三人のなかにはポッティンガーが含まれていた。そして結果として命拾いをすることになる。

コード・カボール峠はカブール川沿いで4マイルの長さがあった。川の表面は流れているが、底は凍っていた。ここがインダス軍の墓場となった。またもやアクバルの約束は偽りだった。峠の道の両側高地から絶え間ない狙撃が襲った。そして、従来はなかったがアフガン人は縦隊に突撃し非戦闘員を主に刀剣で殺傷し始めた。この時アクバルが現れ止めに入ったと言われるが、扇動したとの見方もありはっきりしない。

1月9日、エルフィンストーンは再度アクバルの保護を求めた。この段階では哀訴に過ぎなかった。アクバルに9人の子供、8人の女性、2人の男性を再度人質として差し出した。これらの人質はこれから数ヶ月過酷な処遇を受けることになる。しかし、アフガン人の攻撃が止まることはなかった。1月10日夕刻までにカブールを出発した17000人のうち兵士750人、非戦闘員4000人しか残らなかった。そしてコードカボール峠を越えた1月12日その数は200人、2000人にまで減ったと言われる。その日、エルフィンストーンは単独でアクバルと交渉に赴き、そのまま捕虜となった。

1830年代のアフガン人

エルフィンストーンは出かける前、指揮権を譲渡することを認めた。これによって残りのインダス軍は始めて実効的な戦闘を開始した。残り200人の兵士は縦隊を解き、方陣となって前進を開始した。しかしアフガン人の攻撃は一向に止まらなかった。ブライドン軍医は好運にも、はぐれた子馬を見つけ飛び乗った。この時、軍医と行動していたのは14騎あったと言われる。

残った歩兵は序々に数を減らしたが45人で方陣を組み。ジャララバードに向かった。しかしガンダマルクで襲撃され、4人を除き殺害された。ブライドン軍医のグループはガンダマルクより更にジャララバードに近い地点で食事中に襲撃を受けた。白兵戦となり、逃亡に成功したのはブライドン軍医だけで、第1号でジャララバードにその姿を見せた。

助かったのはこうして5人に過ぎなかった。

この戦いはどう総括すべきなのだろうか。政治的なことは措き、軍事面だけ考えよう。この敗軍の第一原因はエルフィンストーンの判断の失敗にある。すなわち冬季の山岳地帯の行軍の危険を無視したことである。この死の行進による犠牲者の大半はアフガン人の射撃によるものでもなく、刺殺されたのでもない。凍傷で死亡したのだ。当時、防水機能のある軽量の防寒服はなかった。すなわち零下20度を越える雪原で夜営することは、多くの人間にとり死を意味した。これは冬季、家屋で過ごす人間にはわからない事である。これ以降も第1次大戦のコーカサス戦線でトルコ軍が、フィンランド冬戦争でソ連軍が同様の大量凍死を経験した。

第二にこれもエルフィンストーンの失敗だが、脱出の連絡をジャララバードとつけなかったことである。これも致命的なことでアフガン人の待ち伏せを防げず、途中で連絡をつけることができない結果となった。非常時の連絡体制を事前に準備すべきだった。

第三に縦隊を組んだことである。こういった沢づたいに行軍するときは必ず騎兵の斥候をたて、また歩兵はできうる限りの幅を維持して前進すべきである。ただこれは非戦闘員がいては非常に難しい。そして斥候は夜営できる家屋をとにかく行軍の人数に見合って確保しなければならない。また、その家屋が行軍できる人数の限界で、それは平時に調査されていなければならない。冬季の行軍は数が強さにならない。

それではどうすればよかったのか?

単純に春までカブール/バラヒサール要塞に篭ればよいのだ。もちろん生活環境は劣悪となるが冬季山岳地行進より良いはずだ。エルフィンストーンは敵の善意に頼りすぎた。これはたとえ休戦協定が実施された以降でもあてはまる。とくに軍事的に無抵抗になりかねない要求は絶対に受け入れてはならない。

この戦争の原因はイギリスの傀儡政権樹立を目論む、侵略でありアクバルには防衛と言う大義があった。これは19世紀のイギリスの典型的な外交戦略で、後進国の文明化という傲慢な意識が背景にあった。そしてイギリスのために弁明すれば後の2回のアフガン戦争はアフガニスタンの外交使節受け入れ拒否や侵攻が原因であり、これとはやや異なる。アクバルは侵略に反撃しているのであり、中途半端な策略とか交渉による妥協で安全を計ることは困難だ。

つまり交渉とか熟慮は、侵略前にせねばならない。そして侵略への反撃は徹底したものを予測せねばならない。

そして、話し合い万能主義はこういった場合完全に成り立たず、相手から攻撃されている時、武力を行使する覚悟のない外交は宥和どころか、軍隊と自国民間人の全滅につながりかねない危険なものだと言うことである。もちろん単純に全面降伏しても良くて全員が奴隷として売却された公算が強い。イギリス人の大半はおそらく奴隷となるよりも死を選ぶだろう。


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